生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第二十六話> (557) |
- 日時:2013年03月21日 (木) 08時44分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇
第二十五話(通算第267話)
霊界とは、どのようなところか?(その七)
虚栄の市(霊界の第二圏)
(『人間死んでも死なぬ』P.125−126)
<<第二圏の下層の一部に虚栄の巷があるのをマ氏は見た。其処にはきらびやかな大きな部屋があった。部屋の中には立派な衣装棚や大姿見が並んでいた。そこへ美々しく着飾った婦人たちが間断なしに入って来て、もと着ていた服を脱げすてると、すぐ又別の美しい服装に着かえていた。
身じたくが済むと彼女等は大通りや劇場や音楽会などへ出かけて往った。併しそれは芝居を見るためでもなく音楽を味わうためでもなかった。それは自分の化粧や着付けが如何にもよく似合っていると云う讃め言葉を出偶う人達から受け取りたいためであった。
彼女等は大通りで行き遭う人達ごとに「見て下さい、私のこの着付けは好いでしょう?」と言った。誰も「まあ、ようお似合いでござんすこと!」などと言うものはいなかった。
ここにも「類をもって集まる」と云う諺が適合するのである。他人の事を公な心で賞める程の人物は、この虚栄の巷には集まって来てはいない。ここには自分のみが讃められたい一方の、同じ罪のものばかりが、重力の物理学的法則に従って集まっているのであった。
あちらからも此方(こちら)からも「どうです?この衣裳はよく似合いましょう。」と言って肩を聳やかすものばかりでであった。ほかの言葉は聞こうにも聞くことが出来なかった。
此処にも自己を制裁するものは鬼ではなく、ただ自己の不徳のみであった。そのうちの一婦人を自分は見たが、彼女は、次第に誰も自分の服装を讃めてくれるもののないこの虚栄の巷の生活に飽き飽きして来た。
彼女が大通りを通っていると向こうから瀟洒(しょうしゃ)なネクタイをつけたスタイルの好い男が近づいて来た。この男は靴下の飾りボタンを選り好みするのに半日もかかっていた男であった。その男は彼女の側まで来ると「どうです、今日の僕のこの衣裳は?」と尋ねかけた。「馬鹿、そんなものが何が好い!」こう彼女は怒鳴りつけると、逃げるように走り出した。
間もなく彼女の姿は例の化粧部屋にあらわれた。彼女は自分の着けていた衣裳を脱いで、それを引き裂き始めた。「こんなものが何になる?こんなものが何になる?」と彼女は呟いていた。多くの仲間の婦人達がやって来て「この人は一体どうしたと云うんだね。気でも狂ったに違いない」と、口々に罵りながら、彼女を部屋から突き出した。
彼女は自分の部屋へ帰ると突俯(つつふ)してさめざめと泣いた。「何と云う無意義な生活を送って来たことだろう。もっと苦しい生活でも好い、もっと、はしたない仕事でも甘んじてしたい。こんな虚栄の生活が何になるか。」
かようにして、霊界では自分のしたいことを妨げはしないが、自然に自分の生活の空虚を感じて、次第に向上し得るようになっているのである。>>
他力教の信者(霊界の第二圏)
(『人間死んでも死なぬ』P.126−127)
<<第二圏の中層に一軒の病院のような建物があった。その建物の一室に一人の足の悪い老人が棲んでいた。(名は云わぬが、この老人は生前、宗教界に於いて顕栄の位置を占めていた老人である。)
彼は今の住む第二圏が「他力」によって救われてきた天国浄土だと信じているのであった。彼のところへ訪問して来た一人の男に彼はこう云って説教しているのを自分は聞いた。――
「わしは自分に何の資格もないのに、この天国浄土へ救われて来たのです。此処へ生まれさせて貰ったのは、自分の力と思ってはなりませぬ。皆、神様のお他力のお蔭でございまするぞ。」>>
各宗派の本部(霊界の第二圏)
(『人間死んでも死なぬ』P.127−128)
<<第二圏の上層部には地上に存在するあらゆる種類の宗派の本部が置かれている。やはり「類をもって集まる」の法則に洩れずに、軒をならべてそれらの教会があるのであって、遠近に散在しているのではない。
各教会の参拝者はいちじるしい数にのぼっている。しかしそれは宗教を信じるものが地上の人間よりも多いと云う訳ではないのである。
霊界には分教会と云うものが設置されていないので、すべての信者は皆、本部に殺到するのであるから、信者の数が多数らしく思われるのである。
第三圏以上の霊界に於いては、宗派の区別と云うようなものは宗教的偏見だとして斥けられている。
宗教的偏見あるものは第三圏以上の霊界へのぼることは出来ない。この宗教でなければ救われないなどと云うことは断じてないのである。斯く偏信している間だけが救われないのである。ただ一つの神に対する平等なる信仰が第三圏以上の世界には行きわたっているのである。
さて、軒をならべた各宗教の本部教会に於いては間断なく説教がおこなわれている。説教はすべて第三圏以上の霊界から教師が降りて来てせられるのである。
信者たちは一つの教会の説教のみを聴くことはゆるされない。交替に各宗派の説教をいろいろと聴いているうちに信者達は各宗派の得失について充分理解し、ついに一つの神と云う平等の観念に到達するようになっているのである。>>
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