生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その15> =人間は肉体ではない・病気を治す秘訣= (586)
日時:2013年03月23日 (土) 12時39分
名前:信徒連合



開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その15>



          =人間は肉体ではない・病気を治す秘訣=


      『生命の實相』第15巻・人生問答篇(P.117〜122)




野田:

わたしは谷口先生の教えを受けて以来、人間は肉体ではないという説明をこういうようにしています。われわれの肉体は日々に新陳代謝して、止まるところを知らない。幾ヵ月前の肉体細胞とは別の細胞になっているのでしょう。もし肉体というものが「私自身」であるならば、幾ヵ月前の肉体の方が「私」か、現在の肉体の方が「私」かわからなくなるでしょう。またたとえばこの皮膚は毎日擦(す)りむいてもまた新しいのができる、この擦りむく皮膚そのものは「私」ではない、皮膚を中から新生さしてくる、目に見えない「生命の力」――これが<本当の自分>だとこういうふうに説明しています。



谷口:

目に視えるものを実在だと思ってはいけない、肉体の五官に見えるものを実在だと思ってはいけない。それでは霊眼で見えるものを実在と認むべきであるかというと、本当の実在は、霊眼でさえも見ることができないものです。ですから『甘露の法雨』には「本当の実在は五官も六感をも超越している」と示されてあるのです。

五官で見るものを実在と見るものは五官に捉えられて生命の自由自在の相(すがた)を発揮することができないと同じように、第六感や霊眼で見るものを実在だと思っているときには、また第六感の世界に縛られて生命の自由さをうしなってしまうのです。

よく霊眼がひらいて霊の姿の見えるという人がある。悪霊や、亡霊や、動物霊や、怨霊の姿を見る、これらの霊魂の姿は実際あるかというと第二義的意味では実際ある。しかし第一義的意味では無いのです。

それは病菌はあるかというと第二義的意味ではある。微生物は顕微鏡で見ればありありと見える、培養すれば繁殖する――しかし病気を起す菌としては存在しないのです。

病菌としては存在しないというのは、<神は決して病気を起す不調和なものを造り給わないからです。> 神の造り給わないものはない。その無いものを在ると思う、それが迷いであり、迷いが客観化して展開してきた存在だから第二義的存在なのです。

それと同じように、悪霊というような害を与えるものを神は決して造り給わないから<悪霊は第一義的には存在しないのです。>

 すべて第一義的存在ばかりを見、神の造り給いし調和した世界ばかりを見る、これが「生長の家の生活」なんです。

ところが霊眼の見えるひとは、顕微鏡をもった医学者がややもすれば病菌を見ていかにも気味が悪く恐怖するのと同じように、霊眼に見える悪霊に心をとらえられ、それを恐怖して病気になったりすることがあるものです。

この点では霊眼が開けて悪霊の見えるいわゆる霊視者は、霊眼がひらけないで悪霊の見えない人よりもある意味では不幸なのです。病菌の見える文化人は、黴菌の存在を知らない野蛮人よりも病気に対する抵抗力が弱い場合があるのと同じです。

<見えるから在るという>――普通の人は五官に見えるから在るという。けれども<五官に見えるものは実在ではない>と「生長の家」では言うのです。

五官は“念の影”を見る道具なのです。ありありとここにあるように見えている。この歴然(ありあり)とした存在さえも実在ではなく念が形に顕われたものなのです。霊眼でアリアリと見えている霊の姿も同じことで、念(こころ)が姿をあらわしたものであって実在でないということはむしろ当然すぎるほど当然のことなのです。

(机をさして)ここに机がある、皆さんにも机があると見えている。しかし物理的心霊現象の霊媒をもって実験した例によると、この机はこんなに固いものではなく、水の這入ったコップがスウーとこの机を透過(ぬけとお)して下へ落ちる。

つまりこの机はその霊媒についている司配霊(その実験の場合はインドの行者だといいますが)にとっては透過すること自在なものであって何もこんなに固い存在ではないのです。

ここに霊媒の司配霊(コントロール)たる霊界人が密閉室の壁を貫いて物品を引き寄せたり、机を透過したりする手品的な心霊現象のできる種があるのでしょう。種といっても物質的な仕掛けではなく、霊界に属する霊魂がわれわれの念とは異なる「念」(こころ)の世界に住んでいる。この念(こころ)の相異こそこの霊的手品ができる種でありましょう。

わたしがここに言うのは物質透過現象だけを言うので他の心霊現象を言うのではありません。さてこの机がわれわれにこんなに固い存在に見えているのは、われわれの五官が自分の念で固いと信じていて、その固いという「念」(こころ)をここに(机を指す)反映して固くかんじているのです。

だから、それを固いと信じない念をもったある階級の霊魂などにとっては透過することが自在なので机にコップを抜け通らしたり、密閉した室の壁を貫いて物品を引き寄せてきたりするのです。しかし、そんなら机はここに存在するように見えているけれども全然存在しないものであるかというとそうでもない、机を机として感ぜしめているところの“念の波動”がそこに在るのです。

「机」そのものが在るのではなく、<机の顔をしている念の波動>があるのです。物質ではなく念(こころ)の波動だから念(こころ)のちがう境涯にいる霊界の霊には抜け通って透過することもできるのです。

病気でも、<病気そのものは無い>。<病気の顔をしている念の波動があるのみです>。だから病気を治す秘訣は病念の波動を除り去ることにあるのです。聖典『生命の實相』や『甘露の法雨』を読んで <「人間は本来神の子であって病気は無い」> という真理を知れば胃癌でも治るというのは、<病気は無い>と知れば<病念がなくなる>、病念がなくなれば病念が形をあらわしていたところの病気そのものが消えるのは当然です。

「生長の家」の聖典を読んでもいい加減に読んで<病気が無い>という真理に通達しなかったり「病気は有る」というような世間並みの考え方をヨリ強くもっていられると、病気の念をもっていることになるので、その病気の念が、形の世界に顔を出して病気とあらわれて来るわけですから病気は治らないのです。念(こころ)でおもえば、念(こころ)のとおりに自分に形をあらわすのが、自分の肉体とか境遇とかいうものですからねえ。

だからわたしは人に言うのです、『生命の實相』や『甘露の法雨』の聖典は幾回でも交替に繰り返して読むべきものであって一回ぐらい読んでかいてあることの意味だけが解ったくらいでは駄目なんです。

読むたびごとに自分の病念を破砕して、<最後の無>にまで、その病念を破砕しきったとき、忽然(こつねん)とその病気が消える。あるいは今後病気にかかるという可能性がなくなるのです。

映画の例でいえばフィルムに病気の絵が全然なくなったとき、舞台の方でも病気の映画が消えるのと同じです。だから心のフィルムに描かれて潜在している病念がことごとく完全に消え去るまでは、幾回でも繰り返し読んでいただかねばならぬのが「生長の家」の聖典であります。




野田:

肉体が念(こころ)の顕現であるということを知るのはなんといっても体験ですね。

わたしは近ごろひどい病気もしませんがちょっとした病気にになったときに谷口先生のいわれる原理を応用して、精神統一をして自己生命の本来の病気のない状態を念じていますと、ある時間後にそのとおり肉体が健康になってくるのでその体験を得ています。

他人の病気を治すときには病人と両手をつなぎ合わして対座して精神統一していると病人の患部と同じ場所の自分の肉体に感応があります。その人の病気がお腹ならば自分のおなかにその病的波動を感じて変に痛くなってきたりするのです。

ところが、その痛みは実際はない、病人の痛いという念(こころ)の波動が自分に感応しているのですから、今度は「病気はない、痛みはない」という観念に精神を統一していると「病気はない、痛みはない」という念の波動の方が、「病気は在る、痛い」という念(こころ)の波動にうちかって、痛みが感ぜられなくなって恍惚としてきます。

するとその時には病人の方の痛みもとれて、軽い病気なら一度で病気が治っています。この体験でも、病気というものは<念の波動のアラワレ>であって念の波動が自己本来の無病状態にかえれば治るということがわかりますね。

時に、皆さんは近ごろの朝の五時十分からの遠隔指導の神想観実修はやっていられますか。最近、わたしは早朝の遠隔指導を受けますと、自分で自修する時よりも手にピリピリ感じて来る霊感が激しいのでした。その掌(てのひら)の霊感が遠隔指導の終わる六時が終わるとその瞬間スッと消えるから霊波の感応というものの体験が得られてまことにけっこうでした。






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