生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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また吠え出したマサノブ君! 「生政連解散」に関して、完全な責任転嫁論を展開! やはり、何か書かずに精神的にイライラがつのるのか? (6484)
日時:2015年03月09日 (月) 18時08分
名前:怒りの信徒B



マサノブ君は相当にイライラしているのがよくわかる。掲示板上では、既に解決済みになっている「生政連解散の蔭の立役者はマサノブ君本人であった!」をまた蒸し返して吠え出した。「初心者」とか「身分卑しきもの」では、=マサノブなる事が証明され知れわたったので、今回は、非常に紛らわしい「神の子さん」とか「志恩さん」とかいうハンドルネームを使って反撃に出て来たのである。これは、「総裁」と言う立場では書けない腹立ち紛れのウップン晴らしであるからだ。まず、マサノブ君の今回の「生政連解散に関する責任転嫁論」に関する投稿箇所を次に掲げる、――



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



159 :神の子さん:2015/03/08(日) 18:28:20 ID:???
清超先生のしたことは生長の家にかなっていたのですか?と聞いているのですが。生政連の活動停止は誰の決定ですか?愛国運動そのものとしての生政連は誰によって停止されたのですか?生長の家の変化を雅春先生が承知の上で、清超先生の指揮により始まったとしたら、それを受け継いでいるのが雅宣総裁でありましたら?どうなるのでしょうか?
皆さんは生長の家の活動を雅宣総裁が変化させた、と云いますが清超先生公認の変化かも知れないと云うことを、私は訊いているのです。

161 :志恩さん:2015/03/08(日) 20:54:24 ID:???
つまり、生政連の活動停止をされたのは、清超先生でありました。ですからその清超先生の行動は雅春先生の意向に適っていたのですか? とお聞きしているのです。生政連停止をされた清超先生は、雅春先生の意を踏みにじった奸賊と云うことになるのですか?志恩さんはどう思われていますか?しかしその停止をされた時には雅春先生は思考に混濁をきたしているようなことはなかったのですから、承知されていたのではありませんか?反総裁、本流派自認の志恩さんは清超先生をどのように評価されますか?ここから始めないと生長の家の運動を正しく判断できないのでないですか?

163 :志恩さん:2015/03/08(日) 23:58:45 ID:???
雅春先生の下でさえ大したことが出来なかった生長の家で、それ以上の事が出来ますか?信徒数は雅春先生の代の信徒の子供、孫の生長に伴う見かけの信徒増加が、清超先生の代に見られただけで、どこやらの元白鳩会長さんのように組織に胡坐をかいていただけではないのでしょうか?組織の衰退は教団本流共に、大した伝道をしなかった結果と思うのですがいかがでしょうか?



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@ この文体・文調はまさしくマサノブ君である。


A マサノブ君は自分の意見を他人の名前を使って発表する前科が既にある。それは、平成元年発行の、谷口清超先生著「新しい開国の時代」である。この本の内容について、少なからずの信徒が読んだ感想として、今までの清超先生のお考えとは思えないとの疑問を持ったのであった。奇しくもその後、マサノブ君は「小(大)閑雑感」で書いたのだった。それは、清超先生と自分が意見を交わしながら話し合った内容であったと。つまり、清超先生の名前で、清超先生の意見は完全無視して自分の意見を大部分の内容として発表したことが判明したのだった。だから、少なからずの信徒が読後の違和感を感じたのだった。マサノブ君はこの様なある意味、卑怯極まりない性格の人間なのだ。


B 「生政連」の実質的解散に関しても、自分は表に出ないで、活動停止を決定させ、清超先生にその発表をさせたのであった。実に巧妙な責任転嫁を為すワルの策士である。


C 「生政連」の活動凍結=実質的解散に関して、「生長の家 今昔物語」号外NO.40に於いて詳しく書かれているので、次に引用させて頂くことにする。



<号外NO.40> 


<はじめに>

「生長の家今昔物語」<号外NO.37>に次のような『公開』のコメントが投稿されました。投稿者は<当時、九州の総本山に雅春先生と共に生活しておられた“元秘書”の方とあります。ご本人公開のコメントですからそのまま原文を掲示させていただきます。

***************

<< 清超とマサノブさんはほとんど会話も無くとても親子とは思えない様子でしたね。さて、生政連の解散についての記述がありましたが、大きな間違いがあるので指摘します。清超先生が雅春先生のお許しを得ないで生政連を「解散」したということは明らかな間違えです。清超先生は雅春先生のご許可を得て「生政連の活動の一時凍結」をされたことが事実です。あの当事、本山に雅春先生と共に生活していた私たちのような者は、全員知っています。おそらく最もその内容をご存知なのは、今も長崎におられるあの方ですから、詳しく当時のことをお聞きになったほうか良いかと思います。今の教えの問題点を指摘してくださるこのブログにはとても感銘しますが、事実と異なることは訂正されたほうが良いと考えましたので投稿しました。>>

***************

この“元秘書氏”からのコメントを読ませて頂き、次の三点に疑問が感じられるのであります。

(1)親子間の(打ち解けた)会話のない息子(長男)に全信徒の将来を委ねる極めて重大な『法燈継承』をさせるべきではない! これが、清超先生の御本心であったと思われるのであります。 然らば、御存命中に何故、長男以外の「次期法燈継承者」を決定し公表されなかったのであろうか?この最大疑問に行き着くのであります。

(2)元秘書氏は<<清超先生は雅春先生のご許可を得て「生政連の活動の一時凍結(とうけつ)」をされたことが事実です。>>と書かれておりますが、この正確な日時はいつのことでしょうか?

『歴史から何を学ぶか』(谷口雅宣監修)には<昭和58年8月15日、生政連の活動停止を『聖使命』で発表>とあります。「活動の一時凍結」と「活動停止」とは天地間ほどの大きな隔たりがあります。“一時凍結”は“活動の再開”を前提としており、“活動停止”は“活動の終結=解散”を前提とした言葉であります。 清超先生は雅春先生のご許可を得るときに“どのような内容の説明”をされたのでしょうか? また、雅春先生が“許可”を与えられたのは、「活動の一時凍結」でしょうか?「活動停止=解散」なのでしょうか?

(3)『聖使命』昭和58年8月15日、「生政連の活動停止」は開祖・谷口雅春先生の許可を得て発表されたものなのでしょうか?「一時凍結」から「活動停止」へ、さらに「実質的解散」へとなし崩し的に事が運ばれて行ったと思われるのであります。これは、果たして誰の意思なのでしょうか?



<実態の判明>

 当、信徒連合では、当時の状況に詳しい幾人かの方々に上記の疑問点を示してご解答を得ました。次にその要点をまとめて記述申し上げます。

1、「政治活動の一時停止」ということを総裁(当時)・谷口雅春先生にご承諾をいただいたかどうかという点に関しては、狭義の意味では「ご承諾を得た」と考えるしかないであろう。

2、ただし、谷口雅春先生に報告され、先生も承知されたのは「選挙活動に代表される政治活動の一時停止」ということであったと思われる。

3、何故なら、そのことは雅春先生ご自身が既に昭和43年の参議院選挙の直後にも措置なされたことがあったことであり、そういう内容としてご理解なされたと思われる。(おそらく、報告もそういう内容としてなされたのではと推測される)

4、ところが、「選挙における支援活動の停止」に留まらず、愛国運動、あるいは国を護るという立場から長年国民運動を共に進めてきた友好諸団体との提携も全て絶ってしまった。これらの諸団体は谷口雅春先生が朝比奈宗源師とともに呼びかけ人になられて、日本を精神的に護るための国民運動に加わって共に努力してきたのであった。 谷口雅春先生の呼びかけに応じて共に日本国の為に参加してくださった諸団体の人々を裏切ってしまったのであった。 そういうことは雅春先生には全く報告もされることなく決定され、進められたというのが真実かと思われる。

5、何故なら、そういう方針が次々と実施されていた頃、生長の家の組織信徒ではないが、雅春先生と親交のあったさる御仁が雅春先生に「先生は生長の家が愛国運動から撤退するということをご承知なされたのかどうか」をお手紙で問われた。

 そしてまた別の御仁(ごじん)が長崎の総裁邸に出向かれ、輝子先生に面会されて、同様のことを直接お尋ねするに及び、輝子先生も驚かれ、雅春先生にお伝えしたところ、先生が激怒、「直ぐに○○を呼べ」と仰せられたという。

 ○○氏は当時長崎総本山の責任者だったが、先生の御前でしどろもどろ、何ら明確なご返答を申しあげることなく早々に引き下がった、ということが、当時確かな情報として伝えられている。

6、生政連の解散、即ち政治資金規正法に基づく法的な手続きは、昭和59年2月のことだが、この措置は雅春先生には全く報告も為されることなく、当然ご承諾も得ることなく進められたのが真実。

7、重大なことは、雅春先生には「政治活動の一時停止」ということで報告し、 選挙活動にとどまらず、政治活動全般、愛国運動からも撤退し、さらには開祖・谷口雅春先生の根本理念すらも捻じ曲げてしまったことである。“元秘書氏”は「雅春先生の許可を得た」というが、許可を得るために為された報告の内容についてはどこにも明らかにされておらず、どこでも吟味されていない。

8、「生長の家が推薦した全国区(比例区)の候補者を自民党は22番という当選不可能な順位にした。このような政党の下部組織のように扱われる生政連ならいらない、当面活動停止にしたい・・・」という報告がなされたかも知れないではないか。事実、当時そのよに生政連組織の内外では受け取られていたが、清超先生はこの点について当事者の生政連に対して何も明確に説明されていない。

9、元々、政治活動、選挙活動には懐疑的(かいぎてき)で、さほどの情熱をお示しになられなかった第二代総裁・谷口清超先生は、ご自身が主導して推薦(すいせん)を決定した候補者(寺内弘子氏)が、自民党の裁定で名簿搭載(とうさい)順位を下位にランクされて落選したこの機会に、政治活動の一時停止を進言なされた可能性は極めて高いと思われる。

10、どのような報告がなされ、雅春先生がどのように理解されてご了解なされたのかの真実は今となっては明らかにすることは出来ない。しかし、雅春先生は、憲法問題はじめ、優生保護法の改正、あるいは教育を正す運動等々、先生御自身が提唱され、先頭にお立ちになって進めてこられた、国の元を正す運動をも一切取りやめるなどということまで御了解なされたということは断じてないと確信する。それどころか、今、雅春先生がご存命であられれば、今日の鳩山内閣の如き”亡国政治”には国民挙って立ち上がって、この内閣を倒せと獅子吼(ししく)されたに違いありません。

***

 昭和58年当時の決定が雅春先生の御了解を得ることなく進められた、というのはそうしたことも含めて論じられるべきと考える。“生政連活動の停止”について論じられる時、常に昭和43年の谷口雅春先生の”生政連活動の凍結”の措置が引き合いに出される。だから、昭和58年の活動の停止も正しいのだと言わんばかりの論理の展開である。しかし、これは根本的に間違っている。雅春先生が”凍結”の措置をとられたのは一つには選挙活動に力を注いだが為に、全国の教化部や道場の集会活動から宗教の純粋さや清潔さが失われてはいなかったかという反省からであった。

二つには選挙活動を激しく展開した後遺症で、生長の家の相白青の三つの組織のあり方が崩れてきてはいないかという懸念からであった。

三つめには、何よりも宗教面の力を蓄え、来る国難に備えるべきだとの深い憂国(ゆうこく)の想いからに他ならなったことを忘れてはならないと思うのである。

 その国難というのは、昭和45年に日米安保条約が自動延長の期間に入る時を期して再び35年安保の時のような国内騒擾(そうゆう)の心配もあったからである。そうした動きに備え、信徒は力を蓄え、同士を募(つの)っておくべし、というのが御意志であったと思うのである。

 事実、翌昭和44年には生政連活動の再開を命ぜられたのである。 昭和58年に活動の一時停止措置が決定、実行に移されたことをいいことに、全ての活動から撤退するなどは、まさに開祖・谷口雅春先生の願いを踏みにじる行為に他ならない。


<結論>

「一時凍結(停止)」と「活動停止」とは全然意味が異なります。したがって、<清超先生が雅春先生のお許しを得ないで生政連を実質的に「解散」した>ということは、上記の調査結果やその後の今日に到るまでの原宿教団の動きの推移を見れば間違いないことであります。そしてそこまで強引にことが運ばれていった裏の事情がある事は確かであって、それは現・マサノブ(自称)総裁の確信としての左翼思想と人並みはずれた白を黒と言い換えてしまうほどの強引な意志貫徹力と執念深さの存在があったことは否定する余地はないのであり、更に、マサノブ君のこの常識では考えられない異常性格としての日本破壊に向けての意志貫徹力は目に見えない世界からの強力な破壊的想念によって増幅されているとしか説明の仕様はないのであります。故に最終的結論としては、清超先生を言葉巧みに強引に説得して「生政連」の実質的消滅に導いていった陰の立役者はマサノブ(自称)総裁であります。日本を左翼思想の侵略から護ってきた実績ある「生政連」の活動は失敗であったとマサノブ君は臆面もなく平気で堂々と書いたのであります。こう言った点からもマサノブ君は「生長の家・総裁」と名乗る資格は全くなく、どうしても名乗り続けたいならば、「総裁辞職」し、「教団退去」して「マサノブ教・総裁」と名のるべきであります。(完)

平成22年3月30日発信
 本当の「生長の家」を伝え遺す信徒連合・作成






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