生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第三十一話> (556) |
- 日時:2013年03月21日 (木) 08時34分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第三十一話(通算第357話)
生命の謎・萬物は皆生きている <その一>
『生命の謎』P.1−3(はしがき)
<<十九世紀までは、宗教および哲学は、科学から独立した信条の上に成り立ちえたかも知れない。しかし二十世紀の、しかもその後半からの宗教および哲学は、科学から独立して独断的信条を説くことは出来ないのである。
科学は次第に進歩して物質の究極的姿が分子・原子ではなく、ついに「不可視の神秘のもの」であることを明らかにしたのであると同時に、「宗教する」又は「哲学する」と云うことは単に科学を離れて讃美歌に陶酔したり、机上の空論を捏(こ)ねくり廻したりすることではなくなって、現実的効果によって、その教条又は理論の正しさが実証せられなければならぬように進歩して来たのである。
斯くて科学はおのずから哲学及び宗教に近づいて来たと同時に哲学及び宗教は科学に接近して来たと云い得るのである。
この意味に於いて、科学、哲学、宗教は各々手をたずさえて人生に貢献しなければならないのである。
科学なき哲学、科学なき宗教、そして実証的価値なき哲学及び宗教は、それが如何に巧みに説かれているにしても空論であり、論理の遊戯であるその意味に於いて、本書は、最近代の科学を取り入れて、生命の神秘を解明せんとしたものであると同時に、人間が此の地上に生まれて来た使命を知らしめ、今まで「生」を呪い又は其の意義を疑っていた人々に真の人生の意義と価値とを知らしめ、生き甲斐を与えんがために執筆せられたるものであって、その意味に於いて人生哲学であり、幸福哲学であるのである。
存在の本質、生命の本質は一体何であるか。それに就いて多くの宗教的天才が啓示によって解明し、哲学的天才が思索によって道を開き、科学的天才が深き観察と計算と理論づけとによって確乎とした真理に到達しつつあるのである。
そのいずれもは互いに孤立する事はできない。またどんな天才も、先人の業績を無視して、一(はじめ)から築き上げることも出来ない。
真理と云うものは或る時代の或る人にのみ独占さるべきものではないのである。
人類は先人の業績の上に更に自己の業績を積み重ねて進むのである。私が爰(ここ)に語るところの真理は決して私一個の創作ではないのである。
年代も知ることの出来ない古き時代の印度の瑜伽(ユガ)の哲学者が説いたところや、釈迦の仏教、耶蘇の啓示や、諸々の古聖の所説に近代の心霊学及び科学を素材として、最も平易なる文字をもって哲学を語り、人生を語り、生き甲斐を語り、運命の神秘を語り、生命が何処より来り、何処に到るかを説こうとしたものである。
敢えて「百万人のための哲学」と云う小題をつけた所以(ゆえん)は、哲学と云うものは難解なる文字を使用しなければ説くことが出来ないものだと思われていた従来の型を破って、哲学の最も深奥なる問題を、全然難解な哲学用語を羅列しないで、平易に通俗語をもって百万人にわかるように説こうと企てたからである。
尤も、本書がそのように平易になり得たのは、頭から文章をもって書き綴らないで、耳で聞いてもわかるように口述しながらそれを速記して貰ったからでもある。
本書に斬新なところがあるならば、それはその素材ではなく、その素材の取扱い方と解釈を通して人間が此の世に生まれ来った意義を明らかにし得るようにした点である。本書を口述するに当って、それを筆記して下さった栗原得二君の名を爰(ここ)に録(しる)して感謝の意を表する。>>
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