生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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座談会・久遠の尊師 一人一人の心の中に 【「生長の家」誌 昭和60年10月号より】 (7796) |
- 日時:2017年09月23日 (土) 10時58分
名前:本音の時代
座談会・久遠の尊師 一人一人の心の中に 【「生長の家」誌 昭和60年10月号より】
《出 席 者》 生長の家長老 栄える会名誉会長 中林 政吉 生長の家長老 飛田給練成道場総務 徳久 克己 生長の家長老 神奈川教区教化部長 河田亮太郎
昭和60年8月7日・日本教文社応接室にて収録
待望久しい聖師現わる▽
徳久 今日は、谷口雅春先生の思い出を話させて項きましょうか。河田さんは随分古くから先生を知っていた? 河田 古い、古い。もう、生長の家の始まる前ですわ、知ったのは。入信(はい)ったのは後で、発祥せんことには入られへんからねえ。 徳久 先生のお宅へお伺いしとった? 河田 ええ。その時分は、まあ、行っとった言うても、僕ら子供みたいなもんで、19の学生やからね。数のうちにも入らん。しかし、先生は生長の家を始める前から、住吉村では評判だったんだわ。電車で三ノ宮のバキューム・オイル会社に通っておられたんやが、 停留所で電車待っとる人たちの中でも一般の方とはちょつと違うわけやね。寸暇をおしんで、何か本を読んでおられると、こういうふうで、変った方がおるという評判が立ってました。それと、もう一つ。その頃本住吉神社に、ずっと朝お参りになっておったでしょう。小さな村のことやし、評判になっていました。年若いのに感心な方やと。しかし、こないなるとは(編注=生長の家を立てられたこと)誰も知らん訳や。住吉村梅の木という所におられたんが、八甲田に転宅され、あそこで発祥したわけでしょ。私の叔母がそこへ行っとったんで、私も『生長の家』の本を見せてもろて、読んではいましたが、当時は、病気でもなければ経済難でもない、まだ独身者やし、いいことが書いてあるなあぐらいで、ずっと鳴かず飛ばずで、先生が東京におこしになる少し前から、あちらこちらちょいちょいお話が聴けるようになって、私も行きましたけれど、本格的になったんは、東京に来られてからのあの指導者講習会を受けてからです。 徳久 先生が東京に行かれちゃってから、その凄さに気がついた。残念だったねえ。 河田 ほんまや。 徳久 一方、東京では待ちわびとった人々がいたわけだ。服部仁郎さんとか……中林先生もそのお一人ですかね? 中林 谷口雅春先生御一家が上京されたのは、昭和9年8月30日で、9月にはもう、お山で誌友会が開かれているんですね。その9月の幾日だったかなあ、東京の誌友が先生を深川の清澄公園に御招待したですよ。その時、僕も初めて、松本駿介君(編注=天才洋画家と言われた人)に誘われて行った。あの方が谷口先生だと教わって、いわゆる一隅で、奥様と食事をされているところを、遠くから拝見したというのが、まあ、最初です。その年の11月25日に、株式会社光明思想普及会(現・日本教文社)が発足します。 徳久 それに、中林先生は入られた。 中林 そうです、その年あけて昭和10年の2月に。つまり、僕は東京で最初の採用者、第一号というわけです。で、その年の夏、赤坂の旧山脇高女の校舎を買収してそちらに移った。その頃から先生は本部でお話をされるようになった。毎朝とそれから夜と二回あったんですが、その日によっては、家庭光明寮(花嫁学校)というのがありましてね、その大講堂で話されることもあったですね。僕らみんなで先生をお迎えしに行って……毎日随分集まったんです。 河田 そや、そや。そして、その頃、第2回目の指導者講習会も開かれた。 中林 ええ。10年の11月11日。 河田 本当に素晴しいお話やった。もう、一過間ぶっ続けの講義で、今日はバイブル、今日はヨハネ伝、次は古事記そして日本書紀と、みっちりと…… 中林 そうでしたね。 徳久 河田さんは、地元の阪神間で、一人で路傍に立って演説したというじゃありませんか? 河田 ええ、やりました。尼崎の長尾初枝さんのお宅の会合に出たりして、この生長の家の真理の素晴しさを皆で語ったりしとったんやが、もうじっしとれんで、戎(えべす)さんの縁日など人が出るとこ回って、街頭演説やったわね。その時に、谷口先生から一つ有化難い教え項いたんです。それは、“人間は神の子である”というその一点だけを話しなさい、ほかのことしやべる必要ない、その一点を繰り返し繰り返し話しなさいと、教えて下さったんです。
生活に生きる易しい宗教▽
徳久 僕は昭和16年の入信で、ここでは一番新しいけれど、まず、“本を読んで病気が治る”というのに驚いたものです。医者だったからね。ところが、ここに一つ、谷口先生の大きな御功績があると思うんです。世の中、びっくりしたんじゃないですか、当時。 中林 ええ、それはもう、大変なセンセイションを巻き起こしたものです。 徳久 今の人は慣れてしまって、その凄さに気がつかない。本を読んで病気が治るということは、未だかつてない、革命的なことなんですよ、これは。 中林 ジャーナリズムでも、びっくりしたんですよ。全集の『生命の實相』を初めて出されたのは昭和10年ですが、毎日のように新聞に広告を出された。一頁大から、半頁、三段ぬき……と、そこへ、ギッシリと顕著な体験談を載せられるわけですよ。外部で、非常に問題になりましてね、誇大広告だと。 徳久 うむ、それでどうなりました? 中林 物凄い反響で、どんどん手紙は来る、人は来るで、返事も出さなければいかんし、応接もしなければいかぬ、私一人でとても手が回りきりません。その上、警察にはひっぱられる。 徳久 それは広告を新聞に出すから? 中林 ええ、誇大広告だと言って調べられた。私も三遍か四遍呼ばれて、その都度、始末書をとられましたよ。 河田 それに、十年の五月号やったか、『主婦之友』に大々的に生長の家が特集されたから、評判呼んだでしょう。 徳久 しかし、そういう時代に先生に従いて行って、服部仁郎先生や山口悌治先生も亡くなられたけど、中林さんも最後まで従い行った……今のように一つの教団ができて有名になったんじゃないんだから。いつ渡されるかわからない中をね。谷口先生という方の、本当の偉さが分ったからでしょうね。 中林 うむ。当時はまあ、大変な騒ぎだったことは確かです。 河田 そういう騒ぎがあったということが、また一つ発展の契機になった? 中林 そうそう、それで一ペんに後の人が…… 徳久 大体ね、“病気はない”というこの谷口先生の宣言の一つとってみても、これは大変なことなんだよ。キリストは「立ちて歩め」と言って病人を癒しておられるけれども、「病気は無い」とは言っておられないんだから。仏教でもそうでしょ。とにかく、谷口先生は“生活に生きる宗教”を立てられた。これが大きなことだと思いますね。今までの宗教っていうのは、生活と離れていた。それを一つにされたところが素晴しいと思う。やはり、谷口雅春先生は、いわゆる常識の革命をされた方だった。 河田 常識の革命、なるほど。そう言えば、僕、忘れられないことがある。確か皇紀2600年の時やった思うが僕ら関西の誌友を集めて、谷口先生を中心に橿原神宮へ勤労奉仕に行ったことがありました。先生も、ドタ靴はいて、鋤もって熱心に奉仕されましたがね、昼食休みの時、皆もうクタクタで寝ころがったりしておるのに、先生はその一寸のお時間にも、皆に真理の話をして下さるんですわ。で、「河田さん、あんた、生長の家の教えで何か解らんことがあったら言ってごらん」と言わはりました。そこで、「僕は、悟るということがどうも解りません」とこうお尋ねした。「ああ、そうかね、悟るねえ、うん、うん、何にも難かしいことないよ」 「へえ」 「それはね、相対世界から差をとることなんだよ」「差を取る……」「ものの差をとる。すべて、ものは相対的に見えるでしょう。右の拳対左の拳、夜があれば昼、男だったら女……全てそうでしょう。みんな吾々は相対観念をもっている。その差をとるんだよ。神様は向うで私はこちらと言って、神と己に差別的観念をもつと、絶対にサトレない。その差をとったらどないかねえ。神即吾、吾即神、自他一体じゃないかねえ……だから、あなたは差を取ればいいよ」と。僕はほんま、よう解りましたわ。その時から、谷口先生は本当の民主主義を説いておられるんやと分った。
全世界の人に『生命の實相』を▽
徳久 谷口先生の『生命の貧相』の偉大さというのは、これはもう、吾々ごときに計り知れないですね。あの、革表紙のを一番最初に先生がつくられたのも、御自身がもうこれは『聖書』以上のものであるというお気持を持たれたあらわれだと私は思う。 中林 そういうことだね。谷口雅春先生の文章の力というものは、これは大変なもので…… 徳久 本を読んで病気が治る、運命が変る、環境が変る、奇蹟が起るんだから凄い。先生の文章の力、そしてもう一つは、悟られた真理の深さですね。だから谷口先生は結局、『生命の實相』を全部、世界中の人が読み終った時に世界の平和は来るという信念を持っておられました。 河田 そや、その信念を僕らみんなが誇りとして進まんならん。まあ、この神誌一つでも宝ですよ。僕らの時代は“お宅にこんな素晴しい本があると聞きましたが、どうぞ見せて下さい”言うて、よそのお宅に拝借に行ったもんや。その価値は今でも少しも変らん。 徳久 終戦後の昭和27年、僕はブラジルへ初めて行きましたけれど、それまで本部から講師は誰も行ってないのに、もう既にブラジルでは奇頗が起っていた。あの革表紙の『生命の實相』が出来たとたん、向うへ伝わり、皆奪い合うように貪り読んで、筆写して読んだと言う.それで又奇蹟が起った。 中林 まあ、生長の家の教えが広がったということは、もちろんあの先生の教えが素晴しいってことではありますがね。それが広がって来る順序って言うか、これが今話に出ている文書伝道であると同時に、必ずそれが拠点になって人間が動いている。 徳久 なるほど、人類光明化運動と、先生が言われたのもそこですね。 中林 満州でも分かるようにね。その土地その土地に誰かがいて…… 徳久 そう言えば、谷口先生が『生命の實相』第一巻に書いておられる。キリストの12使徒のように、真理が伝わって行く時には、必ず神様が選んだ人が、各町々の拠点におられるって。 中林 まあ、ブラジルにおける松田大二郎・巳代志兄弟ね。そういうのが、どこでもいるんですよ。 河田 義務やのうて、この人にも知らせてあげたい、あの人にも、彼にもとそれでずうっと広まって行った。 徳久 ところで中林先生、光明思想普及会の頃のこと、もう少し話してくれませんか。谷口先生どうでした? 中林 思い出があんまり多いので、どれをということも出来ませんがね。先生は朝の二時間の講話が終ると、必ずお帰りには編集部に寄られて、色々と注意されました。先生がお若い時分ですから、非常にこう鋭いんですよ。 徳久 そうねえ、先生は本当に何でもよく知っておられた。輝子奥様が、先生は百科辞典みたいだと仰言ったことがありました。僕はいつも思うんだけれど、先生は「最大にして最小だ」と。例えば僕が本部に来て間もなく、日本教文社の原稿用紙で先生にお手紙書いて出したら、赤字が入って帰って来た。「これは教文社の、原稿を書くための用紙であって、あなたの私信を書くための用紙ではありません」と、きちっと教えられました。一枚の紙でも、使うべきものを使うんだと……そして、公私の別を明らかにせよと、そう教えて下さった。恥かしいけど、正直。 河田 ほんま、先生は、ある時こう言われたからと思ってそうすると、次には異なる御指示があったりもしました。 徳久 それは、人事処が異るからでしょう。そこは先生はいつもお見通しでしたね。中林先生は恐くなかったですか?僕は恐かったなあ。 中林 僕は恐いとは思わなかった。まあ、まず批判的なことを先生に対して持たなかったですから…… 徳久 同じ弟子でも、僕は恐かった。何かこう、レントゲンで射透されたような感じがした。 河田 こちらがせんとすることは、もう既に知っていらっしやるから……
何をされても教化ひとすじ▽
徳久 で、僕は後から考えついたのだけれども、恐いというよりも、霊圧がちがうのよ。霊のカがね。吉田國太郎先生がよく言っとったが、「谷口先生は、自分達が行くと、小学六年生が行けば中学一年生ぐらいになって話して下さる、高校二年生になったら、三年ぐらいのちょっと上で応えて下さる。では、先生に追いつけるかと思うと、スッと逃げて行ってとても追いつけない大変高い処にいらっしやる」と。 中林 なるほど、國太郎さんがねえ。 徳久 僕ね、練成会で、「迷いは何処から来たんですか?」と質問受けて分らなかった時、飛んで行って谷口先生にお伺いしたことがあるのよ。「そりゃ君、迷いはどこから来たかというのは、大変な問題だよ。仏教でも、それが二つに割れておるんだよ」と言われた。これはえらいこと訊いてしまった、先生は私一人のために大説教をして下さるのかしらと、全身耳にして聞いてました。そうしたら、先生がスポッと「君ねえ、生長の家では簡単だよ。迷いは無いんだよ。無いから、何処からも来ないんですよ」と言われた。「ハーッ」と言って飛んで帰りました。「無明はあらざるものをありと想像するが故に無明なり」と、ちゃんと 『甘露の法雨』に書かれていますよ。それを、「君、本部講師が何を読んでいるのかね」とは仰言らない。僕はその時、小学生になっているわけです。それに先生は深切にお答え下さった。本当に偉大でありながらお優しかった…… 河田 本当や。僕もそんな思い出ありますわ。何時だったか暑い時に、「河田さん、あんた生長の家に来て何年になる?」と訊ねられた。「ハイ、これこれになります」 「ああ、そうかね。随分長いねえ。じや、生長の家は一体何を教える所かねえ?」と、こう言われたんです。私は、感謝と和解を教える所だと、“大調和の神示”を拝したらよう分りますとお答えした。ところが先生はお見通しなんだ。「河田さんうそおっしゃい。あんたは、ロでそう言っているその心はどうかな?」と。 中林 ほう。 河田 この暑い気候の夏、君はこの気候に対して本当に感謝できていますかと言われるわけです。生長の家の調和の教えというものは、何も人間だけが都合よう行くのが、この教えではない。天地一切のもの、万物全てが感謝と生命によって生かされている。例えば、この暑い天侯で、田圃のお水が温む。そしてあの稲が生長する。人間にとっては暑うてかなわんかも知れんが、神は全ての総てであり、人間にだけ都合ように気候を与えていらっしやるんじゃないんだよ。君、それが分るかねえ……と。もう少し深いところを悟りなさいよと教えて下さったんですわ。僕は、先生のその一言一言を、本当に素直に有難うございますと、ただただ受けつがせて頂こうと、そう思ったです。 徳久 なるほど、深い教えだねえ。僕はもう一つあるんですが、先生に、「先生、何で体験談で病気の治った話ばかりなさるんですか?」と訊いた。と言うのは、病気の治った話でなくとも、もっと人類の思想中より迷いを去らしめよう、人類生活の全面を光明化しようというのが、生長の家の教えでしょぅ。そう思ってお伺いしたら、先生は「君ねえ、病気が治った体験談だと思うからいかん。心が変ったら肉体が変るというのは、一番これが解りやすいでしょう」と言われた。それから何年も経って僕はハッと気がついた。ここ(『天使の言葉』)にちゃんと、“神が病気を治して見せるのは、肉体は心でどうにでも移り変らせることが出来るという事実を見せて、「体」は念(こころ)の影だという真理をさとらせるためである”と出ている。これを毎日読みながら、あんなこと先生にお訊きしてと、恥かしく思いました。谷口輝子先生が、7月22日の追善供養祭で、先生が亡くなって皆が悲しんでいるのを、『甘露の法雨』をよく読んで下さい、先生は、永遠の生命であると、この中で教えて下さっていますよ。悲しむ暇があったら、光明化運動を進めて下さいねと、仰言られましたが、僕は、“ああ、谷口先生と輝子先生は本当に一つなんだ”と感動しました。また、密葬の時のあの輝子奥様のお言葉ね。先生は、神様から戴いた寿命いっぱいに働けるだけ働いて、天に召されたことだと感じました。どうぞ、皆様泣かないでお見送り下さいませ、と。このお言葉は、神様にずうっと導かれて、91年7ヵ月を只管(ひたすら)に神様のために働かれた、谷口雅春先生のご生涯を、完全に物語るものだと拝して、感激しました。 河田 先生がこの教えを発祥されたとき、蝋燭になぞらえて、自分の身を焼きつつ進むと宣言されたでしょう。蝋燭の火というのは、終いに、消える前にパアーツと一時明るうなりますわね。総裁先生が、このみ教えに火を点けられて、50何年間という長い年月ずうっと、たゆまず燃え続けられて、最後にパッと明るうなって消えるように、あの最期のお言葉、「病無し、迷無し、罪なし、これが生長の家の根本真理であります。それでは神様、只今より眠らせて頂きます。それでは神様、只今より眠らせて頂きます」と、発せられた。見事なご生涯やった…… 徳久 本当に……このみ教えを直筆であらわされた聖典とともに、永遠の福音として伝わりますね。これから。 中林 そうです。56年間、先生は伝道を続けられて、そのままお亡くなりになられましたが、私もその50年を殆ど御一緒させて頂いて、自分の一生というものを考えてみても、全く、神様に生かされておったと同時に、総裁先生に生かされて来たということを染々感じます。ただもう、感謝あるのみです。
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