生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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7月6日「枯れ松模様」学者マサノブ・ニセ総裁は必要ない! “違いはそれほど大きくない”これが結論か?ならば、「環境回勅」よりも開祖・谷口雅春先生の『御教え』の神髄と偉大さについてもっと語れ! (7428)
日時:2015年07月07日 (火) 14時39分
名前:公平なる観察者

学者マサノブ・ニセ総裁はやはり時間を持て余していた。ローマ教皇の“環境回勅”も4回目を投稿した。理屈捏ね、理屈も理屈、その上の屁理屈、われわれ、忙しい信徒は大閑人のマサノブ爺さんにつきあっている閑もない。しかし、まあ、そうですね〜下記を御覧下さい



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平成27年7月 6日 「枯れ松模様」=ローマ教皇の“環境回勅”(4)= (概要)

 ところで、今回の回勅のタイトルである「ラウダート・シ」がどんな由来の言葉であるかを知ると、フランシスコ教皇の意図がより明確になるだろう。・・・アッシジのフランチェスコの詩『太陽の讃歌』の中の「ラウダート・シ、ミ・シニョーレ」(「讃えられよ わが主」の意)から取られているという。つまり、神への讃美を表している。・・・『太陽の讃歌』という詩は、「兄弟である太陽に捧げる讃歌」というのが正式名称、・・・今回の回勅の87番目の段落に一部が引用されている。・・・この箇所で注目されるのは、普通は「天体」とか「自然現象」とか「物質」と呼ばれるものを、作者は「兄弟」「姉妹」と呼んでいる・・・「神を讃える」という崇高な目的のもとに造られたという意識が、その背後に感じられる。彼は、太陽や月、星、風、水、大地など、神がつくられた全てのものを通して神を讃美している。現代の物理学や天文学が前提とするような機械論的宇宙観は存在せず、すべてが生命に溢れる神の創造だと感得されていたのだろう。・・・自然は“ものを言わない”どころでなく、大声で歌を歌い、創造主の美しさを証言している」のである。・・・ユダヤ=キリスト教の思想は自然を神秘化しなかった。それは、自然の偉大さや広大さに感嘆し続けながら、自然を神聖化しなかった。その代わり、人間の自然に対する責任を最大限に強調した・・・人間は、世界の一部として自然を保護し、その潜在力を開発するために、人間の能力を高める義務がある。・・・神から人間に世話を委ねられた壊れやすい世界は、私たちの力を方向づけ、開発し、制御する知恵ある方法を見出すよう、私たちに挑戦している。” 人間は、自然界の生物や事象を神秘化したり、神聖視するのではなく、自然を神の被造物として大切に管理し、自己目的にではなく、神の目的のために世話し、制御する義務を負う。そのための方法を開発するために努力しよう−−そういうメッセージがここからは読み取れる。神・自然・人間の三者の関係では、「神−人間−自然」という序列が付されているように思える。しかし、生長の家も、人間を単なる被造物の一つとはとらえずに、「神の最高の自己実現」と評価しているから、違いはそれほど大きくないだろう。  谷口 雅宣



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<講評>


@ 三流のヘボ学者・マサノブ君は、今回のローマ教皇の“環境回勅”の四回シリーズにおいて、ローマ教皇の主張が、「生長の家」(実は、「マサノブ教」)の主張と大きくは違わないというために、これだけの時間と学者論文作成時間を掛けてきたのである。そして最後の結論は、< 神・自然・人間の三者の関係では、「神−人間−自然」という序列が付されているように思える。しかし、生長の家も、人間を単なる被造物の一つとはとらえずに、「神の最高の自己実現」と評価しているから、違いはそれほど大きくないだろう。 > という事だったのだ。



A この最後の結論は、――

1、「人間は神の最高の自己実現」と云うことは、何もマサノブ君に改めて言われるまでもなく、全うな生長の家信徒なら誰でもがよく理解していることなのである。『生命の實相』さへ読めば、マサノブ君以上に分かり易く説明が為されているのである。マサノブ君は、『生命の實相』の拾い読みであるから、「人間至上主義」=「人間・罪の子」思想を根底に持っていて、それが「人間の實相」=「神の最高の實実現」の神性隠蔽状態である事までは理解できずにいたことであり、漸くローマ教皇の“環境回勅”で気付いたのであろうか? 実に頼りない三代目である。だから、ニセ総裁であるのだ。

2、 < 神・自然・人間の三者の関係では、「神−人間−自然」という序列が付されているように思える。> これも実に頼りない。間違いなくニセ総裁である。マサノブ君はこれまで、人間は自然の一部であると主張して信徒を洗脳し、環境問題に結び付けてきた。人間=自然界の中の一種の生き物、という思想であった。今回の結論として、「神−人間−自然」という序列(注・「秩序」の方が適切な表現)に気付いたらしい。なんとも頼りない三代目ニセ総裁である事よ。しかし、未だマサノブ君は確信が持てていないらしい。“・・・思える”なんて表現しているからだ。自信がないのだ。明かに『別冊・真理』を読んでいない証拠である。読んでいたとしても雅春先生の説き方は間違いだと思っていたのだった。それがローマ教皇の「環境回勅」で間違いではなかったと気付いたとは・・・



B 今回のマサノブ爺さんのローマ教皇「環境回勅」の解説などわれわれ信徒にとっては実に回りくどい分かりにくい学者論文の類で「生長の家」信徒の求道と真理把握と伝道には全く役に立たない代物である。かといって、マサノブ爺さんに正確な「生長の家」真理の真髄を話せといっても彼には絶対的な自信などありゃしない。この様な三流ヘボ学者を養っておくために信徒の浄財が使われてはたまったものではないのだ。いまやマサノブ・ジュンコというニセ総裁夫婦は、先輩信徒のみなさまが残された献金で生活させて貰っている宗教貴族である。この「信徒に養って貰っている」という自覚が全然無い。われわれ信徒はこの様な破壊と蕩尽王の二人や大勢の理事参議を養っていく必要性ど全然持たない。



C 何回言っても分からぬが、マサノブ・ニセ総裁には『生命の實相』の開祖・谷口雅春先生の次の御文章を再掲示させていただく。脚下照顧して「マサノブ教」として名実共に独立し給え!!


<< 語学や考証を超えて―――

  私はここに、本当の釈迦は二千五百年前、地上に生まれて王宮を出家して迦耶城を去ること遠からぬ道場に座りて阿耨多羅三藐三菩提を成じた如き『肉体』でないことを宣言する。それは私が宣言するだけではなく法華経の『如来壽量品』にちゃんと宣言してあるのだけれども、法華経は大乗経典であり、大乗経典は釈迦是を説かずと言うような、<さとり>には何の関係もない考証的仏教学者があるから私が茲に改めてそれを宣言する必要があるのである。斯く法華経に従って、本当の釈迦牟尼如来は浄飯王の太子ゴータマの如き肉体人間ではないのであって『久遠を流るるいのち』であることを知るとき、吾等は到るところに『仏教』即ち『<ほとけ>の説教』を見出すことが出来るのである。・・・何処にでも身を現じて法を説き給うのが釈迦なのである。だから法を説くとき阿難も釈迦であり、達磨も釈迦であり、賢首も、空海も、道元も、最澄も、親鸞も悉くみな釈迦なのである。親鸞などに到っては・・・彼の<さとり>は語学を超えて却って『久遠を流るる<いのち>』を把んだのである。・・・言葉や語学にこだわり過ぎて、この文字は梵語では本来何を意味するのだなどと言う事を考証するほど、凡そさとりに遠いものはないのである。>>(「生命の実相」第27巻・久遠仏性篇上巻・第7章)







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