生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第二十八話> (513)
日時:2013年03月18日 (月) 14時05分
名前:信徒連合



生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第二十八話(通算第354話)

 
西田哲学との比較に於ける人間論 <その十>

『人間死んでも死なぬ』P.354−357




<<ここに仮に「本当の人間」又は「真の人間」と云う言葉が案出されたけれども、「真の人間」に対して「現象の人間」とか「ニセ物の人間」とかが<ある>と云うのではない。

あるものは唯実在のみである――此のことが谷口哲学の特色を構成して居る。

現象の人間を私は「偽存在(にせもの)の人間」と書いたことがある。それは<ある>かの如く見えているけれども偽存在であるのである。偽存在とは「無い」ということの別名にすぎない。

「悪人は無い」「病気は無い」「罪悪は無い」と云うような一切の悪及び不幸に対する否定的自覚は其処から来るのである。

私と雖(いえど)も現象的にあらわれている世界に悪人や病気や罪悪が見えぬのではない。刑務所には明らかに罪人がおり、病院には明らかに病人がおり、無辜(むこ)の善人が苦しめられているような罪悪の<あらわれ>をも現実社会に見る。けれども私はそれを<あらわれ>と見るのであって、<有るもの>としては見ないのである。

而(しか)も実在そのままの<あらわれ>とは観ないで、実在の歪められたる<あらわれ>と観る。

それは凹凸激しき鏡面に映っている映像の如きものであって真実の人間を遠ざかること甚だしき姿なのである。(『生命の實相』第八巻・観行篇)だからどんな悪人の中にも私は仏をみる。『法華経』常不軽菩薩品)


空間の何処(いずこ)の一点を捉えて見ても、時間の何処(いずこ)の一点を捉えて見ても、時間も空間も本来無しと打ち消してしまったとき、其処はそのまま「超時の今」であるが故に、そこには必ず実在がある。

そして実在は神の造り給いしもの(真如縁起)であって至美至妙の完全円満なものであるが故に、私は五官の眼をもって明らかに罪人を見ながら、<彼の実在>(真にある彼)を見る眼を以って彼が神の造り給いし神の子であって善人であることをみる。

又五官の眼を以って彼が病み且つ傷ついている現象(あらわれ)を見ながら<彼の実在>(真にある彼)を見る眼を以って彼は健康であって決して病んでいないことを見るのである。

生長の家に於いて、悪人はない、病人はない(『生命の實相』第一、二巻・實相篇)と云う所以はかかる理由によるのである。

「人間は死なない久遠不滅の存在である」と云うのもかかる理由によるのである。

谷口哲学に於いて現象即實相が物質界即實相の意義に解せられず、物質は<無い>から、そんな不自由な邪魔者があるように見えても其処にそのまま<完全自由なる實相>があることを体得する。

即ち、吾々の坐禅的修行であるところの神想観に於いて、五官の眼を閉じると直ちに「自分の座っているのは實相の世界である」と観ずるのは、(『生命の實相』第八巻・観行篇)實相の世界(即ち実在界)が遠いところにあるのではなく、肉体が茲にいるところの<此処に其の儘>実在界が存在することの体得を意味しているのである。

ここに其の儘、実在界を体得し、悪人と見ゆる人の<其の儘に>善人を体得し病人と見ゆる人の<其の儘に>健康なる理念(神の子)人間を体得する。

されば現象其の儘の相が實相であると云う意味では、諸法実相(現象即実在)ではないけれども、現象そのまま<に於いて>實相の十全完璧なる実在を観ると云う意味にて諸法実相なる語が、新しく親しき意味をもって吾らの人生に帰り来るのである。

十全完璧なる世界及び人間は、現象を避け又は現象を克服しなければ其処に無いのであろうかと思われていたのが、現象は映像であって<ある>ように見えても<本来無い>のであるから、吾々は現象肉体の衣裳を纏(まと)いつつ、また「死」と云う現象によって現象肉体の衣裳を脱ぎ捨てるともこのままで十全完璧なる世界と人間とを生きていることを体得する。

吾々は此の自覚に立つとき無限の心安さを覚えるのである。

悪人に対して憎むことなく礼拝することも出来、病気を現していながらも、病気はないのであるから病気に捉われることなく、自分が久遠無病の理念(神の子)人間であることに感謝し、その生命を悠々生き楽しむことが出来るのである。

この無限の安らかな感謝と、平和と、楽しみ生きる心境との中に、自ずからなる病気の治癒も起こるのである。

「神の子無病」の人間的自覚は、斯くの如く人間の肉体的方面の存在を否定して、人間は神の子なり、霊的実在なり、理念的実在なりと肯定することによってのみ可能となる。

<即ち、真理(キリスト)の如く肉体的な存在を磔殺(クロス)することによってのみ人間は復活することができるのである。>

吾々生長の家の人々はこんなに此処に生きていながら「肉体は無い」と云う。此れは自覚の上で肉体を磔殺するのであり、創世記第二章にある人間の「土の塵」(アダム)的部分の抹殺である。

瀧澤氏の云うが如く人間を創世記第二章的見方をしてエホバによって造られたる土の塵であると観ずる限り「人間存在の根本的自己矛盾は、唯我々がアダムの子であるという一事にある。我々が創造せられた物でありながら創造者に背き、この土地が我々の罪の故に呪われたる土地であり、我々が額に汗して働かなければならないのみならず、結局に於いて絶対に死を免れないものであるという一事にあるのである。」(瀧澤氏の本P.122)>>






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