生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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開祖・谷口雅春先生御昇天30周年記念 『正統・生長の家本義』――別派マサノブ教では絶対に聞けない信徒必読のお話です。<その六> (7185) |
- 日時:2015年06月18日 (木) 08時56分
名前:信徒連合
E 開祖・谷口雅春先生の全貌
開祖・谷口雅春先生の高弟として若い時から永年にわたってその膝下で真理の研鑽を積んでこられたお二人の本部講師の方は、開祖・谷口雅春先生の『全貌』なるものについて次の如く語っておられるのであります。
御高弟の本部講師A氏
<< 開祖・谷口雅春先生の大きな特異点は、学者などによって書かれた「雅春先生」に関する研究文献が非常に少ないということです。ある学者は『谷口雅春という人に関する学問的疑念は“不可解の極み”である』とさえいっております。開祖・谷口雅春先生の“全貌”は一口では言えないから、学者が束になってかかってもその“全貌”は解き明かすことはできないからであります。また、生長の家教団内において開祖・谷口雅春先生の高弟であった山口悌治先生といえども「自分が書けば“山口・生長の家”となり、非常に限定されたものとなります」と言われ、これまた山口悌治先生ほどの人でも開祖・谷口雅春先生の“全貌”は書けないのであります。>>
御高弟の本部講師B氏
<<『神、真理を告げ給う』の中で“私”とあるのは“神御自身”のことであるとして開祖・谷口雅春先生を通して神様が御教えを伝えてくださっています。『私(神)は色々な宗教の指導者・哲学者・深い境地にまで達した学者たちの中にあって指導してきたのである。従って、宇宙の真理は人間の頭脳知によらず神の啓示によって人類につたえられているものである。』このように生長の家の御教えは他の宗教の成り立ちとは全く違う<最高の宇宙の大神>直伝の御教えであることを自覚することが大切です。生長の家の御教えとは新しい時代を救うすばらしい御教えです。釈迦を「仏」と云い、イエスを「キリスト」と云うならば、仏教を超え、キリスト教を超えて「完成の宗教」を地上に展開された開祖・谷口雅春先生は、日本神道の言葉を借りて云えば、正に、『谷口雅春の大神』と申し上げても決して遜色はないのです。むしろ、あの住吉大神を龍宮城よりお呼びされて総本山に祭祀せられた先生の“御神徳の高さ”をもっと深く知らねばなりません。人間は輪廻転生して道を説く。今までだれも為し得なかった「万教帰一」・「人類無罪宣言」を説いて現実に全人類を救われた事実、このことは開祖・谷口雅春先生の神格・霊的な高さが如何に優れたものであるか、それは釈迦・キリストを超えたものであります。>>
『聖使命菩薩讃偈』の冒頭には、
<< 掛巻くも畏こき宇宙の大神、人類の苦悩を見そなわし、応化して仮に聖姿を顕じ、広大の慈門を開き給えり、名づけて生長の家と謂う。>>とあります。
宇宙の大神が人類救済の為に応化して仮に聖姿を顕じられたのが開祖・谷口雅春先生だったのであると思うのであります。肉体人間の姿をもって出現された宇宙の大神の応化された聖姿、正に、「谷口雅春の大神」であったのでした。神の“全貌”は肉体人間の肉体頭脳知では決して説き明かせるものではないと思います。従って、学者が束になってかかっても、いくら研究しても“全貌”は説き明かせないのは当然であります。
開祖・谷口雅春先生は、宇宙の大神の正に“化身”なるがゆえに、地上にいる肉体人間の頭脳では把握出来ないのであります。唯々感謝礼拝させていただいて、『御教え』をそのま「ハイ」と戴くのみであります。
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F 信徒の体験談の価値
*** 体験記録の集積は科学である ***
『生命の實相』第36巻・幸福生活篇(P.8〜9)
<< 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、以前にも申しましたが総ての科学というものは体験の集積であります。科学者が、ある条件の下に於いて体験せられる事実の体験記録――これを抜きにしましては、科学というものは存在し得ないのであります。
ニュートンが林檎(りんご)の落ちるのを見て萬有引力を発見したというのもこれはニュートンの体験であります。ニュートンだけが体験したのであったら又ウソかも知れぬのです。ところが他の人も亦やはり物体が上から下へ落下するという事実を見ましてその体験録を発表したのです。そして誰も彼も皆よく似た体験録を発表したものですから、そこでなるほど萬有引力というものは存在するものであるという科学が確立したのであります。尤も物体は必ずしも上から下へ落下するものではありません。軽い物体や微小な塵埃は逆に下から上へ上るような例外もあります。それにはそれで又理由があるのであります。然し萬有引力は肯定せられました。
『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。
読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。>>
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G 「法燈継承」の真義
生長の家のあるべき“法燈継承”の相(すがた)とは、
@ 法燈継承即ち“嗣法(法を継ぐ)”とは、田中忠雄先生(長老・本部講師・禅の大家)の申された通り「盃の水をそのまま一滴も残さず零さず次なる盃へ移し替えること」であります。
A 「生長の家大神――総裁・副総裁――御教え」、この表現は開祖・谷口雅春先生御昇天後は、「生長の家大神=開祖・谷口雅春先生=御教え――第二代以降の総裁・副総裁」が正当なる解釈であります。これが正しい法燈継承であって、継承した人が自分の肉体頭脳知でもって独自の別の解釈をしたり御教えを左傾化した内容へ変更する事は決して許される事ではないのであります。また、御教えの全相を嗣法する事を以って“原理主義なり”と批難するもことも誤りであります。
B 上記の点については、他の宗教に於いても同じであります。 今光教に於いては「金光教は、教祖・金教大神が神伝によりて開創せられたる教義を奉じ・・・」とあります。
従って、生長の家の法灯継承も、正しくは「生長の家は、開祖・谷口雅春大聖師が生長の家大神より啓示・神授せられたる神示および谷口雅春大聖師の著わされたる聖典(御著書のすべて)を奉じ・・・」とならなければならないのであります。
開祖自らが話されて録音・速記されたもの、開祖自らが文字・文章として書かれたものほど、その宗教の教えとしてこれ以上確かなものは無く、その全相の把握によりその宗教の真髄が悟れるからであります。開祖のお話しの録音・著作物は、その教団にとって最高の至宝だと言えるのであり、開祖の著作物等を最大限に尊重して後の世に伝え遺す事、これこそ法を受け継いだ法燈継承者の第一最大の責務である筈。されど、開祖・谷口雅春先生の御著書をあろうことか絶版にしたり、録音や未発表の御原稿をもとに新刊書を一切出さないとはこれまた言語道断であります。
「生長の家教規」には、―――
第五条:教義
<< 本教の教義の大要は世界すべての宗教は唯一の本源より発するものにして、万教は唯一の真理に帰一し、人間救いの原理も唯一にして二あることなきことを宣説するものにして、教えの創始者谷口雅春の唯神實相の神学を鍵として全世界の宗教の経典の真義を顕示して人生に光明あらしむるものである。教義の根本たるものは『生命の實相』巻頭の「七つの燈台の点灯者の神示なり」・・・>>
第六条:本尊
<< 生長の家とは「大宇宙」の別名なれば、・・・あらゆる宗教の本尊の奥にある「實相」(唯一の真理)を礼拝の対象とするため『實相』の書を掲げるものとする。>>
第八条:儀式
<< この宗教の儀式は礼拝、祈り、神想観及び聖経読誦とし、教義に従い随時にこの教規に定めた講師の指導のもとにこれを行うものとする。>>
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