生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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偉そうに禅宗「無門関」の『不思善悪』を説法するマサノブ君、5・23「枯れ松模様」を読む!――依然として脚下照顧せず言行不一致! (6994) |
- 日時:2015年05月28日 (木) 10時06分
名前:公平なる観察者
左翼思想丸出しの「戦争法案」と決めつけ猛批判したマサノブ君、大閑なので、今度は殊勝にも開祖・谷口雅春先生の御本を中心に『不思善悪』について迷説をブログ講義した。一口で講評するならば、例の如き、<脚下照顧を伴わない言行不一致からの逃避の正当化>を試みたのである。マサノブ君の『枯れ松模様』の投稿文だけではこれが分からないので、閲覧者の皆様に公平な判断をしていただくために、マサノブ君の投稿文と、開祖・谷口雅春先生の「無門関解釈・第23則<不思善悪>と「生活と人間の再建」<善悪の境を超えて>の御文章の中から私が重点的に抽出させて頂いた章句の御文章を以下に転載させて頂くことにする。
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[ T ] 平成27年年5月23日 「唐松模様」<不思善悪> (要旨)
<< 生長の家の講習会のため小淵沢から東京へ向かう「あずさ8号」の中でのことだった。・・・その時私は、ちょうど谷口雅春先生の『新版 生活と人間の再建』の中の一文を読んでいた。題は「善悪の境を超えて」である。禅書『無門関』の第二十三則にある「不思善悪」の公案を解説したご文章で、善一元の世界の実相を観ずることができないのは、「“悪”をみとめて排斥している」からで、そうしている限りは、「“悪”を心に描くから、“悪”の消えようがないのである」として、“悪”を見ない心を出して来なければならない、と説かれていた。世に言う「悪」とは結局、人間の心が下す“マイナスの評価”が、現象の表面に映し出されているだけだとの教えである。・・・ 私は、講習会での自分の講話の一部を思い出していた。受講者に「1万円=27.8円」という数式を示して、その意味を問うのである。それに応えて場内から手が上がることはめったにないから、次に続けて「5千円=25.9円」「千円=18.2円」と示す。これらは、それぞれ1万円札、5千円札、千円札の製造原価である。・・・この世のものの価値とは、「心で認めた通り」のもので、本当の価値とは異なるという点で、紙幣の実際の原価を正確に示すのが目的ではないからだ。これは、「富」も人間の心の産物だということを示している。紙幣が、特別の価値をもった印刷物として世の中に流通する理由は、私たちが、その印刷物が、印刷された通りの価値をもつと信じているからである。・・・この世のものの価値とは、ほとんどの場合、人間の心が作り出した創作物である。だから、その心が変われば、価値は変わる。そんな不確かなものに、自分の人生の基盤を置くことは愚かなことである。なぜなら、それらはすべて自分の肉体の死とともに雲散霧消してしまうからだ。 では、お金を“プラスの価値”の1つと考えた場合、“マイナスの価値”とは何だろう? それは普通、私たちが「悪」と呼ぶものではないだろうか。こんな表現が大げさなら、「悪」を「不都合」に置き換えてもいい。自分の都合をさまたげるものは、その人にとって「不都合」であり、その不都合の程度が大きすぎて、不合理、不条理に達すると感じられるものを、私たちは「悪」と呼ぶ。とすると、「悪」とは客観的、永続的存在ではなく、主観が生み出した“仮のマイナスの評価”ということになる。なぜなら、私たちが心に抱く「自分の都合」とは、これまた変化するものだからだ。人生の光明面に注目し、それを自分の心に印象づけるだけでなく、表現活動を通して他の人々や社会にも印象づける生き方の重要性が、ここに明確に示されている。 谷口 雅宣
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[ U ] 開祖・谷口雅春先生『無門関解釈』 第23則 <不思善悪> 重要章句の抜粋
@ ・・・この無門和尚の頌(じゅ)<本来の面目蔵するに処なし、世界壊するとき渠(かれ)朽ちず>というところの久遠不滅の本来の面目こそ「本当の人間」、『甘露の法雨』にある所の「真性の人間」なのである・・・
A ・・・五祖の弘忍禅師は呼びかけた。「米熟するか?」慧能は応えた。「米熟すること久し。猶(な)ほ篩(ふるい)を缺(か)くことあり。」・・・既に成仏しているか。人間は久遠劫の昔から悟りを開いている仏であるか、という問いであった。慧能の答えは、「そうです。人間は久遠劫の昔から既に悟りを開いている佛なのです。併し、いくら悟りを開いている佛でも日常生活はおろそかに出来ません。日常生活の中に佛があるのです。篩(ふるい)を丁寧にやって居るのです」。生長の家では「日に日に生きるが宗教である」と言われているのと同じである。・・・
B ・・・「しみじみとした生活、平常の行き届いた人情味のある生活こそ禅の生活であるのだ。・・・
C ・・・衣を伝えるのは伝法の象徴として伝えるのであって、衣という物質を伝えるのではないのである。形から見ればそれは物質であるが、その内容は「信」である。「人間」でも同じことである。形から見れば「肉体」という物質であるけれども、内容から見れば人間は久遠劫来の佛である。それを知らない者は、形のみを大切にし、物質を護ろうとして却って生命を失ってしまうのだ。石の上に投げ出された衣を慧明上座は持ち上げようと思ったが、遂に之を挙げることが出来ず、山のように重かったというのである。・・・
D ・・・「この衣は信をあらわす。力をもて争うべけんや。」この信念ある慧能の言葉の力が非常に強く働いたのである・・・「信は力よりも強いぞ!物質的腕力で争っても駄目だよ」とこう云われた。これは又、観念力は意思欲よりも強いと言う実例になる。・・・
E ・・・明上座は物質以外の力が世の中にあるなと悟ったのだ。「別に衣そのものが欲しいのではありません。貴方が師匠に法を伝えられた、その法が欲しくてやって来たのです。どうぞその法というものを説き聴かして下さい」と慧能に乞うた。茲に魂の転回がある。衣が千鈞の重みで意思にくっついてしまって動かない。それは慧能の「信」の力の表現でもあったが、真理そのものを擁護する仏力の奇蹟でもあった。信仰者には往々、自分では予想しないような奇蹟に出くわすことがある。併し衣が石にくっついて離れないような現象界の奇蹟が尊いのではない。それを機縁として魂が転回することが尊いのである。・・・
F ・・・生長の家でも色々の不思議な奇蹟があらわれる。人が見てどうしても物理化学的法則とは衝突しそうな奇蹟があらわれることが往々ある。そんなときに奇蹟そのものよりも尊いのは奇蹟を契機として転回する人間の魂である。「奇蹟」とは換言すれば「われが、、、俺が、、、」を超越した力の発現であって「われ」の力、「俺(わし)」の力では、もうどうすることも出来ないことを知らされて「われ」が滅し、「俺(わし)」が亡じ去るのである。さすが乱暴者の慧明将軍も、衣が石にくっついて離れないので「われが、俺が、一つ衣を奪り返してやろう」と考えていた其の「われ」が除かれて“無我”になって、「どうぞ法をお説き下さい」と云わずにいられなかったのである。無我になったときに仏法が顕われる。前節の阿難の「ハイ」と云う応答と同じことである。道元禅師が「正法眼蔵生死巻」に云われた「ただ我身をも心をも放ち忘れて佛の家になげいれて、佛のかたより行われてこれにしたがいもてゆくとき、ちからをも入れず、こころをもついやさずして生死をはなれ佛となる」である。
G ・・・すかさず慧能は云った。「善をも思わず悪をも思わず、是非善悪を考えるのは、<われ>があるからだ。<われ>を放棄してしまったら善も思わず、悪をも思わずそのままに佛法がそこに現れているのだ。その佛法が明上座よ、それがお前の本来の面目だ。」・・・
H ・・・善悪思わず「ハイ」が悟りだ。「ハイ」と云うところに本来の面目が現れ、佛が顕われるのだ! 明上座の身体全体から油汗がたらたらと流れた。明上座は悟ったのだ。「有難うございます。有難うございます!」明上座は悟った嬉しさに泪を流して慧能を礼拝すると、言葉をつづけて、「先刻からの仰せごとまことによくわかりました。その蜜語蜜意のほかに、まだ私に御注意下さることがございましたら、どうかそれをもお説きください。」 すると慧能は「わしが今お前に説いたのは既にハッキリと説いたのだから蜜語蜜意ではない。蜜語蜜意というものは、<そらお前自身の>其処を振り返れ、そこに却って蜜語蜜意があるぞ!」と云った。蜜語蜜意、涅槃妙心、みな自分自身にあったのだ!
I 慧明は応えた。「わたくし、黄梅にあって衆(みなのもの)と一緒に法を聞かせて頂いておりますけれども、今まで自己本来の面目を知ることが出来ませんでした。われが俺がと云うニセ物の自分が本当の自分――本来の面目を蔽い蔵(かく)しておりました。今こんなに親しく教えられまして、まるで人の水を飲んで冷暖を自知したような気が致します。まことに貴方こそは私の師です。」 「いや、私がそう悟ることが出来たのも黄梅の弘忍和尚のお蔭だよ。お前がそう云う謙虚な心をおこしたならば、吾れと同じく弘忍和尚を師と仰げ。そして善く自ら護持せよ」と慧能は云った。道伝えの本(もと)を明らかにする優れた心持ちである。
J・・・ 此の「善(よ)く自ら護持せよ」と云うことが大切である。佛法はよく解りました。生長の家の説くところもよく解りましたと云う人で、一時非常に救われた状態になった人が、いつのまにか佛法に遠ざかり、生長の家に遠ざかり、そのうちに迷いの淵へ落ち込んで再び浮かび上ることの出来なくなる人も有り勝ちである。慧能が弘忍に答えた「米熟すること久し。猶(な)ほ篩(ふるい)を缺(か)くことあり」であって篩にかけることを忘れてしまったら折角の米に穀象虫が生(わ)くのである。
K 無門の評「六祖謂(い)つべし、是(こ)の事は急家より出づ、、、云々」の急家は“急の出来事”である。奇蹟である。石に衣がくっついて離れないようなことである。そう云う奇蹟があって、始めてタマシイが転回して、親茘支(しんれいし)の殻を剝いでしみじみ噛んで味わうように事物の實相を噛みしめる心が起って来るのである。どんな出来事でも「親茘支(しんれいし)の殻を剝ぎ了(おわ)り、核を去け了(おわ)って」外面の不要の部分を捨て去って、「爾(なんじ)が口裏(くり)に送在して、ただ爾(なんじ)が嚥一嚥(えんいちえん)せんことを要するが如く」爾(なんじ)が、――その自分が自己に返照してしみじみ味わわなければ本当の味わいは判るものではない。蜜語蜜意は自分のうちにあると知るべしだと云うのである。
L そうだ蜜語蜜意は爾(なんじ)にある。そら其処に「今」あるではないか。と云って、その本来の面目は感覚に触れる形がないから描くには描けず、画(え)にしようにも画(え)にすることは出来ず、賛(さん)を書くわけにもいかぬ。<われ>が生受(さんじゅ=感覚を感受)しようと思ってもそれは駄目だ。<われ>を捨てよ、真自己の中に返照せよ。坐禅せよ。神想観せよ、世界壊(え)するも壊(え)せざるところの「本当の自分」なるものを発見するであろう。
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[ V ] 開祖・谷口雅春先生『生活と人間の再建』 第2章 <善悪の境を超えて>
1、絶対善なる實相を見よ
@ すべての事物の根底は想念である。想念によって一切のものは作られたのである。されば、もし吾々が悪を想念するならば悪が現われてくるのである。「汝ら悪を見つむること勿れ。悪を見つむるものは神より遮断される。なぜなら神に於いては悪は存在しないからである」という意味のことをイザヤも云っているのである。善のみが実在なのである。もし吾々の想念が悪を見つめ、悪から心を離さないならば、吾々は実在を見失ってしまうことになるのである。真の實在は神に造られたものであって、それのみが永遠の存在であり、不滅の存在であり、何時までも消えぬところの価値をもっているところのものである。
A なぜ善のみを實在であるというか。善といい、悪というも、結局はわれわれの心で認めたるところのものであって、いづれもそれは心的存在であることに変りはない。しかし、悪は常に破壊的なものである。その上に築かれたところのものは結局は崩れるほかはないのである。併し何を悪というか何を善というかは重大な問題である。・・・善悪とは結局、相対的存在であって、絶対の悪、絶対の善、などというものは存在しないのであると云う人もあるが、しかしながら吾々が「神は善である。されば神によって造られたこの世界は善であるほかはない」というが如き場合の善は、時代や環境によって移り変わるところの相対的善を云うのではないのである。吾々がいう善は、すなわち、「善のみ實在である」という場合の「善」はかかる相対的批判を超えて、常に変らぬところの“絶対的善”を指すのである。
B 大体、善悪観念なるもには、神話的にいうならばアダムとイブとが「善悪を知る樹」の果( み)、換言すれば智慧の樹の果(み)を食べた時に生じたるところの差別智である。吾々がかかる差別の見地に立っている限りに於いて、人類はエデンの楽園――すなわち極楽浄土――から追放されるほかはないのである。
C それ故に、キリストは「汝ら自らがさばかれざらんがために、人をさばくこと勿れ」と云う意味のことを云っているのである。ひとの善悪をさばく時に、そこに人間の不幸は生じるのであって、人間は「善悪を知る樹」の果(み)を食べた時に楽園から追放されるのである。――という意味は、われわれが常に相対界に生活している限りに於いては、色々な邪悪が充満しており、そして常にそれを気にかけて悩んでいなければならないという意味である。
2、善悪の境を超えて
@ 古歌に「よしあしや憎み可愛いと思わねば、今が世界が皆われのもの」というのがある。即ち吾々がこの世界で苦しむのは善悪を知る智慧の樹の実を食べて何が善、何が悪と思いわずらい、さばき合う時に楽園から追放されて悩みが出てくるのである。そのような善悪の考えをして、「絶対善」の世界からみつめる時、そこに不滅の極楽が実現するということになるのである。
A 善だ悪だといっている間は、必ずものの半面には暗い面があるのでその暗い面を心で見つめようになるのである。すると、この世界の現象は、心で認めたものが形に現れるのであるから、吾々は善から切り離されて悪のみを一層多く見つめることになるのである。悪を見つめれば悪の想念を以って自分の意識の中をみたすのである。そういう習慣がつく限り吾々は、あらゆる事物の半面に悪を見る。そしてこの世界を「悪」の一色で塗りつぶすのである。かかる人は光があれども光の方を見ないで影の方ばかり見るようにするのである。彼は朝起きても鳥の鳴く声をきけどもきこえず、美しい花を見ても見えず、朗らかな青空を見ても見えず、面白くもない新聞記事や、仕事場や、自分の体の不健康だけを見るのである。太陽が輝いておれば「今日は暑い天気だ」と呟くのである。曇っておれば「今日は真にうっとおしい」と不平を言う。かかる人にとってはすべての環境は悉く悪に見える。吾々はこの様な人になってはならないのである。
B 肉眼で見える太陽の光の奥に、万物を生かそうとする神の愛を感じ、曇っている雲の奥に万物を潤ほそうとする神の慈悲を感じ、囀る鳥の声に神の子の生命をよろこび楽しんでいる「生命の兄弟」を見ることができるものこそ、現象の相対的善悪の奥にあるところの「絶対の善」を見るところの人である。即ち、現象の「善を思わず、唯絶対絶命の時、わが生命の正体如何(いかん)」を知るのである。それは神の生命であり、唯ありがたいばかりなのである。かくして自ら口にのぼってくるものは、ただ「ありがとうございます。ありがとうござうます」の感謝の言葉となって来るのである。そこから光明の生活は開かれる。現象界に「實相」の絶対善が、感謝の念によって注ぎ込まれるのである。そして現象界が絶対善の實相世界の投影となるのである。
3、想念を浄めよ、其処には善のみがある
吾々は余りにも長期間に亘って、現象界の事実であるところの想念の世界に「悪の思い」をつぎ込んで来たのである。吾々は清らかな澄き通った清冽な水のような實相の世界に「悪」の想念の泥を投げ込んで、それをかき回して、「この水は濁っている」というが如くに「この世界には悪が満ちている」と呼んできたのである。それは結局自分の想念の影を見ているのであって、本当に悪は実在するのではないのである。水は濁ったように見えても、水そのものは常に純粋なる酸素水素の化合物であって、濁っているのは水ではなくて泥そのものが濁っているに過ぎないのである。それと同じく、汚く見えるのは實相が汚いのではなくして、自分の想念で濁らしたその想念そのものが汚いのに過ぎないのである。想念を浄めよ。そうすればこの世界は、純粋の水の如き清らかな實相がそのままに見えてくるのであって、即ち、天国が地上に実現するのである。
4、真の智慧による新生活の樹立
@ まことにもこの世界が開くの様相を呈するのは、吾々が「善悪を知る樹」の実(み)を食べて善悪の想念にとらわれる様になったからである。善悪の観念にとらわれるのは、五官の現象的な現れを見てそれを實相だと思うからである。これを称して「蛇の智慧にだまされる」というのである。智慧の樹の実をたべるように教えたのは蛇であって、蛇とは地面即ち物質にぴったりくっついて歩むもの、――物質ありと認めるところの五官智の象徴である。
A 吾々は五官の感覚によって認めるところのものをありと思ってはならないのである。透明なる水は殆んど見えないのであって、濁りがあるので見えるのである。そして水というものは皆多少不純物でにごっているものである。――それと同じく實相は五官には見えないのであって、われわれの濁った想念である影が見えるのである。そして世界は濁っていると云い、悪であるという。かかる想念を起すことが又濁りとなるのである。かくて濁りは濁りを生みて停止するところを知らない。かくて現象界は苦しいという。この濁りを途中で中断する道は吾々が心の法則を知り、再び心に濁りを生じしめないように工夫することである。それは現象の濁りからまず目を放つことである。そして實相の玲瓏珠の如き世界を見つめて、心を澄みきらせることである。
B 心の目を放って實相を見よ。實相の世界を見よ。實相の人間を見よ。彼はただ善である。神の造り給うた此の世界はただ善である。そして神の造り給うた神の子も又ただ善である。自分のみが善であるばかりでなくすべての人間が善である。このことを自分の心の中に唱えるべきである。併し、自分自身に於いて、自分自身をとりかこむところの周囲に於いて、神の造り給うたところの円満完全なる相を見よ。そこに神が現れる。神の国が現れるのである。
C これこそがキリストが「神の国は汝の内にあり」といい給ひし言葉の真の意味である。善のみが實在であるから吾々が悪の想念の上に、悪の計画の上に、自分の生活を打ちたてようとするならば、それは存在せざる基礎の上に生活をうちたてるのだから、結局その人の生活は滅びてしまうのである。善のみが實在であるから吾々を支えてくれるところの實在する力は唯善のみであるのである。善に支えられないものは結局滅びるのである。吾々が栄えるところの原理は結局「實在」を見出すこと、實在は絶対善であるからその善の上に生活をうちたてるとき、現象界にも真の善が出てくるのである。
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< 「唐松(枯れ松)模様」マサノブ投稿文“不思善悪”の“講評” >
@ 先ず感じることは、マサノブ君の投稿文は、普通の修身道徳家のお説教である。宗教家の文章内容ではないのである。しかし、題目は「不思善悪」という人間本来の面目を扱う悟りに関する語句をマサノブ君は借用している。その割には、求道・見性(悟り)に関することは全然書かれていない。書かれていない、というよりはむしろマサノブ君には求道とか見性(悟り)に関しては全く関心のない事柄であり、自称・法燈継承者と称すれども全く信徒に語るべき中身などないからである。唯、自己顕示欲は人並みはずれて大であるから、「不思善悪」と云うことばで、自己顕示して置きたかったのであろう。それにもう一つ、――本流復活側からは速射砲の如く「マサノブ教」の誤謬指摘がなされマサノブ君は内心では大層にお疲れ気味で「もうええ加減にしてくれ!」と悲鳴を上げかけている様子。その「本流」側からの追求の槍襖(やりぶすま)をかわす為に「悪を見るな!」と言いたいのである。そして「本流」側は現教団の暗黒面のみを見て光明面を少しも見ていない。オレ(マサノブ)は、「本流」側の悪を見て、今までもこれからも「本流」批判はしたこともする事もない、このようなことをPRする為に「不思善悪」と云う一見難しそうな投稿文のテーマを思いついたのであろう。併し、間違ってもらっては困る。「本流」側は、マサノブ君の神の子の絶対善なる實相の姿を今までもこれからも見続けることには変わりはない。唯マサノブ君の持つ思想・思考は「虚説」であるから、完全に神性隠蔽されたマサノブ君の現象の姿と虚説は一日でも早くに「無の世界」に追放消滅すべきである。このように考えているのである。
A マサノブ君は、「悟り」という事を、肉体頭脳知の浅き理解力で「二項対立」に関することだと思っている。二元論的に解釈して「悟り」と「迷い」の概念を二つの並存的分割概念位にしか理解していず、「悟り」ということから常に逃げているのだ。マサノブ君は「無の関門」の意味も解らない、「絶対実在の絶対把握」の意味も解らない、「實相覚による實相の直接認識」といった霊的体験がないし、マサノブ君の生来の霊的体質がそのようなことには向いていず関心を持ちたいとも思わないからだ。しかし、宗教家として世に立つには完全な失格者である。
B 開祖・谷口雅春先生の「無門関・不思善悪」の御講義において重要な諸点は、――
1、 「米熟するか?」慧能は応えた。「米熟すること久し。猶(な)ほ篩(ふるい)を缺(か)くことあり。」生長の家では「日に日に生きるが宗教である」と言われているのと同じである。
2、しみじみとした生活、平常の行き届いた人情味のある生活こそ禅の生活である
3、信仰者には往々、自分では予想しないような奇蹟に出くわすことがある。併し現象界の奇蹟が尊いのではない。それを機縁として魂が転回することが尊いのである。
4、無我になったときに仏法が顕われる。「正法眼蔵生死巻」に「ただ我身をも心をも放ち忘れて佛の家になげいれて、佛のかたより行われてこれにしたがいもてゆくとき、ちからをも入れず、こころをもついやさずして生死をはなれ佛となる。
5、善をも思わず悪をも思わず、是非善悪を考えるのは、<われ>があるからだ。<われ>を放棄してしまったら善も思わず、悪をも思わずそのままに佛法がそこに現れているのだ。その佛法がお前の本来の面目だ。
6、蜜語蜜意というものは、<そらお前自身の>其処を振り返れ、そこに却って蜜語蜜意があるぞ!」蜜語蜜意、涅槃妙心、みな自分自身にあったのだ!
7、私がそう悟ることが出来たのも黄梅の弘忍和尚のお蔭だよ。お前がそう云う謙虚な心をおこしたならば、吾れと同じく弘忍和尚を師と仰げ。そして善く自ら護持せよ」と慧能は云った。道伝えの本(もと)を明らかにする優れた心持ちである。
8、蜜語蜜意は爾(なんじ)にある。そら其処に「今」あるではないか。と云って、その本来の面目は感覚に触れる形がないから描くには描けず、画(え)にしようにも画(え)にすることは出来ず、賛(さん)を書くわけにもいかぬ。<われ>が生受(さんじゅ=感覚を感受)しようと思ってもそれは駄目だ。<われ>を捨てよ、真自己の中に返照せよ。坐禅せよ。神想観せよ、世界壊(え)するも壊(え)せざるところの「本当の自分」なるものを発見するであろう。
マサノブ君は「不思善悪」の禅の公案をテーマとしたのであるから、開祖・谷口雅春先生の御講義にしたがって、「真性の人間」を説き、六祖慧能大師の悟りの内容を解説し、「本当の自分」を見出す神想観について説かねば、総裁とは言えないのである。それを修身道徳レベルで書くとはもってのほかである。
C 次に、『生活と人間の再建』について、マサノブ君は書いているが、これまた大した内容、つまり、聞き手に感銘を与える内容とは程遠いもの。いつものように現象界を善悪二元論で分析して、日時計主義の生活を強調したに過ぎない。
そこで、開祖・谷口雅春先生の <善悪の境を超えて> の重要点を掲げると、――
1、絶対善なる實相を見よ、それのみが永遠の存在であり、不滅の存在であり、何時までも消えぬところの価値をもっているところのものである。
2、なぜ善のみを實在であるというか。悪は常に破壊的なものである。その上に築かれたところのものは結局は崩れるほかはないのである。吾々がいう善は、すなわち、「善のみ實在である」という場合の「善」は相対的批判を超えて、常に変らぬところの“絶対的善”を指すのである。
3、善悪観念なるもには、智慧の樹の果(み)を食べた時に生じたるところの差別智である。吾々がかかる差別の見地に立っている限りに於いて、人類はエデンの楽園――すなわち極楽浄土――から追放されるほかはないのである。
4、人間は「善悪を知る樹」の果(み)を食べた時に楽園から追放されるのである。――という意味は、われわれが常に相対界に生活している限りに於いては、色々な邪悪が充満しており、そして常にそれを気にかけて悩んでいなければならないという意味である。
5、善悪の考えを捨てて、「絶対善」の世界からみつめる時、そこに不滅の極楽が実現するということになるのである。
6、現象の「善を思わず、唯絶対絶命の時、わが生命の正体如何(いかん)」を知るのである。それは神の生命であり、唯ありがたいばかりなのである。かくして自ら口にのぼってくるものは、ただ「ありがとうございます。ありがとうござうます」の感謝の言葉となって来るのである。そこから光明の生活は開かれる。現象界に「實相」の絶対善が、感謝の念によって注ぎ込まれるのである。そして現象界が絶対善の實相世界の投影となるのである。
7、想念を浄めよ。そうすればこの世界は、純粋の水の如き清らかな實相がそのままに見えてくるのであって、即ち、天国が地上に実現するのである。
8、現象の濁りからまず目を放つことである。そして實相の玲瓏珠の如き世界を見つめて、心を澄みきらせることである。心の目を放って實相を見よ。實相の世界を見よ。實相の人間を見よ。彼はただ善である。神の造り給うた此の世界はただ善である。そして神の造り給うた神の子も又ただ善である。自分のみが善であるばかりでなくすべての人間が善である。このことを自分の心の中に唱えるべきである。併し、自分自身に於いて、自分自身をとりかこむところの周囲に於いて、神の造り給うたところの円満完全なる相を見よ。そこに神が現れる。神の国が現れるのである。
9、吾々を支えてくれるところの實在する力は唯善のみであるのである。善に支えられないものは結局滅びるのである。吾々が栄えるところの原理は結局「實在」を見出すこと、實在は絶対善であるからその善の上に生活をうちたてるとき、現象界にも真の善が出てくるのである。
マサノブ君は、一元的「絶対善」の世界に関することは説いてはいないのである。彼の説く範囲は、現象世界の善悪並存の「二元論」の世界でしかないのである。マサノブ君には悟りの世界(無字透関)なんて無関心なのであるから、絶対善の一元論的世界なんて無いと思っているに等しいのである。だから、開祖・谷口雅春先生の「生活と人間の再建」を引用しても、その御文章の深いところ、――絶対善の實相世界――には全く触れないでいてしまう。そして、善悪二元論を基礎にした日時計生活を強調するのみとならざるを得ないのである。
D 説法と実践の乖離に平気なニセ宗教家・マサノブ君! マサノブ君は偉そうに説法する。
<説法1> この世のものの価値とは、ほとんどの場合、人間の心が作り出した創作物である。だから、その心が変われば、価値は変わる。そんな不確かなものに、自分の人生の基盤を置くことは愚かなことである。なぜなら、それらはすべて自分の肉体の死とともに雲散霧消してしまうからだ。 <質問 1> だけど、マサノブ君は、信徒の浄財を勝手使い放題に、森の中に豪華ログハウスの総裁邸をたて、超高給(年間所得5000万円超?)をとり、金庫番ユキシマ君に株で利ザヤ稼ぎをさせ、自己資産を肥え太らせていると聞く。この宗教貴族生活振り、<自分の肉体の死とともに雲散霧消してしまう>ならば、なぜ異常なまでの金銭執着心をなぜ捨てきれないのか? まさに言行不一致ではないのか?
<説法 2> お金を“プラスの価値”の1つと考えた場合、“マイナスの価値”とは何だろう? それは普通、私たちが「悪」と呼ぶものではないだろうか。こんな表現が大げさなら、「悪」を「不都合」に置き換えてもいい。自分の都合をさまたげるものは、その人にとって「不都合」であり、その不都合の程度が大きすぎて、不合理、不条理に達すると感じられるものを、私たちは「悪」と呼ぶ。とすると、「悪」とは客観的、永続的存在ではなく、主観が生み出した“仮のマイナスの評価”ということになる。
<質問 2> マサノブ君にとって不都合なものは所謂「谷口雅春・原理主義者」であろう。マサノブ君にとって「谷口雅春・原理主義者」は「悪」となる。また、開祖・谷口雅春先生の愛国関係の御著書は「今の教え」(サヨク唯物現象論)にとっては不都合な存在=悪となる。したがって、マサノブ君は「自分の都合」だけで、「谷口雅春・原理主義者」を意識的に左遷減給して退職へと追い込んで行き、開祖の「愛国書」を絶版処分(焚書)とした。これこそ、独裁マサノブの<主観が生み出したマイナス評価=悪>そのものではないのか? 汝はもはや宗教家とは断じて言えないのだ。速やかに退陣せよ!
<説法 3> 人生の光明面に注目し、それを自分の心に印象づけるだけでなく、表現活動を通して他の人々や社会にも印象づける生き方の重要性が、ここに明確に示されている。
<質問 3> マサノブ君よ、君は説法とは裏腹に、人の暗黒面に注目し、それを自分の心に印象づけるだけでなく、表現活動を通して他の人々や社会にも印象づける生き方をしている張本人ではないのか? だから、マサノブ君の講習会の話は面白くないとの評判が広がり、どこの講習会も引き潮ばかり。これマサノブ君の「生長の家、完全解体」と云うマサノブ君の心の影ではないのか? よくもヌケヌケと<人生の光明面に注目し、それを自分の心に印象づけるだけでなく、表現活動を通して他の人々や社会にも印象づける生き方>なんて、言行不一致なことを壇上から説法出来たもんだね! マサノブ君、君は根っからの「悪」そのものなのだ!
<追加質問>
マサノブ君に更に問う! マサノブ君の最終目的は「生長の家」の完全解体と信徒の浄財の蕩尽であるとの話が次第に信徒間に伝播して言っている。また、教勢のバロメーターとしての講習会参加者数の減少は加速、聖使命会員(会費)も激減が続く。著作権裁判はすべて敗訴の連続で、総裁責任は追及されて当然である。併し、終身総裁制を盾に、マサノブ君は総裁の椅子に執着して責任を取ろうとしない。
「無門関解釈」<不思善悪>及び、「生活と人間の再建」<善悪の境を超えて>の中の次の開祖・谷口雅春先生の御文章から見れば、マサノブ君、君の現在の到底宗教家の常識とは言えない真理に反する言行を如何に説明できるのかを問う!
1、「悪は常に破壊的なものである。その上に築かれたところのものは結局は崩れるほかはないのである。」
⇒ マサノブ君の「生長の家」解体計画の実行は「悪」である。かならずマサノブ君は自己崩壊を遂げるほかはないのだ! これ如何に?
2、「お前がそう云う謙虚な心をおこしたならば、吾れと同じく弘忍和尚を師と仰げ。そして善く自ら護持せよ」と慧能は云った。道伝えの本(もと)を明らかにする優れた心持ちである。」
⇒ 「生長の家大神=開祖・谷口雅春先生=『御教え』」が正しく、「生長の家大神→マサノブ(自称)総裁→「今の教え」は断じて間違いなのだ。これ如何に?
3、「<われ>を捨てよ」
⇒ マサノブ君は「我を捨て」ないどころか、益々、総裁の椅子にしがみ付き、気に食わぬものを独裁権力を使って追放し続け、宗教貴族として信徒の浄財で遊び暮らし、信徒の浄財から合法的に自己資産を増やし続けているではないか?何と答える、これ如何に?
4、「心の目を放って實相を見よ。實相の世界を見よ。實相の人間を見よ。彼はただ善である。神の造り給うた此の世界はただ善である。そして神の造り給うた神の子も又ただ善である。自分のみが善であるばかりでなくすべての人間が善である。」
⇒ マサノブ君は、自分に諫言する人を疎んじて何故、追放してきたのか? また、本来の『御教え』を信奉する者を何故「原理主義者」と云う烙印を押して追放するのか? マサノブ君は、これ等<諫言の士>や<原理主義者>の人たちを善と見ず、悪と見ているではないか、これ如何に?
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