生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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「破壊屋」マサノブ君! 君には“ムスビ”を語る資格はない! <その一> 3・21「枯れ松模様」 (6586) |
- 日時:2015年03月25日 (水) 00時05分
名前:怒れる信徒Σ
平成27年(2015年)3月21日 (土)「枯れ松模様」=結び合うこと=(要旨)
<< 「ムスビ」というこ。・・・この語は奈良時代には「産霊」と書いて、もともとは「ムスヒ」と発音したらしい。「産」が「ムス」であり、「霊」が「ヒ」である。ものを産生する霊力のことを、そう言ったのである。もともとは見知らぬ同士で無関係であっても、ある時、ある場所で知り合い、互いに惹かれることで恋人となり、やがて夫婦となる。すると、子が産まれる。二つのものが合一して新たな価値が生まれることが「ムスビ」である。・・・ 谷口雅春先生の御文章にも、同じことが書いてある−− “新価値の創造”である。それで左と右、陽と陰とが完全に結び合うと、このように“新しい価値”が其処から生まれてくるのであります。愛は自他一体のはたらき、陰と現われ、陽と現われているけれども“本来一つ”であるから、互いに結ばれて一つになることです。“愛”というのは“自他一体”の実相の再認識であります。こういうふうに、宇宙の本源なるところの本来一つの神様が、二つに分かれ、陽と陰とに分かれたのがそれが再び一つに結ばれて“新価値”を生み出す働きをするのが、“高御産巣日神”“神産巣日神”である。」(『古事記と現代の預言』、p. 32、原文は旧漢字)・・・ 「分かれたもの」とは「無関係なもの」である。「分かれたように見えているもの」とは、本来は一つであっても、今は一時的な事情や条件によって「別物に見えている」という意味だ。 重要なのは、「隠された関係性」である。・・・「白飯」と「梅干」の2つは、ともに人間が自然界に働きかけて作ったものであり、山中や森に普通に転がっているものではない。ではなぜ、そういう人手をかけたもの2つが選ばれ、握り飯として1つに結び合わされたかというと、その背後には、「簡単に作れ、かつ持ち運ぶことができ、かつ栄養価のある食品を作りたい」という人間の意思が存在しているからだ。これが、お結びの場合の「隠された関係性」である。 「ムスビ」という考え方は、この「隠された関係性」が存在することを前提にしている。このように考えていくと、「人間は物事を見るときに、見る対象を大別して2つの“固まり”に分けたうえで、その2つの“固まり”の間の関係として捉える」というマテ=ブランコの洞察は、さらに味わい深いものと感じられる。私が言いたいのは、「隠された関係性」というのは、それを見る人間の心の中にあるものなのか、それともその人の心から離れたところに初めから存在するものなのか、という問題である。マテ=ブランコは前者の解釈をしており、「ムスビ」の考えは後者にもとづく。どちらが本当かの判断は、なかなか難しい。>> 谷口 雅宣
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<感想>
@ マサノブ君の文章は、「小人閑居にして不善をなす」――「マサノブ大閑人、ヒマもてあまし理屈を述べる」
A マサノブ君は、「ムスビ」に関する理屈(分析論)だけは論じられるが、果して「ムスビ」の原理の応用問題としての個人指導は出来ないであろう。「離婚相談」や「夫婦喧嘩」や「親子の葛藤」や「家庭崩壊」の個人指導の経験は、宗教家を名乗ってはいるが絶無であろう。一度、「講習会」で実際の個人指導をしてみたら・・・
B マサノブ君は、「結婚とは、もともとは見知らぬ無関係な者同士のムスビのように見えるが,その奥には、隠された関係性がある」と云う。しかし、その“隠された関係性”の説明をしていない。
C マサノブ君自体はどうなんだ? 「ムスビ」ではなく、「断絶」・「離反」・「分裂」・「解体」――具体的には、兄弟姉妹との断絶、実母との断絶、息子の結婚式にも親・兄弟の出席なし、お通夜で気に入らない身内を追い返す、和気あい合いの信徒を「本流」と「別派」に分断、果ては「生長の家」の解体・・・汝には「ムスビ」を語る資格なし! 汝は最早宗教家に値しない!
D <どちらが本当かの判断は中々ムツカシイ>のであれば、初めからこんな理屈だけを捏ね、実際問題には無力な文章など作らないほうがよいのである。
E われわれ信徒は、「小人閑居にして不善をなす」宗教貴族のマサノブ君の面倒を浄財を奉納して見ているのではない。衆生救済を止め、理屈遊びを続けるのであれば、トットと出て行き、「環境の家・マサノブ教」という別宗を独立させるべきである。
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