生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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開祖・谷口雅春先生御昇天30周年記念 『正統・生長の家本義』――別派マサノブ教では絶対に聞けない信徒必読のお話です。<その三> (7157)
日時:2015年06月15日 (月) 07時05分
名前:信徒連合



B 生長の家の『御教え』とは、開祖・谷口雅春先生の『お悟り』



開祖・谷口雅春先生「大悟徹底」


「生命の實相」第20巻(P.134−P.137)より開祖・谷口雅春先生の「大悟徹底」の瞬間を記録された御文章を抜粋させて頂きます。

<< ある日、わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。私はそのとき偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の「色即是空」という言葉を思い浮かべた。と、どこからともなく声が、大濤のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。「物質はない!」とその声は言った。で、わたしは「空即是色」という言葉をつづいて思い浮かべた。と、突然その大濤のような声が答えた。「無よりいっさいを生ず。一切現象は念の所現にして本来無。本来無なるが故に無より一切を生ず。有よりいっさいを生ずと迷うがゆえに有に執して苦しむのだ。有に執せざれば自由自在だ。供給無限、五つのパンを五千人に分かちてなお余り、「無」より百千億万を引き出してなお余る。現象界は念のレンズによって転現せる化城にすぎない。かしこに転現すると見ゆれどもかしこに無し。ここに転現すると見ゆれどもここに無し。知れ、一切現象なし。汝の肉体も無し。」では、心は<ある>であろうかと思うと、その瞬間「心もない!」とその声は言うのだった。今までわたしは「心」という得体の知れない悍馬があって、それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。ところが「心もない!」という宣言によってわたしは、その「心」の悍馬から実相の大地に降りたのであった。

「心もなければ何も無いのか」とわたしは再び声の主にたずねた。「実相がある!」とその声はハッキリ答えた。「無のスガタが実相であるか、皆空が実相であるか」とわたしは尋ねた。「無のスガタが実相ではない。皆空が実相ではない。皆空なのは現象である。五蘊が皆空であるのだ。色想受行識ことごとく空である!」。「空と無とは異なるのではないか」とわたしはたずねた。「空と無とは異なるとは思うな。五蘊皆空であるのに空とは無ではないと思うから躓く。空を無とは異なると思い「無ではない」と思うからまた「五蘊は<無いではない>」と引っかかるのだ。「五蘊は無い」とハッキリ断ち切ったところに実相が出てくるのだ。<無い>ものを<無い>としたところに本当にアルものが出てくるのだ。」

「では実相とはなんであるか」とわたしは訊いた。「実相とは神である。<ある>ものはただ<神のみ>である。神の心と神の心の顕現のみである。これが実相だ。」ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。 「心も<無い>のが本当ではないか。」「<無い心>は受想行識の心だけだ。そういう意味でなら仏もない、衆生もない。心仏衆生三無差別と説く場合には心も無い、仏も無い、衆生を抹殺し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさいを抹殺したときに実相の神、久遠実成の仏が出てくるのだ。」「それがキリスト教ならイエスを十字架にかけることになるのですか。」「そうだ、肉体イエスを抹殺したとき、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前から生き通しの久遠のキリストが生きているのだ。イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きてくるという象徴である! 今ここに久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ!久遠の今だ!今が復活だ!今をいきよ。」わたしの眼の前に輝く日の出の時のような光が燦爛と満ち漲った。何者か声の主が天空に白く立っているように思われたがそれはハッキリ見えなかった。しばらくするとその燦爛たる光は消えてしまった。わたしはポッカリ眼を開くと合掌したまま座っている自分をそこに見出したのであった。

それ以来、心仏衆生三無差別の心というものが本来無いものであるということがわたしにハッキリ分かった。迷う心も無いから悟って仏になる心も無い。迷う心が進化して悟って仏になるとおもっていたのが間違いであったのである。ただ初めから仏であり、神である「実相の心」があるだけである。その実相の心が展開した実相の天地があるだけである。浄飯王の王宮を出て伽耶城を去ること遠からず、菩提樹下に六年静思して初めて悟りをひらいて仏となったという現象の釈迦牟尼佛は本来無かったのである。「法華経」の中で釈迦自身が「我実に成仏してよりこのかた無量無辺百千万億那由他劫である」といったその久遠の仏のみが実在であったのである。その久遠の仏が今ここに生きているのだ! 十字架上に磔けられて「神よ、神よ、なんぞ我れを捨て給や」と哀号したイエスは本来無かったのだ。永遠の神性(キリスト)――「アブラハムの生まれぬ前から生き通し」とみずから言ったキリストのみが実在であったのだ。自分もまた明治26年11月22日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである。このままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始めから仏であった自分であったのだ。・・・・・>> (「生命の實相」第20巻P.134−P.137より)



開祖・谷口雅春先生「實相訓」

<<生命の實相と申候事は、此世界が此儘神の国であり、人間は其儘神の子なりと申事に候。観ずればそれが現るゝものに候。観ぜざれば現れる事なく、さればこそ心を静めて實相を見よと申すに御座候。
 現象に如何なる悪現れ申候とも、いづれも神の作り給へる實在には無之候間、気にかけずに唯實相円満なる相のみを観ずれば、結局は円満なる實相現るゝものに有之候>>
(昭和二十二年正月、新居浜 秋月家)


<<生命の實相を悟ると申候事は、今此処の生命を久遠の生命と自覚して不恐、急がず唯ひたすら其の儘に生きることに候。今の生命を大切に遊ばさるべく候。
 一瞬の中に久遠、一挙手の内に無限の存することを知り萬事をゆるがせにする事なく、一瞬、一瞬を喜びて感謝して生きるとき其処に無限の供給あり、其処に無限の健康有之候>> (昭和二十二年十月二十六日、姫路 田中家)



開祖・谷口雅春先生「神想観のすゝめ」

<<此のまゝ『神の国』である世界(宇宙)の實相とそのまゝ『神の子』である人間の實相とを想い且、観ずるのが神想観である。想念することと観ずることによって既に在る『神の国』と『神の子』とが現われ至幸至福、無礙自在の境に達し得られる。
 神想観は生長の家の最も重要なる行法であるから神想観指導宝典を精読し、熟練せる先輩を導師として、又教化部や相愛会などの早朝神想観に参加し真剣に根気よく修練するのが最もよい。>>



 開祖・谷口雅春先生 「金波羅華天皇国日本の實相」に御開眼!

 <<大日本国体の尊厳無比、宇宙の実相と同体にして久遠無窮なる事実・・・大日本国家は因縁仮和合の国家ではない・・・私は『無』の門関を超えて、釈尊の指頭にある金波羅華が象徴する「実在」の荘厳無二組織完備の大日本国家を把握したのである>>
(『無門関解釈』第六則「世尊拈花」の公案解釈P.70−72)

 

<<金剛不壊の世界・蓮華蔵世界・・・私は此の世界を直接見たのである。直接触れたのである。絶対実在の絶対認識である。その絶対実在の世界は決して無常の『空』なる世界ではなく、金剛不壊にして、『実』なる世界なのである。>>(『驀進日本の心と力』P.133)







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