生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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谷口雅春  真の宗教の救いについてA (7658)
日時:2015年12月06日 (日) 23時26分
名前:天邪鬼

現世をも救うのが本当の宗教


この世の中は、お釈迦さんがお説きになった「唯心所現」といって、唯心、ただ心の現わす所、「唯心所現の世界である」と言うので、われわれが、今住んでいる現世、現象世界も唯心の世界であります。霊魂が存在して、そして、それが霊界へ行って、「地獄に落ちるか、極楽へ行くか」という問題もですね、決局、現世も来世も唯心所現、心の現わすところの世界なんですけれども、霊界へ行ってから「自分はこんなに救われました。やっばり、浄土はございます」と言って、それを体験して、現世に戻って来て、その体験を話した人はない。ただ、そう説かれているだけです。それでですね、
「現世も心の現わすところのものであるとするならば、現世に浄土が現われないような、つまり、浄土的な、極楽的な世界を自分の心で現わす事ができないような宗教だったら、死んでからも唯心所現、心の現わす世界なんだから、やっぱり同じように極楽的状態が現われないといわなけれはならないんじゃないですか。だから、まず、この現世において、本当に救われた状態が実現する宗教であってこそ、来世も後世も、結局また救われる事になるはずじゃないですか」
 と言う話を私が、順序をおって話しておったんです。そしたら、さっき質問した中川という人が、私はその人に対する解答のつもりで今のような話を諄々としておったんですが、その人の顔を私が見つめるもんだから、見つめながら話すもんだから、きまりが悪くなったと見えて、前の人の背中のところに自分の顔を隠したりしているのです。あれは、気はずかしいので、あんな事しているんだろうと思っておったんです。それで、その日の商工会議所での私の講演は終りました。


中川さんの神秘体験


 高岡の隣りの町に雨晴(あまばらし)という所があって、義経が東北地方へ逃れて行った時に、途中で雨にあい、ちょうどその海岸を通ったら海岸に松茸が傘をひろげたようになっていて、その傘の下で雨をしのいだという大きな岩が海岸にあるんです。それで、その地名が雨晴というんであります。今では観光都市になりまして、立派なホテルもできているんですけれども、その頃にはそんなものはなかった。そして、その海岸に接触して小高い山がありまして、その山の麓の所に以前、生長の家本部の副理事長をしていらっしゃった清都理之さんのお父さん、清都理門さんがそこの地面の山の傾斜面の中腹の所から麓までお求めになって、そこに別荘を建てておられたんです。それで新築して間もない別荘で、人が集まれるように襖をはずせば四つの部屋が一つになってしまうというような設計で部屋があるんです。そこで明日誌友会を開きますから、私の今日の話に興味のあった人は午後一時から集まる事になっておりますから、皆集まってまた、何か話し合おうという事を決めましてその日は別れたんです。次の日、あの中川という私に反駁したあの人は来ないであろうと思っておったんです。そしたら、続々と来た人の中に、中川という私に反駁した「現世利益なんていうのは宗教の目的ではない……後世浄土が本当の宗教だ」と言った中川さんがやって来まして、
「昨日はまことに失礼しました。申し訳けありません。よく解りました」
 とこう言う訳なんであります。それで、
「どのように解ったんですか」
 と言って私は聞いたのであります。そしたら、その中川さんが、
「実は、先生がお話しになるのを、私の疑問に対してお話しになるのをジッと聞いておりましたら、先生のお顔が変貌して、顔が変わってイエス・キリストのお顔になって自分を見つめて、そして、しきりにお話しになるので、これは自分の日の錯覚かと思いまして、あっちから、こっちからこう眺めてみたんです。光の加減じゃなかろうかと思って、透かして見るけれども、やっぱりイエス・キリストの姿に見えるんです」
 とこう言うんてす。それで恥ずかしいので、人の背中に隠れておったんじゃない、斜めでこうして見たらどうかと見ておったと言うのです。
 それで私は、「ああ、そうか」と言って喜こんだんじゃない」(爆笑)
「君、私の顔がイエス・キリスト様に変貌したというけれども、君、イエス・キリストがどんな顔しておったか知らんだろう。どんな顔しとるか知らんのに、そのイエス・キリスト様になったというのはどうして解るのか……」
「いえ……先生ね、油絵の複製でね。イエス・キリスト様のそのお姿は見た事があるんです。その通りの姿になって先生が現われたんです。これはもう、ただの話ではない。これは先生のお話になる言は本当の話だ。それで、今日もまた教えを受けたいと思って、ここへやって来たわけなんです」
と、こういうことであった訳なんであります。それで今日の演題の「本当の宗教の救いとはいかなることであるか」という題に対する最初の「本当の宗教とは、一体どういうものであるか」という説明に、この実例をお話し申し上げたわけなんであります。


宗教の本尊について


だいたい、宗教という″宗″という字の、「うかんむり」は宇宙であります。「うかんむり」の中に、″示す″という字があります。宇宙の大生命が、″示す″ところの教え、これが宗教というものなんであります。個人が考え出したというんじゃないのであります。それで、その宇宙・大生命が示された啓示というもの、それをインスピレーションで受けて、いろいろの教祖がその話をなさった。それによって、おおいに感動して病気が治るとか、今まで人生を苦しみの世界だと見ておったのが一変に喜びの世界に変わったとか……いうような事がでてくる。それは、神さまが人類を救わんが為に、示された教えである。これが宗教というものであるわけなんであります。
 宗教の本尊というものは、その宇宙大生命そのものが、本尊でなければならないわけであります。それは、名前がいろいろの教祖さんによってつけ方が違うのと同じです。天照大神という名前をおつけになる教祖さんもおる。それは、例えば黒住教というような教えですね。あるいは、天理教では天理王の命というような名前をつけるけれども、これは天理、天の理、天の道理、天の示された真理です。それで、その天の示された真理の命様というんだから、同じ意味なんです。あるいは、金光教だったら、天地金の神。金でも儲かる神様だと思う人があるかも知れないけれども、そうじゃないのであって、″金の神″というのは金剛不壊の神様であるというわけなんです。
 あるいは、お不動さんを信ずるというのもありますけれども、不動というのは動かない現象の奥にあるところの真理そのもの、それは不動であるわけです。それで不動明王の尊像を仏像にして造ると、顔が青黒い顔に造ったりするんですけれども、青黒いというのは、お空の蒼空(あおぞら)・青い空、そういう色を表わしているんです。それで、宇宙そのものが顔であるというわけです。そして、その不動明王は右の手に剣を持っている。煩悩という人間の心の迷いを、それを断ち切る剣、真理の剣を持っている。そして左の手に三廻り半、三蔵半の綱を持っている。その煩悩の猿(ましら)を縛る、そういう働きを持ってこの天空・大空から姿を顕わし、そして、光明輝く火の燃えている中に立っておられる。光明輝くその姿を仏像に表わしているので、結局、名前は違うし姿も違うように見えているけれども、皆、同じものであるというわけなんです。『真理の吟唱』の中に″観世音菩薩を称うる祈り″というのがあります。(『聖経版』四十三ページ」それを朗読致しますから、瞑目合掌して静かにお聞き下さい。
(つづく)



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