生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その14> =病気からの解放= (549)
日時:2013年03月20日 (水) 15時06分
名前:信徒連合




開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その14>




             =病気からの解放=


     『生命の實相』第15巻・人生問答篇(P.113〜116)




遠山(医師):

わたしは病気はないといわれる「生長の家」の主張がハッキリまだわからないのです。大人がいろいろと病気を恐怖して病気になるというようなばあいには、その病気は恐怖の念(こころ)の影だともいえますけれども、生まれて間もない子供、また病気のなんたるかを知らない子供が病気になるのは念(こころ)の影だとはいえないように思われます。



谷口:

念(こころ)というものを、いま心に何か考えている、その考えている念(こころ)だけを自分の念(こころ)だと思っていられるからそういう疑問が起こるのです。

われわれは何も心に考えていない時にも、われわれを今在るとおりの形にあらしめているところの念(こころ)が、われわれの肉体の背後にあるのです。

われわれの肉体というものは、その念(こころ)が影をうつしてこういう形にあらわしめているのです。念(こころ)というものがフィルムであって、そのフィルムを透して“生命の光線”が射して来てスクリーンにそのフィルム(念)にあるとおりの影を映す。その影が肉体なのです。

だから病的観念のフィルムをかければ肉体は病気になるし、健康観念のフィルムをかければ肉体は健康になるのです。

先日も誌友から、「病気は心の影で実在ではないなら、健康も心の影であって実在では無いではないか」という質問が来ましたが、むろん「健康な肉体」も念(こころ)の影であって実在ではないのです。

実在でないからこそどんな健康な肉体でさえも百年二百年とは存在しないで消えてしまうのです。実在でないものはみんな自滅するようにできているのです。

われわれは肉体を実在だと思ってはいけない。実在と思うからこそ捉われるのです。捉われるから心の自由を失う。心の自由を失うから、その念(こころ)が円満でない歪(いびつ)なものになるのです。念(こころ)が歪になるから、念(こころ)のフィルムを透って映ってくる肉体が歪んだものとなってくるのです。これが病気です。

元はというとみんなこころが肉体という不自由なものを実在と見てそれに心が捉われたところからくるのです。

お医者さまに対してこんな説教をするのは変なものですが、お医者さまは、念(こころ)のフィルムを治さないで、肉体というスクリーンに映った影の方に心を集中し、スクリーンに病気の映画が映っているからといってはスクリーンに補布(つぎ)をあてたり、鋏(はさみ)で切ってみたり、墨で塗りつぶしてみたりしていろいろ工夫しているようなものです。

しかしスクリーンにどんな工夫をしても、フィルムの方の絵(念像)が変わらない限りは、スクリーンにはまたしても同じ病像が映ります。ところがフィルムの方の絵(念像)をかえるには、「心」に病気の肉体を描かないのが一等よいのです。

心に病気の肉体を描かないようにするのには病気の肉体を忘れてしまうのが一等よいのです。<肉体というもの>は影ですから、<それを忘れてしまった時に、一等完全に生理作用を果たすのです。>

 心臓の存在をわすれているときに心臓は最も完全にその作用を果たし、胃袋の存在を忘れているときに胃袋は最も完全にその作用を果たすのです。ここに心臓があるな――とわかったときには心臓が悪いし、ここに胃袋があるな――とわかったときに胃は悪いのです。

元来われわれは「生命」である。躍如として生動する生々の霊なんです。それを肉体だと思い、物質だと思い、固定した物質的な不自由なものだと思う――そう思うだけですでに、躍動する「生命」本来の相(すがた)からわれわれはたいへん堕落をしているわけです。

<自由自在の生命が、不自由極まる物質だと自覚する、これほど生命にとって大きな堕落はありません。> その自覚の堕落が肉体という映画にあらわれるとき病気となるのです。

わたしは病気のことを一度も考えたことはないのに病気になったと反駁(はんばく)して来られる方がありますが、<自由自在の生命が、自己を不自由極まる物質だと自覚したなら、それはすでに病気だと自覚しているのと同じことです。> 

現代の生理学や医学では人間を物質だと教えるでありましょう。もしそうなら、それは自由自在のわれわれの生命をその本当の自由自在な相において自覚さす妨礙(ぼうがい)をし、なんじは不自由なものだ(すなわち病気だ、死ぬべきものだ)と逆の暗示を与えていることになっているのです。

だから、医学とは反対に人間は物質でできているものだという観念を撃破し、そして自由自在な生命だという自覚をつぎ込むのです。聖典『生命の實相』や『甘露の法雨』を読むだけで自分が自由自在な生命であって物質ではないという自覚ができるだけでも現代医学で難治だといわれている病気が治る実例がたくさんあります。最近胃癌が治ったという手紙が来ています。(当時の誌友雑信にある実物の手紙が回読される)






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