生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
 
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| 岡正章氏は、本物が見えていない。わかっていない。 (6973) |   
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日時:2015年05月25日 (月) 21時42分名前:本音の時代
岡正章氏は、みすまるの珠 5/25記の中で次のように書いている。
 
 >谷口雅春先生は、
 >
 > ≪わたしは『生長の家』の教祖ではない。わたしは諸君と共に『生長の家』の教えを聴聞し
 て、ひたすら、その教えのご>とく生き行こうと努力する一人の求道者にすぎない。
 >   (『生命の實相』第1巻14ページ)
 >
 > 生長の家は、『すべての人間が神の子であり、すべての人間が教祖である』 という教えであります。
 >   (『生命の實相』第18巻37ページ)≫
 >
 > と言われている。
 >
 > 「皆さんが谷口雅春であり、皆さんが住吉大神である」 とも言われています。
 >
 > しかし、信徒われらは、そのお言葉を素直にそのまま実感として受け止めることができなかった。私はその最たる者だっ>たと思います。
 >
 > そこで、3代目 谷口雅宣総裁が、「私は皆さんと同じレベルの、隙だらけの人間ですよ」 というすがたを表わし、信徒われら一人一人の自覚を促されている、というのが現在の状況なのかも知れない――と私は思います。
 
 
 まったくもって、情けないのです。
 
 > しかし、信徒われらは、そのお言葉を素直にそのまま実感として受け止めることができなかった。私はその最たる者だっ>たと思います。
 
 とは、いったい何でしょう。
 言い訳ばかりではないですか。
 全く、生長の家の教えを会得していません。
 岡正章氏の書くものは、八方美人で、真の生長の家で説く真理の力強さがないのです。
 雅宣総裁は、真の生長の家の信仰から見れば、偽者なのです。
 それなのに、逆に、雅宣総裁の現状を肯定するような事を書くのです。
 宮澤潔氏のところに行き、教えの根本を見直し信仰を改めた方が良いです。
 真の生長の家の教えの師を持った方が良いです。
 
 今のままでは、いつまでたっても
 雅宣総裁ヨイショ、ヨイショです。
 【分裂がない、対立がないのが生長の家であります。】という「生長の家」の言葉の呪縛で
 「真の生長の家」が見えなくなっているのは岡正章氏当人ではないでしょうか。
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| 岡正章氏の心が読めない 本音の時代 (6974) |   
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日時:2015年05月26日 (火) 05時07分名前:野に咲く百合の花
日時:2015年05月25日 (月) 21時42分
 名前:本音の時代
 
 の投稿では「岡正章氏は、本物が見えていない。わかっていない」と書いておられますが、
 
 本音の時代氏は、岡正章氏の文章のそ文脈に流れる心意を読み取っておらないと思います。
 
 谷口雅春尊師のご講話で直に指導を受けられた者であれば、この岡正章氏の心意は充分くみ取れるはずであります。
 
 谷口雅春尊師は常にご講話の中で「わたしは諸君と共に『生長の家』の教えを聴聞して、ひたすら、その教えのごとく生き行こうと努力する一人の求道者にすぎない」と仰っていました。
 
 これこそ自我のない只神様の教えをお伝え下さる谷口雅春尊師の素晴らしいご指導でありました。
 
 そして自分の前の出来事を自分の心の反映として「谷口雅宣総裁」の態度を見る事で、間違いを正した上で、尚さらに自分の心理探究に励むように仕向けられてている、と受け止める事はこれこそ生長の家の実践で有る事に間違いないと思うのであります。
 
 これを雅宣総裁を肯定すると見るのは大きな誤解であります。
 
 岡正章氏は決して雅宣総裁を肯定などされていません。
 
 生長の家の真理に生きる素晴らしい先生でいらっしゃると思います。
 
 
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| 岡正章氏には、自我があります。 (6975) |   
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日時:2015年05月26日 (火) 06時02分名前:本音の時代
岡正章氏には、「自分は美しく生きたい」という自我があります。
 その自我が、見えないものを作っています。
 
 > そこで、3代目 谷口雅宣総裁が、「私は皆さんと同じレベルの、隙だらけの人間ですよ」 というすがたを表わし、信徒われら一人一人の自覚を促されている、というのが現在の状況なのかも知れない――と私は思います。
 
 これは、雅宣総裁が生長の家総裁としてふさわしくないことを証明している記述です。
 岡氏は、「同じレベル」などという言葉を使って、事の本質を見失わせています。
 雅春先生の説いた生長の家の教えを正統に伝え、人類光明化するのが生長の家総裁のあるべき姿なのに、迷いの言動を推し進める雅宣総裁の行動結果、教団組織の現状の教勢を見れば容易に判断はできるのです。
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| 何を言いたいのですか、本音の時代さん (6983) |   
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日時:2015年05月26日 (火) 21時43分名前:野に咲く百合の花
本音の時代さん、何を言いたいのですか。
 
 具体的に言って下さい。岡氏は雅宣氏を是としているとお思いですか。
 
 私はそのようには取れませんけれど・・・・
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| 岡氏に対する評価 (6984) |   
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日時:2015年05月27日 (水) 00時00分名前:本音の時代
野に咲く百合の花さん、返答ありがとうございます。
 
 >私はそのようには取れませんけれど・・・・
 
 受け取り方は、人それぞれですからぇ。
 私は、そうではないということです
 
 >岡氏は雅宣氏を是としているとお思いですか。
 
 非とはしていないと思っています。
 岡氏の質問に、雅宣総裁が答えなかったのが事の発端。
 雅宣総裁の返答は期待できませんから、今の段階では
 岡氏自身は雅宣総裁に対する是非の判断はできないと想像します。
 この判断できないという行為が、岡氏の信仰の不完全を露呈しています。
 
 > そこで、3代目 谷口雅宣総裁が、「私は皆さんと同じレベルの、隙だらけの人間ですよ」 というすがたを表わし、信徒われら一人一人の自覚を促されている、というのが現在の状況なのかも知れない――と私は思います。
 
 この記述は、岡氏が雅宣総裁を非としていないと読み取れます。
 
 違うスレッドにも書きましたが、
 岡氏は、宮澤潔氏や谷口貴康氏の現状(信仰姿勢)をどのように見ているのでしょうか。
 これらに関する岡氏の記述を私は未だ見つけることはできませんが、岡氏を評価する重要な案件だと思います。
 
 
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| 今頃になって、気付きはじめる? (6989) |   
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日時:2015年05月27日 (水) 21時36分名前:本音の時代
≪ 併し、その投影が完成するには、その投影は『念波の集積』で成立っているのであるし、人間は心の自由を有ち、自由に実相の悟りによって念波を浄め得もすれば、迷によって念波を一層汚すことも出来るのである。 現象世界に実相「神の国」を顕現する過程(進化の過程)を心次第で縮めることも長くすることも出来るのである。霊魂進化の過程を短縮するのは、念の浄化による。
 
 念の浄化には、実相を悟ることが第一であり、物質欲に捉(とらわ)れざることが第二である。物質欲に捉れざるためには、『物質本来無し』の真理を悟るが第一である。≫
 
 のでありますが、谷口雅宣 現生長の家総裁は、失礼ながら、上記神示の『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざるすがたを現していらっしゃるように思います。
 
 そういう総裁に「中心帰一」して、信徒が「神の子」としての自由独立なる実相をくらましている――ということはないか。神示には、つづいて
 
 ≪ 『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者には、物質の快に捉れざるための修行として、自ら進んで苦を求めて喜ぶか、物質に快を求めて却って苦を得る体験を通じて、ついに物質欲に捉れざるに到るかの二途しかない。前者は自ら進んで嘗める苦行であり、後者は幸福を求むれども求むれども運命的に他動的にやってくる苦難である。≫
 
 とあります。
 
 『物質あり』として、都会から森の中へ逃げ、「神・自然・人間の大調和をめざす」などというのも、一種の「物質欲」と考えられるのではないか。そうするとその結果は、
 「自ら進んで嘗める苦行」や、「幸福を求むれども求むれども運命的に他動的にやってくる苦難」
 を招くことになる。
 
 (岡正章氏 みすまるの珠 2015.5.27)
 
 雅宣総裁の変なことに今頃になって気付きはじめる自分を誉めるが、反省はしない。
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| 岡氏の心境は一段も二段も高いのです。 (6990) |   
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日時:2015年05月28日 (木) 01時18分名前:野に咲く百合の花
> そこで、3代目 谷口雅宣総裁が、「私は皆さんと同じレベルの、隙だらけの人間ですよ」 というすがたを表わし、信徒われら一人一人の自覚を促されている、というのが現在の状況なのかも知れない――と私は思います。
 この記述は、岡氏が雅宣総裁を非としていないと読み取れます。
 
 本音の時代さんのこの投稿文は、ちがいますね。
 
 雅宣さん個人の事ではなくて、今我々の目の前に顕われた事柄は心の顕われとして謙虚に受け止める事も大切である事岡氏はを言っているのです。
 
 その事と雅宣さんの間違いを問いただす事と別の話であります。
 
 現象と實相を混同するとそのようになります。
 實相一元の世界が生長の家でありますから、現象は本来無いのです。
 
 ですから雅宣さんの現象世界も本来無いのでありますが、その事を説いて明かす立場の雅宣さんがその事を解っていないのが問題なのです。
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| 心境の基準は誰が決めてるの? (6997) |   
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日時:2015年05月28日 (木) 22時44分名前:本音の時代
>雅宣さん個人の事ではなくて、今我々の目の前に顕われた事柄は心の顕われとして謙虚に受け止める事も大切である事岡氏はを言っているのです。
 
 雅宣総裁を引き合いにして間接的な言い回しはできるが、直接的な言い回しはできないということですね。
 だから、岡正章氏は、本物が見えていない。わかっていない。と書いています。
 
 >ですから雅宣さんの現象世界も本来無いのでありますが、その事を説いて明かす立場の雅宣さんがその事を解っていないのが問題なのです。
 
 岡氏が、このことを直接、雅宣総裁に箴言することはないでしょう。心境が高いなどの言葉を重宝する人たちにとっては、岡氏を含め心境を下げることになりますからね。
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