生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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「初心者=雅宣総裁」を証明する第一級の状況証拠 (58)
日時:2013年02月19日 (火) 09時27分
名前:四万十警部


生長の家本流関係掲示板で今熱い話題となっている「初心者=雅宣総裁」、これはホントかウソかについて、これは動かぬ証拠と思えるものをお目にかけましょう。

次に掲げる「初心者」氏の投稿文を御覧下さい。これは、昨年8月の宇治市の集中豪雨に関して、雅宣総裁が書いた『大自然讃歌』経が、災害を呼び寄せる『大自然惨禍』経である、と信徒さん達が言い出したときのことであります。



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通称「トキ掲示板」より =旅に出ていた「初心者」氏は急遽引き返して来て曰く=



286 :初心者:2012/08/16(木) 12:08:22 ID:TfQ0e6RA
このたびの「災害」にかんする、みなさま方の発言には関心を持たざるを得ません。新聖経と災害の関連性につきましては、まずはこれを主張しておられる方々にたいして、『生命の實相』にもとづいた厳密なる説明を期待いたす所存であります。


291 :初心者:2012/08/16(木) 14:39:56 ID:TfQ0e6RA
宗教が人間の無知と恐怖心と想像力につけ込むことで成り立っている・・・生長の家にしたところで似たようなものだということを、みなさまの書き込みより再認識させられたような次第であります。


296 :初心者:2012/08/16(木) 15:47:59 ID:TfQ0e6RA
今回の新聖経と災害のむすびつけにしても、それを語るのであれば、全体を知る必要があるのではないでしょうか。新聖経が読まれなかったときにはなにが起きていたのでしょう。災害は起きなかったということがいえるのでしょうか。もしそうであるのなら、今回の災害の原因は新聖経にあるということがいえますね。


305 :初心者:2012/08/16(木) 17:57:39 ID:TfQ0e6RA
宇治においては、これまで『甘露の法雨』が数え切れないほどに読まれてきたでありましょうけれど、人間知による、できたてほやほやの新聖経の悪影響をふせぎきれなかったということなのでしょう。それともこれは見せしめということなのでしょうか。もしそうであれば、生長の家の内紛に巻き込まれた人々が気の毒としかいいようがありません。


308 :初心者:2012/08/16(木) 18:30:29 ID:TfQ0e6RA
生長の家の発想の限界はそれほど高くはない、ということがいえそうですね。


311 :初心者:2012/08/16(木) 19:36:26 ID:TfQ0e6RA
生長の家は、じっさいのところなにができるのですか?新聖経で災害を引き起こすことができると、本気で考えておられるのですか?もしそうであるなら、ほかにできることを列挙していただきたく存じます。


331 :初心者:2012/08/17(金) 08:40:18 ID:TfQ0e6RA
結論からいいますと、状況証拠によって、新聖経には災害を呼び込む威力があるということを認める、ということですね。これならこれでよいのですが、であるなら、これ以降の新聖経にかんする言及は、以上のような認識にもとづいてなされる、ということを希望いたします。言及が、そのときどきの都合でちがった方向に向かうというような事態だけは避けなにを問題にしているかといえば、「一元論という決定論的世界において人間はなぜ自由でいられるのか」ということを問題にしております。聞くところによりますと、一元論を唱えていた哲学者のスピノザは、「人間の自由」の問題に突き当たり、しかも生涯にわたってこの問題を解決できなかったということですね。この問題を雅春先生は、「神は人間に自由をあたえられた」のひと言で解決なさいました。一元論の決定論的性質を棚上げにし、「超越項」をもちいることで、スピノザでさえ解決できなかったとされるこの難問を、雅春先生は解決なさったのですね。こうした説明に納得される方はよいですが、一方には「納得できない」とする勢力も当然のことに存在いたしますね。一元論という決定論的世界にありながら、なぜ自由意思というものが存在しうるのでしょうか。この問題を、「生長の家の教えの問題点と限界」に焦点をあてながら考えてみたいとおもいます。それはひとえに、「雅春先生は生長の家の教えを真に理解しておられたのか」の問いに答えを出したいからであります。


337 :初心者:2012/08/17(金) 10:44:44 ID:TfQ0e6RA
トキ様はなぜ「雅春先生への批判はご遠慮ください」とわざわざ表明なされたのでしょうか。これを表明なさるのであれば、総裁先生への批判もご遠慮ねがうように明記すべきでありましたね。それをしなければ、一方の批判だけが許されて、他方の批判は許されないという、いびつな構造が温存されますね。



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< これこそ「初心者=雅宣総裁」の第一級の状況証拠である>


■■■ 仮に「初心者」なる人物が雅宣総裁とは何の関係もない第三者であるとしたならば、ここまで執拗に「新・聖経」と宇治市の豪雨落雷について言い訳を探して言及する必要があるのでしょうか? 雅宣夫妻の“北海道還暦旅行”と時期が一致している“世界旅行”を続けている筈の「初心者」が急拠舞い戻り、ここまで拘(こだわ)って「新・聖経」と豪雨落雷事件の相関を打ち消す投稿をし続けたと云う事は、「初心者」=「雅宣総裁」である事の証明以外のなにものでもないのであります。■■■■■







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