生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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6月29日「枯れ松模様」――マサノブ流説教は、学者的な霊的感動のない分析知・評論知であって、聞く人の心を動かす力はゼロである。こんなニセ総裁は宗教家とは言えず救済力はない! とっとと辞職して学者・評論家の道を進むべし! (7368)
日時:2015年07月01日 (水) 19時39分
名前:公平なる観察者


講習会に於ける人気のない環境講話・全国的な教勢急落・教団の連続赤字転落に対する責任を全く感じていないマサノブ・ニセ総裁は、相変らず大閑人(おおひまびと)として、「枯れ松模様」を書き続ける。しかしその内容たるや全く霊的感動の無い学者評論にしか過ぎず、この様な人物が「生長の家・総裁」と名乗っていることは汗顔の至りである。先ず、その概要は下記のごとくであります。



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平成27年6月29日「枯れ松模様」 =ローマ教皇の“環境回勅”(2)= (概要)

<< 「生長の家が言ってきたことと、ほとんどそっくりだ」と書きたかった。ただ、そう表現して、何がどうそっくりであるかを説明しないのは不親切なので、本欄を使って少し解説を加えよう。まず、宗教上とても重要な「教典解釈」の面で方針転換が明示された。・・・旧約聖書の『創世記』にある有名な天地創造の物語の“再解釈”である。同書第1章には、神が天地創造をされた際に、最後に人間も創り、その人間に「海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」と言われ、男女の人間を創造されて「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物を治めよ」と言って祝福された、と書いてある。この「地を従わせよ」(28節)という表現−−英語では dominion over the earth−−の意味を、これまでのカトリックの教えでは「人間の目的のために利用してよい」と解釈する傾向が強かった。・・・カトリック教会の思想の趨勢は、神・自然・人間の三者を「神→人間→自然」という優先順位で考える点で一貫していた。・・・自然界をあくまでも「人間のための宿」とする考えであり、自然それ自体に固有の価値を認めるものではなかった。自然界は人間の魂の進歩のための“場”・・・自然界を人間の目的に利用できるとした。・・・カトリック教会の、このような人間中心的な聖書解釈とは一線を画したのが、アッシジのフランチェスコ(1182-1226)である。フランチェスコは、神の被造物のすべてを「兄弟」「姉妹」と見なした。彼は、伝統的なカトリックの「貧しい人々に対する愛」を、すべての生物、さらには生命をもたない被造物全体に拡げ・・・生命をもたないと考えられている太陽、月、地球、火、水などが「兄弟」「姉妹」と呼ばれ、それらのおかげですべての生物が生かされていることが描かれ、神・自然・人間の調和を観ずる・・・フランチェスコ以降のカトリック教会の思想は、しかし、神・自然・人間の調和や自然保護を説く方向へではなく、人間社会の困窮や貧困、虐げられた人々の救済の方向へ、再び重点を移していくことになる。ボストン大学でキリスト教倫理学を教えるジョン・ハート教授によると、20世紀が終りに近づくにつれてカトリック教会は確かに「地球の自然の保護」を説き始めたが、それは「人類生存の必須条件を提供する場」としての価値に限定されていたという。それでもやがて、カトリックにおいても地球それ自体の価値、そこに棲む生物それ自体の価値が説かれるようになったが、それは教会組織の上層部の主導ではなく、科学研究の成果によって地球規模の環境危機の到来に目覚めた神学者や倫理学者、その他の学者の考えに触発されたものだという。 ローマ教皇自身が地球環境問題を正面から取り上げるようになったのは、ヨハネ・パウロ2世からである。「すべての財産は“社会的抵当”に入っている」と宣言した。これは、土地というものは、たとい私的財産となっていても、本質的には人類社会の共有財産であるとの教会の立場を示したものだ。・・・地球は、最終的には「共有の相続財産」であるとし、「特権的な少数者があり余る物資をかき集めて、入手できる資源を浪費する一方で、大勢の人々がやっと生きられるという最低限の生活を余儀なくされる悲惨な状態にあることは、誰にも明白な不正義である」と宣言した。これは、世界の貧困の構造的問題に目を向けなければ、環境問題は解決しないという、経済と環境の双方の問題をリンクさせる訴えで、フランシス教皇の回勅にも受け継がれている。 このような経緯を理解して今回の回勅を読むとき、その変化の大きさが理解できるのである。 谷口雅宣 >>



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<講評>


@ マサノブ・ニセ総裁は、ローマ教皇の“環境回勅”の内容を「生長の家が言ってきたことと、ほとんどそっくりだ」と書いているが、今回の彼の投稿文を読んでも“そっくり”の内容が分からないのである。マサノブ君のいう「生長の家」と言うのは、開祖・谷口雅春先生の説かれた『御教え』ではなく、それを換骨奪胎した非・生長の家「マサノブ教」であって、その環境問題の捉え方がローマ教皇の“環境回勅”の内容と同じだということである。ウッカリしているとまたもやマサノブ・ニセ総裁独特の洗脳術のワナにはまってしまうのであります。ご用心! ご用心!



A マサノブ君は「創世記」の解釈についてのカトリック教会の「経典解釈」の変更を強調しているのであるが、このようなローマ教皇の「経典解釈」の変更を幾ら説教してもそれは単なる学者的評論に過ぎないのである。「生長の家」信徒の吾々にとっては、開祖・谷口雅春先生が「創世記」の霊感的解釈をどのように説いておられるかの方が大切であり、雅春先生の霊感的解釈によってわれわれが如何に救われてきたのかという事が大切であるのであります。



B 『生命の實相』万教帰一篇には生長の家信徒にとって非常に大切なことが最初に書かれているのであり、これは信徒としてシッカリと覚えておかなければならない事であります。

1、「現象と實相とをハッキリ区別する本書の説き方――神は実在界の創造者であり、現象界は衆生の見る世界すなわち唯心所現の世界である」(はしがき)

2、「あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。霊感によって書かれたものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。いかなる博学者も、ただ語義のみ知って霊感なきものは、真に経典の生命を捉え得ない。生長の家は霊感によってあらゆる尊き経典の神髄に透徹してこれを拝むのである。」(3頁)


マサノブ君はこの重要な開祖・谷口雅春先生の御言葉を完全に無視しているのである。今回の文章も又、現象のみを説明し、實相を語らず、霊感なき自己の未熟さを棚に上げて博学振りを信徒に誇示した肉体頭脳知による文章であるから、われわれ信徒は少しも霊的感動を覚えないのである。だから、ニセ総裁と言われても仕方がないのであります。正統なる三代目であるならば、『生命の實相』万教帰一篇の「創世記」解釈から開祖・谷口雅春先生の霊感による解釈を引用して、ローマ教皇のこういう説教の内容と一致していると解説すべきである。マサノブ・ニセ総裁は開祖・谷口雅春先生を嫌悪して、自己の肉体頭脳知で勝手に考えたマサノブ流解釈を述べているに過ぎないのであります。ウッカリしておれば、狡知マサノブ・ニセ総裁のワナにかかってしまいまするぞ! 御用心、御用心!



C マサノブ君は、『生命の實相』の次の御文章を全く無視しているのであります。

<< これから理想世界が成るのではない。すでに成っているとは非常にありがたいことであります。これから成るのであればわれわれに色々と工夫もいることでありますが、すでに成っているから非常に楽なのであって、われわれはただそれを「正しいレンズすなわち正しい心で眺めさえすれば、すでに成っている理想的完全な実在世界が現実の世界にも映って来るのであります。キリストも「神の国はここに見よ。かしこに見よというように来るのではない、なんじらの心の中にあるのだ」といっているのはこの意味であります。といって、心ばかりで、この不調和な世界に満足してそら喜びをしておれというだけのものではない。心に「實相世界」の全たき相を観るようにすれば、前の不完全な世界は自然に過ぎ去る、――前のものが過ぎ去ったら、後には必然的にすべてのものを新たにする作用が起こる、こうして自然に新天新地が現実世界にも出来上がってくるのでありますが、この新天新地というものは「ことすでに成れり」と神が言われたようにすでに最初から出来上がっているものである。ただそれが現実世界に映ってくるには真理を知る必要がある。それで渇くように求めて、真理の泉を求めるものには「生命の水の泉」(『生長の家』のような真理の書)が与えられ、それを飢え渇くように読んでいるとおのずから真理をさとらしめられて、その人には新天新地(新しき健康や境遇や社会)が見い出されてくるのであります。>>(26〜27頁)


このように書かれているのでありますが、マサノブ君には真理の書「生命の實相」を飢え渇くように読むという求道心が全くなく、学者・評論家的立場で読んでいるから中々真理の奥陣にまで入れないのであります。真理とは程遠い自己流解釈を肉体頭脳知で為すだけでとどまるのであります。



D マサノブ君の嫌いな言葉――「・・・治めしめん」

<< 神は實相世界の万物を自己から放射された霊的観念で創造(つく)り給うた。おのおのの創造(つく)られたるものは、一にして多、多にして一なる神の無限の御性質の一部分をあらわしている。そして、おのおのは“微”は“微”としてそのままで調和している。“小”は“小”としてそのままで調和している。“大”は“大”としてそのままで調和している。形にも色彩にも千差万別であるけれども、すべてそれは神の無限の御性質のいくぶんかを体現していて、そのままで整っているのであります。けれどもこれまでの創造では、まだそこには神の全内容を姿にあらわしたともいうべき、すべての方面を完備したものが創造(つく)られていない。そこでこの一節(注・「創世記」第一章26)には、本当に神の御性質全体を完全に表現したところの人間をお創造(つく)りになったことが示されているのであります。それで、人間は神の御性質全体の体現者として万物の霊長とせられ、万物を支配する力を与えられるのであります。>>(28頁)


このように書かれているのでありますが、マサノブ君は實相と現象の区分が理解できていないために、「人間至上主義」という言葉を造って「万物を支配する力を持つ人間」を嫌悪するのであります。



E マサノブ君の嫌いな言葉――「・・・従わせよ。すべてのものを治めよ」

<< 神の命令はここにいとも明かに「生めよ、殖えよ、地に満てよ」と宣言されているのであります。これは神が自己より出だし給いし創造(つく)る力を祝福して讃美し給うたのであります。マルサスの『人口論』は人間知恵であって、神の命令ではない。神、その造りたるすべての物を視たまいけるに、はなはだ善かりきと断言せられている。正しく生活すれば、かく(注・マルサス『人口論』)のごとき非調和なことは起こりえないのです。・・・完全な知恵と調和とが支配している「實相世界」の生物界には、有無相通じて決してそんなことはないのであります。で、この現象世界も「他に与えたら、自分は足りなくなるだろう」という迷いの心を捨て、有無相通じて完全に調和している「實相世界」の状態を真似て生活するようにし、富める者は貧しきに与え、水の低きにつくがごとく余れるをもって無きところを補うようにしますと、「實相世界」そのままの状態を映しだした完全な「現象世界」が実現してくるのであります。なおこの一節(注・「創世記」第一章28〜31)で注意すべきことは、神の像(かたち)のごとく完全につくられたる「人間」こそ万物の霊長であって、他の一切のものを支配する権能を与えられている真理がいとも明らかに現わされていることであります。神は人間を祝福してすべての生き物を治めよと宣(のたま)いました。これ神の命令(みことば)であります。神の命令(みことば)は絶対的なものであって、いかなる権威者もこれに逆らうことができないのであります。・・・神は人間の食物として、穀物、果実、野菜などを定め給うたのでありまして、決して動物を殺して食えとはいい給うてはいないのであります。・・・植物はこの『創世記』にあるように神が人間および動物の食物として与え給うたものでありますから、それはたとい生きていましても、われわれが採種して食しましても痛みを感ぜず、苦痛の形相を呈したり、悲哀涕泣したりしないで、われわれの愛の感じを裏切らないように造られているのであります。・・・かように人間が正しい知恵をもって植物を採種したり切り取ったりして食用にしますと、人間自身が生命力を旺盛にし得るのみならず、植物自身の生命と繁殖の助けともなる、すなわち他を生かす愛の道にかなう。神の造り給える世界は、神の命令通りを守って神の知恵によって生きていきますと、こういうように、互いに傷つけるのではなく、互いに生命を生かし合うようになっている調和した世界なのであります。それを一歩、神の命令の外にハミ出て、神の知恵で定められた栄養分で満足せず、蛇の知恵で、動物食の方が栄養分が多いなどということを考えて、動物を殺して食うということになりますと、たちまちわれわれは愛の道に反し愛の権化であることを生命として造られている人間は、その生命を失って、デブデブ肥るかもしれないが、「生ける屍(しかばね)」となってしまうのであります。>>(32〜33・36・41〜42頁)


マサノブ君は、「神・自然・人間は一体」、そして「人間は自然の一部」という思想であります。ここで、マサノブ君は、「人間は神の最高の自己実現」という『御教え』を否定し、實相と現象の区別が出来ないで、「人間至上主義」、「人間は自然の破壊者」と定義を下したのである。マサノブ理論では、結局、穀物・野菜・果物・根菜類はそれらのいのちを奪う人間至上主義の考え方から見ると人間が食べていのちを奪ってはいけないとの帰結となり、地上肉体人間の存在を根本的に否定していることになり、支離滅裂な思考となっているのである。これは、唯物現象論であるマサノブ理論(「今の教え」)の致命的欠陥であります。



F << ヨハネ・パウロ2世・・・「すべての財産は“社会的抵当”に入っている」と宣言した。これは、土地というものは、たとい私的財産となっていても、本質的には人類社会の共有財産であるとの教会の立場を示したものだ。・・・地球は、最終的には「共有の相続財産」であるとし、「特権的な少数者があり余る物資をかき集めて、入手できる資源を浪費する一方で、大勢の人々がやっと生きられるという最低限の生活を余儀なくされる悲惨な状態にあることは、誰にも明白な不正義である」と宣言した。これは、世界の貧困の構造的問題に目を向けなければ、環境問題は解決しないという、経済と環境の双方の問題をリンクさせる訴えで、フランシス教皇の回勅にも受け継がれている。>>


マサノブ君の上記引用文章は、やはりユダヤ思考のジキルとハイド的な文章であります。つまり、表面の説教は“ナルホド尽くめ”(ジキル的説教)――

1、 地球は地球上のすべての生物の共有財産である。

2、 にもかかわらず、特権的な少数者があり余る物資をかき集めて、入手できる資源を浪費する一方で、大勢の人々がやっと生きられるという最低限の生活を余儀なくされる悲惨な状態にある。故に、この不正義は正さなければならない。

3、 この貧困問題を解決しなければ地球環境もよくならない。


しかし、マサノブ君の上記引用文章の内容にはウラ(ハイド的策略)がある、――

1、 地球は地球上のすべての生物の共有財産であるから私有財産制度は間違いである。

2、 二極格差の貧困問題を解決するためには、地球国家・地球市民意識への切り替えが何よりも優先される。世界統一政府を造って、平等分配社会に変革すべきである。

3、 そのためには、国境を廃止して、国家意識と民族意識を地球上から消滅せしめよ。

4、 かくすることによって、「ユダヤ・タルムード」によるロスチャイルド・ロックフェラー国際的金融財閥の牛耳る「権力者共同謀議機構」の世界支配が完成するのである。


「権力者共同謀議機構」の傘下に組み込まれてしまっているマサノブ君は、その為に「生長の家」の完全解体と開祖・谷口雅春先生の『御教え』の抹殺を目指しているのである。だから、「教勢急落」にも責任を感じず、悠々として宗教貴族生活を享受しているのであります。(この様な考えは理解できない虚構だと思われる方々も多数おられると思います。しかし、マサノブ・ニセ総裁の社会の一般常識的行動に反している彼の異常思考、異常行動は、斯く考えなければ的確な説明とはならないのであります。)







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