生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

トップページへ戻る

 

↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓

 

名前
メールアドレス
スレッド名
本文
写真

URL
削除キー 項目の保存


生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第二十九話> (526)
日時:2013年03月19日 (火) 08時55分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第二十九話(通算第355話)

 
西田哲学との比較に於ける人間論 <その十一>

『人間死んでも死なぬ』P.357−359




<<斯くの如く人間存在の根本的自己矛盾が、神に仍(よっ)て創世の設計の初めからされたるものであると観るとき人間は結局救われ難きものとなるのである。斯くの如き救い難さは神の理念(イデア)なるものと、それに反(そむ)く肉体なるものとを、共に実在なりとして、同じ強度(インデンシティー)を以って結びつけ、「土の塵+神の生気(いのちのいき)」を「人間」と観じようとする瀧澤氏の空しき努力にあるのである。

斯くの如き矛盾せるものを人間の中に実在として肯定する限り、人間は永遠に救われない。

これが真に西田哲学であるならば、私はその名声と「今、此処にあって永遠に触れている」等の私の哲学に似ている哲学を説く人として尊敬措(お)く能わざる人であった西田幾太郎博士に対する尊敬が幾分減ぜざるを得ないのである。

人間を土の塵で造ったと云うエホバ神の如きは、決して創造神ではないのである。(『生命の實相』第11−12巻・萬教帰一篇)

彼はユダヤの原始民族の迷信せし風雨雷霆(らいてい)の神であり、後にユダヤ民族の守護神として尊敬され、更に進んでは創造神と間違え崇められて、創世記の第二章以下に頑張っている神であるが、創世記第二章は、神の“真の”人間創造を説いたのではなく無明縁起を説いたのである。

「土の塵」で創造(つく)ったと云うのは、創世記第一章に於いて神の理念(コトバ)によって造られ、善なる神の肖像(にすがた)として造られ、甚だ善しとエロヒム神の賞(ほ)め給うた<本当の人間>を蔽い隠す「無明」に過ぎない。

エホバ神は「無明縁起」の法則の人格化として立つのである。
(『生命の實相』前記巻・萬教帰一篇)

無明より縁起した者は悉く無常のものであり、儚(はかな)いものであり、苦しみであり、楽園追放である。このことに就いて創世記に間違いはない。

併し「無明」は人間ではない。達磨が慧可(えか)に言ったように<無明は無いのである>。人は水が濁ったと言いうけれども、水は未だ嘗て一度も濁ったことは無いのである。濁っているのは塵埃(じんあい)だけである。水が濁っていると見えるのは一種の錯覚に過ぎない。

それと同じく人間が神の理念(いのちのいき)であると同時に、神に反(そむ)ける「土の塵」であるところの濁り水のようなものであると云うのは一種の錯覚に過ぎないのであって、「真の人間」はただひたすら神の理念(コトバ)であり、神の肖像(にすがた)であり、従って初めから完全なるものであり、神が「甚だ善し」と賞(ホ)め給うたものであり、(創世記第一章)未だ嘗て「土の塵」で汚されたること無きものであり、蛇の知恵に瞞(だま)されたること無きものである。

そして真の水のみが実在であるように、真の人間のみが実在であるのである。

神は決して人間を瞞(だま)すところの蛇などを創り給う筈もないし、そう云う瞞(だま)すところの危険な蛇などが棲んでいる世界は楽園ではないのである。

若し、瞞(だま)すところの蛇を神が造ったのであるならば、原罪とはアダムに非ずしてその悪しき蛇の造り主なるエホバ神に在るのである。

斯くては、原罪はエホバ神に投げ還されるのであるが故に、瞞(だま)す蛇がエデンの楽園に創造(つく)られてあると云う考えを抱くということは、結局、瀧澤氏の神に対する敬虔な信仰を裏切るところの涜神的(とくしんてき)な考えとなるのである。

西田哲学が斯くの如きものならば人間存在の根本矛盾を神に帰する涜神的(とくしんてき)なるものである。

生命の實相哲学では、「土の塵」を人間とするところの無明、瞞(だま)すところの蛇を以って表象される無明は<本来ない>と云うのである。

無明なきが故に、原罪も<無い>。原罪なきが故に、原罪を贖(あがな)うところのキリストの磔殺は肉体の否定に過ぎない。

無明アリと思い、土の塵アリと思い、瞞(だま)す蛇アリと思うのは實相と仮相とを混淆して共に存在であるとする思い違いである。

仮相はいくらアルが如く見えようとも實相とはならないのである。

人間の根本的矛盾と苦悩とは斯くの如き實相と仮相との混同より来る。

キリストはその磔殺によって仮相の抹殺を教えた。

キリストは神の子即ち理念(ロゴス)であるが故に磔殺され難きものである。(ヨハネ伝第一章)

磔殺されたのは仮相であり、「土の塵」であり、「偽存在(にせもの)の人間」である。>>






Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板