生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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雅宣さんは、、『宗教家』ではありません。 (7097)
日時:2015年06月09日 (火) 23時26分
名前:不動明王

少し長い文ですが。以前の雅宣さんのブログより。

2007年9月25日
トンデモ科学にご用心 (2)
 前回の本欄で、私はあまりにも簡単な質問を発してしまっただろうか。さっそく、読者の1人が正解を与えてくださった。人間が心で想うことと、水の物質的成分に直接的な相関関係は「ない」というのが正解である。蒸留水を前にして人間が「これは甘い」と強く念じたところで、その水中に糖分が生じるなどということは「ない」と答えるのが、我々のような一般的な教育を受けた現代人の正解である。これはまた“常識”とも言えるが、その一方で、きちんとした科学的理論と実験との積み重ねによって得られた人類の知識の成果でもある。しかしもし、肩まで髪とヒゲを伸ばし、いかにも“宗教家然”とした風体の男が、鋭い眼光を向けて大音声とでこう言ったとする−−

「人間は神の子であって、無限力である。神に不可能がないのと同じように、人間にも不可能はない。たとい蒸留水であっても、人間が信念をもって強く“甘い、甘い”と念じれば、その蒸留水は甘くなるのである!」

 読者は、この男の言葉を信じるだろうか? 言葉の前半は信じるが、後半は信じないだろうか? 前半を信じるなら、後半も信じるべきだろうか? もしそう感じるなら、それはなぜだろう? この言葉をもし、小学校5年の息子の友人が言ったとしたら、どうだろう? 生長の家の地方講師が言ったなら、どうだろう?……
 
 ある言葉の内容が正しいか否かは、それを誰が言ったかによって決まるのではなく、その言葉の内容自体によって決まる、と私は思う。また、ある言葉の一部が正しいとしても、それは全体が正しいことを必ずしも意味しないと思う。さらに言えば、ある人が生長の家の教義と似たようなことを言ったとしても、その人の言うことすべてが正しいことを意味しない。「是是非非」という言葉があるが、信仰者にもそういう慎重な態度が求められると私は思う。
 
 では、次の質問へ移りたい。ある人が次のような意味のことを本に書き、その証拠としてカラー写真を何枚も掲載し、その本が日本のみならず、海外でも翻訳されてよく売れていたとする。読者は、この人の言うことを信じるだろうか? それとも信じないだろうか?
 
「水は人間の心に感応して、美しい結晶を作ったり、醜い結晶を作ったりする。そのことは、実験によって示すことができる。これは世界がすべて心の波−−波動でできているからである。即ちこの世界は、心でつくられているのである」

 生長の家の「唯心所現」の教義から考えれば、上のような主張は誠に興味深い。しかし、その反面、人類が何万年にもわたって積み上げてきた科学研究の成果から考えれば、簡単には納得できない種類のものである。もしこのようなことが日常的に起り得るならば、もっと別のことも起り得るはずである。例えば、「水」だけでなく「油」も「金属」も「空気」も人間の心に感応して、それなりの変化を生じるはずである。なぜなら、油も金属も空気も、物質としては水と本質的に等価であるからだ。つまり、水(H2O)に含まれる水素(H)原子は、油や空気中に含まれる水素と物質的にはまったく同一である。水にだけ働き、他の物質には働かない物理学の法則や化学の法則など存在しないはずである。これを逆に言えば、水の結晶の形成に人間の心が影響を及ぼすことができるなら、それこそ文字通りの“錬金術”も可能なはずである。

「信じたい」と思っていることが、必ずしも真実ではない。しかし、人間はまず「信じたい」ことを信じるのである。この難しい関係を正しく解きほぐして真理に近づくために、科学は「科学的方法」というものを考案した。その1つが論理性(理性)であり、また1つが再現性である。ある真理に到達するためには、その真理を論理によって仮説化し、その仮説が誰によっても実験的に再現できるかどうかを確認する。この確認ができれば法則を発見して真理に至る、というわけである。

 もう何年も前に遡るが、私は上の「水の結晶」の話を聞いて興味をもち、半信半疑ながら実験によって結晶の再現を試みた。例の水を入手し、シャーレも買って、冷蔵庫の中へ入れた。結果は、何ごともなかった。そこで本の出版元に電話して理由を訊いたのだが、答えはこうだった−−

「結晶は、うまくできる場合とできない場合があります」

 私は、この答えを聞いて実験をやめた。なぜなら、この答えは実験の元になっている仮説が正しくないことを証明しているからだ。“偶然”によってできた美しい結晶と、これまた“偶然”によってできた醜い結晶を、あとから人間が書いた言葉と組み合わせて写真を撮ったとも解釈できる−−こんな安手のトリックを「科学」と呼ぶ人がいたら、私はそれを「トンデモ科学」と呼びたい。生長の家の講師がもしそんな「トンデモ科学」に与していたとすれば、それこそトンデモナイ話である。
 
 谷口 雅宣




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