生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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雅宣総裁、信徒だましのテクニック! (563)
日時:2013年03月21日 (木) 23時04分
名前:天之鉄槌




雅宣総裁は3月20日の原宿本部会館ホールにおける「布教功労物故者追悼春季慰霊祭」に於いて、谷口雅春先生の聖経『真理の吟唱』の中の「神と融合するための祈り」と「帰幽の神示」を読みながら

 <<「死」という存在があるのではないのである。生命の動きが“前向き”になるのと“後向き”になるのとの相違にすぎない。ですから、亡くなられた御霊さまは今、霊界において“春”を迎えておられるのだと知って、悲しみに浸るのではなく、私たちは御霊さまが生前推進された光明化運動のバトンをしっかりと受け止め、顕幽手を携えて肉体を超え、四無量心を行ずる信仰生活を明るく進めていかねばなりません。肉体の死は本当の死ではなく、より高い形式の音楽を表現するために、一曲を演じ終わることである−−つまり、新しい肉体を使って、より高度な人生を生きるための、一時的な“幕引き”の時に過ぎない、と考えるのが生長の家の信仰です。根本的に明るく、積極的な教えです。それをこれからも多くの人々にお伝えし、この社会と世界とがもっともっと自然と調和し、住みよく、明るい、音楽表現のような楽しい場となるよう共に運動を進めてまいりましょう。>>と言っているのであります。


最近の雅宣総裁は、自分は三代目の総裁としてこのように開祖・谷口雅春先生の教えをシッカリと継承しているという事を、開祖・谷口雅春先生の御著書を積極的に引用する事によって信徒たちに示そうとしているのであります。

しかし、これは雅宣総裁の常なる“信徒だまし”のテクニックであることに気付かねばなりません。


@ この引用文を使って、最後は<神・人・自然>が一体であるという本来の『御教え』を換骨奪胎した「今の教え・雅宣教」へと誘導し、信徒をして「やはりお孫さまは、雅春先生の『御教え』をシッカリ受け継いでいらっしゃる」と思わせるのであります。


A 開祖・谷口雅春先生の御文章の都合の良いところは引用はするが、雅宣総裁の主張である「鎮護国家」から「世界平和」への変更、『生命の實相』と『甘露の法雨』の抹殺と『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』の聖経化の推進、「日本國實相顕現」の否定・・・雅宣総裁の左翼唯物論の路線はそのまま路線変更なしであります。


B 雅宣総裁のこれまでの言行不一致については、一言の訂正や謝罪は無い。“鶏の丸焼き・ローストチキン事件”も頬かむりしたまま・・・「大調和神示」を引用しながら、「皇恩」に感謝せず、義兄・実弟の方々を追放したまま、「焚書坑儒」を取り消さず謝罪もせず、大幅な教勢低下に責任を感じず、信徒の浄財の蓄積を使い尽す“バサラの蕩尽路線”を暴走し続けているのであります。


雅宣総裁! いくら開祖・谷口雅春先生の御著書を引用して信徒をだまし続けても、現・原宿教団の信徒の多くは本部の役員も含めて、心の中では、汝を嫌悪し軽蔑しているのが事実であります。

ただ、当面の生活のため、信仰の付き合い仲間を失いたくない(孤独を避けたい)だけで教団に留まっているに過ぎないのであります。

雅宣総裁! 汝は < 私にもまもなく“お迎え”が来るのだな、と考えるのであります。>という言葉を今回の“挨拶”の中で発している。

このことは、汝の潜在意識が、天の鉄槌が近々のうちに汝の上に下されることを何となく感じ取っているいるからであろうと想像されるのであります。

今のうちに有終の美を飾る花道である「総裁辞職」を宣言した方がよいと思うのであります。如何かな?! 時機を逸すること事勿れ!!




 (564)
日時:2013年03月21日 (木) 23時29分
名前:ソウヨネ

「私にもまもなく“お迎え”が来るのだな、と考えるのであります」と言っているのは、「天之鉄槌」の予兆なのですか?

こんなコトを言っては何んですが、期待もありますね!!

 (566)
日時:2013年03月22日 (金) 07時52分
名前:憂感

「めずらしくいい話」と思いましたが
今までの流れからすれば、かえって“不自然”。

今までも聖典を引用しても、どこかで波長の違う一文(ご自身の解釈)が入ってきて、聞き手読み手はそこで“ガクッ”ときたものですが
この度は封印したかに見えます。

スピーチライターでも雇って、これまた珍しく
ライターさんのとおりに従ったのでしょうか?



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