生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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「雅宣教」(今の教え)の根本的間違い――それは、雅宣総裁が“現象”の立場に立って「今の教え」を構築していることである! <事例 5> (468)
日時:2013年03月15日 (金) 23時14分
名前:画龍点睛


開祖・谷口雅春先生の『御教え』と「雅宣教」といわれる「今の教え」との根本的相違点は何処にあるのか? それは一言で言えば――

開祖・谷口雅春先生の『御教え』は、「實相」という観点から説かれているのであります。しかし、雅宣総裁は、講習会では生長の家の教えの基本は「唯神實相・唯心所現」とは概論としては説明しておりますが、個別的なことがらに関しては、實相の観点からではなく“現象”の観点から、“現象=実在”という理解の上に立って論じているのであります。この点が「雅宣教」(今の教え)の根本的誤謬であります。以下、個々の事例によってこのことを確認いたします。



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<事例 5>  「契冲造車の公案」が解けぬ雅宣総裁



@ 雅宣総裁は、「炎」・「川」・「肉体」について以下の如く語っている。


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▼ “炎”とは?――肉眼に見える「炎」は、確固不動の塊ではない。その実態は可燃性の物質分子が高速度で酸化反応を起こして行く「流れ」であって、ある温度以上に達した化学反応部分がそれ以下の温度空間と区別され、人間の肉眼に「光」として認識されるのである。この化学反応は、次の段階では「無」に帰して無くなる。この一連のプロセスが高速度に繰り返えされている。プロセスの行き先は「無の世界」である。つまり、物質的な炎という塊はなく、在るのは高速度の化学反応現象だけである。

▼ “川”とは?――「川」という物質が存在するのではなく、存在するものは常に一方から下方へと流れて行っている一定量以上の水だけで、この水の流れを人間は川と呼んでいる。つまり、「川」とは水の流れの一つの呼称に過ぎない。

▼ “肉体”とは?――「肉体」という実体はない。在るのは肉体を構成している物質分子の新陳代謝現象、つまり、物質分子の高速度の入れ替え現象を人間は肉体と呼んでいるに過ぎない。食物が消化酵素によって分解され吸収され肉体細胞となったり生命現象エネルギーに変化して行く。この高速度のプロセスが人生という一定の期間繰り返され、やがてプロセスの繰り返しが遮断される。これが生命現象の終わり、つまり肉体人間の死である。肉体は物質分子の流れの一つの「呼称」にすぎないのであって、「肉体」という実体はない。すなわち「肉体はナイ」のである。>>(『小閑雑感』・平成19年11月4−5日)


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A 斯くのごとく雅宣総裁の所論――これはあくまでも“現象”という立場に立っての“現象論”であって、“實相”という立場に立っての“現象論”ではないのであります。雅宣総裁は、“實相”という言葉だけは知ってはいるが実際は“實相”というものが全然分かっていないといわなければならないのであります。雅宣総裁は、“實相”というものをただ観念的に理解しているにすぎず、「無の関門」を透過されて“實相”を如実に直接体験された開祖・谷口雅春先生のお悟りを単なる個人的体験に過ぎず、萬人に通用する科学的体験ではないと否定しているのであると考えられるのであります。

謙遜なる求道者であるならば、自分は未だ「無の関門」を超え得ていないと知るならば、「無の関門」を透過された先達の言葉に素直に従って、それを信じていくのであるが、自尊心が余りにも強すぎる雅宣総裁にはそれが出来ずに、己の未熟さを顧みないで自説を通そうとするのであります。

雅宣総裁は、現象の立場に立って「炎」を見、「川」を眺め、「肉体」を見るのであります。そして、科学的分析眼で「炎」・「川」・「肉体」の本質を分析していくのであります。雅宣総裁は「炎」・「川」・「肉体」を“物質”として考えてそれを化学方程式に分析して置き換え、 <「炎」とは、高速度の化学反応現象である>・<「川」とは水(H2O)の流れの一つの呼称>・<「肉体」とは物質分子の流れ、すなわち生命現象エネルギーの高速度変化のプロセスの「呼称」>と結論ずけているに過ぎないのであります。それは丁度、禅宗「無門関」契冲造車の公案の如く、いくら車を部分品に分解しても「車」とは何かを把握できなかったと同じく、雅宣総裁はいくら「炎・可和・肉体」を化学的に原子分子の段階まで分解して考えても「炎・川・肉体」と言うものの形而上的概念を把握出来っこはないのであります。


B 開祖・谷口雅春先生はこの問題に関してどのように説かれているか? 私の理解している範囲内で不十分ながら述べさせていただきますと次のようになるのであります。それは「理念の現象化」という事であります。實相世界にある「炎の理念」・「川の理念」・「人間の理念」が、三次元現象世界の環境が整った時に、實相世界にある「理念」(純粋形相)が現象化すると云う事であります。解り易く説明いたしますと、家を建てたい人がいるとします。しかし、まだその段階ではその人を取りまく家を立てるという客観情勢は熟していません。その内に建築資金の目途がつき、希望する場所も現われ土地も手に入って客観情勢が整ってきます。そうすると、その人は先ず自分の欲する家を、實相世界にある純粋形相としての無限相の家の理念から自分の心に希望する姿に具体化する想念を起こし、建築会社(大工さん)と相談して設計図として具体化(特定化)していきます。かくして実際に建築が始まり完成します。これが「理念の現象化」であります。このように「家」というものは、建築資材を設計図通りに組み立てたものですが、その設計図は家を建てたい人の心に出来上がったものであり、その出処は實相世界の純粋形相としての家という「理念」から出発してきているのであります。


C このように「實相」という観点から考えれば、肉眼に見える「炎」とは實相世界にある純粋形相たる「理念の炎」が人間の心(想念)を通して具体的に顕現してきたものであり、簡単に「炎」の本質とは「炎なる理念」と言う事が出来るのであります。同様に「川」とは「川なる理念」・「肉体とは人間という理念」がその本質であると言う事が正解であります。


D したがって、現象の立場に立って現象を見て、化学的分析眼でその現象を分解分析した雅宣総裁の思考と答えは、開祖・谷口雅春先生の『御教え』から見れば完全な誤りであります。この様な間違った教えを時代即応の「今の教え」として信徒に説くのは教えの継承者としての資格は全く無いのであります。雅宣総裁よ、あくまでも間違った「生長の家」の教えを説き続けたいのであれば、速やかに総裁を辞去し「雅宣教」として外部で独立すべきであるぞ。






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