生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その12> =持ちつ持たれつの世界、世話する人・世話される人= (498) |
- 日時:2013年03月17日 (日) 11時12分
名前:信徒連合
開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その12>
=持ちつ持たれつの世界、世話する人・世話される人=
『生命の實相』第15巻・人生問答篇(P.108〜110)
谷口:
・・・この世の中は持ちつ持たれつの世界であり、互に融通し合い助け合うようにできている以上は与えることも与えられることも両方ともありがたい結構なことでなければならないのです。
世話になったと思うと自分が急に小さくなったような気がし、世話してあげたと思うと急に自分が大きくなったような気がするようでは本当ではないのです。
人間は世話になってもそんなに小さくなるものでもなく、世話をしてもそんなに大きくなるものでもないのです。
人間の大きさはそんなところにあるのではない、人間の大きさは、人間が神の子である点にあるのです。
その人間の「神の子」としての神性があらわれた結果として、世話する働きともなり、世話される働きともなる。
そこで世話する者も世話される者も“一如”だということが解って、そこになんともいえぬありがたさが湧いてくる。これが本当のありがたさなんです。
われわれがありがたいというのは世話されたからありがたいというのでは我のありがたさなので本当の真理を知ったありがたさではないのです。
そんなありがたさなら、世話されない時にはありがたくなくなる。それでは本当のありがたさではない。世話する人も世話される人もみんな一つの神から出ている、その神性の自覚から出発したありがたさでないと本当のありがたさだとはいえないのです。
もし人間が他(ひと)を世話したときには自分が偉くなった気がし、他(ひと)に世話されたときには卑屈な小さな気がしなければならないのであったならば、他(ひと)を世話することはそんなに善事(よいこと)ではなくなるでしょう。
なぜならその人は、他(ひと)を世話するたびごとに、自分の心が傲慢になり、相手の心を小さくし卑屈にしてゆくことになるからです。
ところが“本当の世話”というものは「私」が「彼」に世話するというようなものではない。
“本当の世話”というものは「私」と「彼」とを超越した“いっそう大きなもの”がしてくれるのです。
それで世話しているものも<世話させていただいているということになり、世話しても自分は傲慢にならず、また相手も卑屈にはならないで、どちらの心にも、ただありがたさの心が残るのです。
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