生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第二十七話> (491) |
- 日時:2013年03月17日 (日) 09時23分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第二十七話(通算第353話)
西田哲学との比較に於ける人間論 <その九>
『人間死んでも死なぬ』P.351−353
兎も角、私は<超時>の「今」に立っているのである。また何人も<そこ>に立っているのだけれどもそれに気付かないだけである。
そこは空間的静止的投影と時間的流動面的投影とが相交叉せる未剖分の「今」であるから、そこには空間もなく、時間も無い。
空間がないから、空間的ひろがりを成している物質は無論なく、時間がないから、時間の流れの中に不断に変化流転する「我」もなく「心」もない。
「無我、物質無、而して心もない」と生命の實相哲学で云われるのは、斯かる超時的実在の中に立った自覚の時にのみ言い得る言葉なのである。
かく、時間も<なく>、空間も<ない>超時空的「今」に立って観ずるとき、時間も空間も共に一点として「今」の中に交叉して<ある>。併しそれはもう時間とも空間とも呼ぶことは出来ない。時空の<ない>と<ある>とは交叉し、物の<ない>と<ある>とは交叉している。
斯くの如き生長の家的自覚から、西田哲学の「時間即空間・空間即時間」「実在即現象・現象即実在」「絶対の無即有」と呼ばれる概念が来るのであろうかともおもわれる。(瀧澤氏の本、P.3・7)
若しそうなれば斯かる考え方の中には生命の實相哲学(以下、谷口哲学と呼ぶ)と西田哲学とは極めて近似するものがあり、或いは殆ど同一であろうとさえ思われる点があるのである。
しかし、如上の相反するものを「即」を以って結び合わす西田哲学の諸概念のうちから「実在即現象・現象即実在」を一例にとり来るならば、西田哲学と谷口哲学とは極めて類似しながら、極めて微妙の点で著しい相異を結果しているのではないかと思われるのである。
現象即実在と云う言葉は仏教の中でも見出し得る言葉でもあるが、(法華経、諸法実相)谷口哲学では「現象無し実在“のみ”<有る>。」と云い、(『生命の實相』第24巻の質疑篇)<ある>ものは<ある>、“無い”ものは“無い”とハッキリ区別せよと云い、<ある>ようで“ない”ようで有無曖昧(あいまい)不明の概念を持っていると、その哲学が実際生活に生きて来る力がないと云う。(『生命の實相』第19−20巻・自伝篇)
また現象は投影(かげ)であると云い、投影(かげ)は<本来無い>のだと云い、<本来無い>ものは<全然無い>のだと云い、肉体は現象であるから投影(かげ)であり、投影(かげ)は鏡面の映像如きものであるから、<映像は本来無い>のであって、従って<全然無い>のであって、<実物の人間だけが本来有る>のだと云う。
現象と実在とは映像と実物の人間とが“相即”の関係にあると云う意味に於いて谷口哲学に於いても「現象即実在」とも言い得られるのであるが、それは現象と実在とは相即の関係を有すると云うだけのことであって、<現象そのもの>が実在であると云う意味でも、実在そのものが現象していると云う意味でもない。
谷口哲学はただ実在(あるもの)“のみ”が<有る>と云い現象は実在に対して映像(かげ)の関係にあるのみであって何処までも、現象は実物では無いと云う。若し現象<そのもの>が実在であると云うのであるならば、肉体即人間・人間即肉体と云わなければならないが、谷口哲学では「肉体は人間に非ず」(谷口雅春著『甘露の法雨』)と截然(せつぜん)として肉体を抹殺し去る。
ここに<本当の人間>または<真の人間>と云う術語が案出され、「真の人間は物質に非ず、肉体にあらず」(前同)と云われているのである。>>
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