生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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倒れたその瞬間に光を見よ。 (7631)
日時:2015年09月01日 (火) 07時36分
名前:奇人狂愚



――――――――――――――――
常に光を見よ。暗を見ること勿れ。
常に昇り行く姿を想像し、
墜落する姿を想像するな。
(『向上読本』)
――――――――――――――――

 倒れたその瞬間に光を見よ。

 どんな人でも一度や二度は躓かない者は稀である。
併し躓いたとき、倒れ切ってしまう者と、倒れ切らない者とがある。
此の区別が人間の幸不幸を左右するのである。
不倒翁とは倒れない人のことではなく、倒れても起き上がる人のことである。
形は倒れても、倒れた前と、一度倒れてまた起き上がった人とはその魂の深さに
於いて、その体験の深さに於いて、相違するものである。
人は倒れることが目的ではないが、倒れてすらも人生は常に獲得(ゲイン)の
ほかはないのである。

 倒れてすらも吾々は其処に唯「獲得」のみを見出すのである。
 斯う云う人はどんな激しい運命もその人を挫折さすことは出来ない。
こんな人を金剛身と言い不壊身と言うのである。

 風邪を引くたびに身体が弱くなると思う人もある。
光明思想は風邪を引くたびに身体が強くなると思うのである。
熱が出るのは全身の細胞分子の振動数の増加であるから新陳代謝の向上である、
と思うのが光明思想である。

『光明道中記』70項

http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65616978.html

神は光である (7632)
日時:2015年09月06日 (日) 18時54分
名前:奇人狂愚

       

神は光である。世を照らす光である。
光は暗黒に反照する。暗黒は光を照らすことができない。
暗黒が光に近づけば暗黒は光に化してしまう。

暗黒は積極的力ではない。積極的存在ではない。

光を知らないのである。
暗黒は束になってきても光を消すことはできない。
光を知れば光になってしまうのが暗黒である。

光を受けよ。受けた者だけが光となるのである。
光を受けるとは、なんじの生命の実相を知ることである。
なんじらの生命の本質が、久遠の実在たる《神そのもの》
であることを悟ることである。

悟ればなんじの全存在が光に照らされて光に変貌するのである。

『生命の實相』第三十五巻下化衆生篇70頁

「実相」を深く強く諦かに観る (7634)
日時:2015年09月09日 (水) 06時38分
名前:奇人狂愚

ラザロの復活

 キリストがラザロを復活せしめられた原理もそれであります。
『聖書』に書いてあるところのキリストが多くの難病を治したと云う
奇蹟は、あんなことはある筈がない、嘘なんだろう。

あれは弟子がキリストを尊敬して、わざと箔をつけるために
あんな事を書いたんだろうと云う様な人があるかも知れませんけれども、
あんな出来事は実際にあり得るのです。

 今でも「生長の家」の誌友は、現象を超えて「実相」を完全に観る力が
強烈であれば馬場久さんのようにできるのです。

それでキリストはラザロを見て、「死せるに非ず、寝ねたるなり」
(ラザロは死んでいるんじゃない、生きているんだ)と、
ラザロの「完全な実相」を見給うて、「起きよ」と言われると、
四日間も墓の中に入って腐ったようになって、異臭芬々たるラザロが、
むくむくと起き出して治ったのです。

この場合に注目しなければならないことは、
キリストが病気を治された場合にですね、
ただの一度も「お前は病気であるから治してやる」と被仰った事が
何処にも『聖書』に書いてないことであります。

いつも「床を取り上げて歩め」とか、
「起きよ」とか「汝の罪ゆるされたり」とか、

患者の眼に泥を塗って、
「汝の目をシロアムの池へ行って洗え、お前は見える」と
仰言ったりしているだけで、
何処にも病気を治したと云う様な事は言われていないのであります。

 イエスは病気を見なかった。
ただ「完全な実相の人間」だけを見られたのです。

病気を見る世界に於いて病気が出て来る。
戦を見る世界に於いては戦が出て来る。
争いを見る世界に於いて争いが出て来るのであります。

その逆にですね、「争いなんてないんだ」とこの世界を観れば、
争いが無くなるのであります。

ですからキリストが生まれつきの盲の少年を癒され時に、
ユダヤ人達があんな者が治す筈がないなんて言っている時に、
癒され少年は、「私を治したのは神の子イエスである」と言う。

すると、キリストはユダヤ人たちに、
「汝等の見ゆと言う罪は遺れり」と言っていられる。

肉眼がひらいて見えると言っている者は、
肉眼で見えているところの世界を、病気のある世界を、
争いのある世界を妄想によってアルと見ている。
「自分たちは肉眼がよく見えるんだ」と偉そうに言っている者の方が
却って盲なんだ。

 これが「汝らの見ゆと言う罪は遺れり」
とイエスが言われた意味であります。

現象の争いとか、病気とかは妄想のあらわれに過ぎませんから、
そんなものを見ないで、「実相」を深く強く諦かに観たならば、
そこには悪いものはひとつもないと云う事実があらわれてくる
のであります。

『日常生活の真理』181頁より謹写

http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65708370.html



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