生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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谷口清超著 『政治と宗教』 (7855) |
- 日時:2024年02月20日 (火) 23時37分
名前:本音の時代
はじめに
「黒い霧」などといういやな言葉が、しきりに新聞紙上にあらわれる。日本の政治は浄化されなげればならないし、今のままでよいとは誰も思ってはいない。しかし「何」によって浄化しようというのであろうか。洗濯物なら水や洗剤で浄められるし、スモッグならば大風でも吹げばきれいに吹きとんでくれる。しかし人間社会の 「黒い霧」は、果して何によって浄められるというのであろうか。 いくら総裁選挙をやってみても、総選挙を行っても、これはほとんど役に立たないであろう。何故なら、恰好の「洗剤」がみつからないからである。そうかと云って、 野党に政権を渡してみたところで、それが「黒い霧」を吹ぎはらうという見込みはな い。せいぜい代りに「赤黒い霧」がたちこめるくらいが関の山であろう。彼らにもやはり「洗剤」がないからである。マルクス・レーニソ主義も、洗剤にならないことは、お隣りの中共の「紅い旋風」を見れば明らかである。この旋風は霧よりももっと荒々しく、人間の基本的権利をも、根こそぎにしてしまいかねない勢いである。 しかし、人類は決して絶望してはならない。人類はたくましく前進し、凡ゆる迷妄の霧を吹きはらして、「真実なるもの」を見出す能力を具えている。吾々はそれを確信するのである。何とならば、吾々の中には「理想」があり、「良識」があり、「神性」が宿っているからである。吾々は決して人間を、外見の如き下らぬものとは思わない。どんな極悪非道の者の中にも、「美しき魂」があることを発見するのである。これを、政治的に、組織的に発掘すればよいのである。 「愛」が政治に、堂々と登場すればよいのだ。それには、どうしたらよいかということについてのこの序論を御一読下されば幸いである。 (谷口清超)
一、何が政治を歪めるか
1 愛について
宗教という言葉は、とかく人々に堅苦しい印象を与えるものでありますが、本当は愛の実践の教えであります。即ち、いかに正しく愛するかということが宗教の眼目になっております。ところが、政治もやはり根本は愛なのであります。愛のない政治というものは、まるで精神の抜けがらで、単に権力欲や支配欲の行使にすぎなくなって、しまうのであり、これでは、本当の政治とは言われないのであります。従って、宗教と政治とは愛に於て共通しているのであります。ただその現れ方が非常に違うので、宗教は政治に関与すべきでないとか、あるいは政治は特定の宗教を擁護すべきでないというようなことをいう人もいます。しかしこれも一つの学説にすぎず、それが決して絶対的真理であるという訳ではないのであります。 ところが、アメリカなんかでは、大統領の就任演説の時に、キリスト教のパイプルに手を置いて宣誓し、且つ又就任演説の中では、いくらでも神様についての言葉が飛び出して来て、私は神様の御心を政治に実現するということを誓うのであります。しかし、一方日本の政治家の中には神様ということを口にする人は滅多におらないのであって、これはまことに残念なことであります。それは明治維新の際、日本は外国の文明を取り入れるに急であったが、その時宗教の重大性を見落し、物質的、制度的なことのみを輸入してしまったからであります。そこに大きなミスがあった訳ですが、それが今も尾を引いているので、日本の社会は、非常に精神的に頽廃しているということが、世界注視の的になって来ている次第であります。 一例を申しますと、最近日本の産業は非常に発達して、いろんなところへ進出してきておりますが、漁業でも世界のあらゆる海をのり越えて進出しており、アフリカなんかの沿岸に上陸している日本の漁船も沢山いるらしい。しかし、その漁船員達が上陸していったとぎの行動が、外国では問題にされているというのであります。いかにも彼らは、立派な服装をし、トランジスタフジガやカメラをぶらさげているけれども、やることがどうもあまり感心出来ないというようなことを言う外国人がだんだん増えてぎている。 「日本人は一体宗教というものを待っていないのか」と彼らは言うのです。他の外国の船員なんかは、上陸すれば現地の教会に行くということもあるが、日本人達が教会に行ったのを見たことがない。行く先は必ず「バー」である。「日本ではバーが教会の代用をするのか?」と反問される。そんなバカな話はないのであります。爺だって「ばあ」だって教会の役目はしやしない。ところが日本人には教会へ行く風習がほとんどなく、お寺参りをするという人達は、青年の中にはいない。お寺参りといえば、年取った人達が極楽の予約席をもらいに行くにすぎない――というのが現状であって、余りにも宗教が無視されているのである。無視されているというよりも否定されている。日本に於てはイソテリは「私は無宗教である」ということを公言してはばからない。しかしヨーロッパあたりへ行って「私は無宗教である」というと「私は不道徳漢であります」と言っているのと同じ意味にとられるおそれがあります。つまり宗教を持だない人は何をしでかすかわからないというのが宗教に対する一般的認識なのですが、日本に於ては「私は無宗教であります」ということが「私はイソテリでございます」ということの一つの“表白”になっているという悲しむべき事実があります。
2 宗教家の責任
これは宗教を非常に軽視した歴史的教育風習もありますけれども、もう一つは宗教家のだらしなさも大きな原因になっております。かつては政治の表面で活躍した宗教家が、いつの間にか葬式宗教の中にとじこもってしまって、人間の生きるべき正道を伝える伝道をおろそかにしてしまった。 勿論立派な信仰や思想を持っている仏教僧侶の方々もいらっしゃるが、大半は山にこもって大衆との接触を断絶した。その為多くの国民は宗教を誤解し、宗教抜きの生活というもので何とかお茶をにごすことになっているのであります。これは日本の将来にとってのゆゆしき問題であります。
3 唯物論の迷妄
そもそも不道徳な考え方を持っている人々が、真に立派な国家を支えることが出来るでしょうか。不道徳と言わないまでも、唯物論をもってしては、国家を永久に栄えさせることは出来ないのであります。何故か? つまり物質が基礎になって、その上に一切が築かれているという考え方によると、私達の生命はまことにおそまつなものである。七十年か八十年か九十年か、精々百年の寿命である。だからそれまでの間に私達は良い生活をし、楽しい思いをして死ぬるに越したことはないという考えに落着くのはきまっている。何故なら、吾々の最後は灰であり、骨である。その骨は良いことをしてきた骨も、悪いことをしてきた骨も全く同じである。これが唯物論の結論になるから、少々悪いことをして暮していても、人に見つからなかったらよいと考える。人に見つかったら具合が悪いけれども、人に見つかりさえしなげれば少々悪いことをしても結果は同じだ。大泥棒の骨も、いい事をしてきた人の骨も、似たようなものだ。重さもあんまり変らないし、色も変らない。だから出来るだけいい生活をするためには、つまり楽な生活をするためには、いくらか悪いことをしても、汚職をしても、イソチキをしても、嘘を言っても、騙しても姦淫しても構わんではないか。焼いてしまったら結局人はみなおんなじになるではないかというような事を心秘かに考えるのであります。こんなことを大っぴらに言うは少いけれども、人々は心密かに考える。そしてそういう人達がいくら立派な政治をやると約束したって、政治を立派にやりうる筈がないのです。必ず彼らは欲望につられ、自分達の利益のためにというので、変なところに急行列車をとめたりし出して、様々な汚職が生じ、政治が乱れてくるのであります。
4 マルクス主義と人間
ところが真の人間は、決してそんなものではないのであります。 「人間は肉体ではない」というのが私達の信仰です。肉体が人間ではなく、肉体は人間の一つの顕れにすぎないのであります。人間のもつ永達の生命が、一つの場に於て仮りの姿をあらわしているのが、この「肉体」である。恰度、肉体は写真みたいなものなのです。動く立体写真であり、その立体天然色のすばらしい“肉体”という写真が、ある期間この地上にあらわれて、色々なことをするのである。その肉体をとおして、私達は永遠の神の生命即ち「神の子の生命」を表現する。その際吾々が「神の子」の実相をどれだけ表現するかに応じて、生き甲斐を感じ、喜びを感ずるのであります。吾々が立派な写真をうつすと、その写真を写した人は非常な喜びを感ずるでしょう。それと同じく、和達はこの肉体生活をとおしてどれだけ完全さをあらわし、どれだけすばらしさをあらわすかによって、私達自身の魂の喜びを味わうことが出来、また多くの人々をそれだけ喜ばせることが出来るのであります。 かくの如くに私達は永遠の生命こそが真の人間であると理解する。ところが唯物論によるとそうはゆきません。永遠の生命なんて無いんだということになる。だから、マルクス主義も唯物論の一種ですから「永遠の生命」というものを問題にしない。労働者独裁政権ということは問題にしても、すべての人々の中に宿っている神の生命ということを全然取り上げない。従って彼等がたとい労働者の天下をつくったとしても、そこに於て真に立派な政治が行なわれうるという理論的根拠を何一つ持たないのである。今まで虐げられ、搾取されてきたと称する労働者が天下を取ったとき、なぜ一体すばらしい世界が出来るのか、その理論の根拠がどこにもないのです。今まで虐げられてきたというだけで、どうして彼らがいい政治を行うということになるのか?けもしそれが真実なら、犬でも虐げられた犬がおれば、その犬がいい政治をするようになることになりはしないか? こういうことをべルジャーエフというロシアの思想家が言っていて、昔から色々と論ぜられている訳で、それに対してマルクス主義者は答えることが出来ないのであります。ところが、そういう中途半端な理論であっても、とにかく多くの人々がマルクス主義を信じ、これが真理だといって団結して動き出すと、全世界の政権の三分の一を獲得してしまうというような結果になり、彼らの唯物論的見解が今もなお世界の混乱の大きな源をなしているという実情であります。
5 社会党の実体
愛すべき吾が日本に於ても、やはりマルクス主義というものがかなり政治の中に浸透してきておりまして、共産党はもとよりのこと、社会党の中にも大いに進出してきております。こめことはかつて生政連で販布した「革新政党の腹の中」(本シリーズ第一集)というパンフレットに詳しく書いてありますから御読みになっていただきたいと思うのであります。即ち多くの国民が、そして政党の幹部がイデオロギーという“狐”に取り憑かれているという状態であるのです。従って国民は、野党の第一党である社会党に政治を任せたら労働者は非常に幸福になるんじゃなかろうかと考えて、安易な気持で支持するかもしれませんが、実体はそうではない。結局吾々はマルクス主義に投票しているという結果になってしまうということを知らないでいる人が非常に多いのです。社会党がマルクス主義に非常に傾いているところの政党であるということは、私達だけがいうだけではなく、社会主義インターというのがそういう警告を発して、まさに除名しようとした。日本社会党を社会主義インターが除名しようとし、社会主義政党ではなくて共産主義政党であるという烙印を押しかけたという事実がある。そういう訳で私達はこれら唯物論に立脚しているところの政党に政治をゆだねては、決して本当に幸福な生活を送り、すばらしい社会を建設することが出来るものではないということを訴えたいのであります。
二、何が『愛の政治』か
1 愛の政治
それならば一体何によって私達は真にすばらしい生活を送り、理想国日本を築くことが出来るかというと、やはり正しい「愛の政治」によらなげればならないのです。それでは「愛」とは一体何か? 愛というものはそもそも物質ではない。物質から出てくる産物とは違う。愛というのはもっと崇高な概念であって、物質を越えているところの存在である。物質が崇高なものを生み出し、低いものが高いものをつくり出すというのが、唯物論のとっている考え方です。下のものが上のものをつくり出し、劣ったものが高級なものをつくり出す。つまりアミーバーから人間がつくり出される。下等な生物から段々段々と高等な生物がつくり出されてきたという。これは唯物論のとる「公式」であります。しかし乍らどうしてつまらないものがいいものを生み出すか。つまらないものが、例えばアミーバーのようなものからどうして人間の生命まで発展するか? そんな理屈がどこから出るか、ということがわからないんです。つまらないものからどうしていいものが出てくるか。いいものが出てくるのは、本来いいものがあったからではないのか。 例えば茶碗が壊れたとする。その壊れた茶碗をそこに置いといたら、いつまでたっても壊れた茶碗でありましょう。ガラクタがいっぱいある。つまらないガラクタを、いくら置いとったって、良いものが出て来はしない。いいものが出てくるときはいいものがあるからであり、いい人がいいものを造り出すのである。例えば立派な陶器の茶碗をつくったというときには、必ず立派な「作者」がいるのであって、立派な作者あってはじめて立派な陶器の茶碗がつくられるのである。ガラクタばかり並べておいて自然にすばらしい陶器の茶碗が出来るなんてバカな話はない。立派な建築物を建てるには、立派な建築家がいてはじめてその想念の中に描かれた設計が立派な建築となる。いくら泥やコンクリートを並べておっでも、そんなものでいい建築は出来はしない。だから私達は立派な世界を造ろうと思ったなら、下らない人闇を寄せ集めてそれをくだらないままに放って置いといて、どうしていい世界が出来るのかというのです。闘争の心や欲望の心ばっかりに満たされている人達をいくら寄せ集めてワッショイ、ワッショイとやってみたって、そこからどうしていい政治が出来るかというのです。中共の紅衛兵みたいなものをケシかけてやる政治がいかに愚劣であるかは、ここからも明らかであります。子供が大人を批判してツルシ上げる。こんな馬鹿なことはない。もしいい政治がそういう人達から出てくるとすれば、そういう人達にかくれているすばらしいものが発掘されるときであり、すべての人々の中に神の生命が宿っているからこそ、その神の生命が発掘されたら、すばらしい政治が展開されるのである。そして立派な国家が建設されるということになる。その「神性開発」の聖業を放っておいて、何が政治であるか。そのすばらしい「神の生命」 「神の子」のすばらしさを発掘する運動を、生長の家以外のどこでやっているのであろうか。 どこかの“革新団体”でそういうことをやっているか? 否! すべてに反対反対のデモばっかりやっている。代議士変じて“妨議士”となり下っている。議事を妨害することを専門にやるだけの団体になり下っているのです。一体どこにすばらしいものの発掘があるか。そしてこのすばらしいものを発掘するのが愛の働きなのでありまず。
2 非行少年
例えば母親は自分の子供をかわいがって育てるでしょう。それはその子供の中にかくれている素晴らしい能力を伸ばそうとする最も具体的な働きであります。乳をふくませて「それ飲め、やれ飲め」と飲ませるのも、やっぱりその子供の小さな体の中にある素晴らしい未来をひっぱり出そうとする働きであります。その愛によってはじめて素晴らしいものが生れて来るのです。お百姓さんが稲を植えて立派に育てようとするのも、稲の中にある素晴らしい稲の命をひっぱり出そうとする働きであります。稲の中一にあるすばらしさから立派な穀物が実ってくるのです。みんな愛によって良いものが生れてくる。愛のない所には、どんな素晴らしいものも出て来はしない。現に今吾々の社会においては非行少年が非常に問題視されています。悪いことをする人が非常に多い現代である。それはなぜか。 「愛のない家庭」から、これらの非行少年は出て来ているのである。どんなに金があり豊かであっても、愛のない家庭からは絶対に立派な青少年は出てこないのです。それを唯物論的な政治家達は、どんな対策でもって救済しようとしているか。非行少年が出て来るのは、日本の社会が貧しいからだとか、あるいは社会のひずみのせいであるとか、不平等の為であるとかと言う。しかし、実際に非行少年が沢山出て来ている家庭は上流家庭もしくは中流家庭であります。親は金を沢山待っていて、自家用車もある家庭から、続々と非行少年が出て来ているという現実を、どう理解すれば良いのか。決して貧しいからではない。それは、彼らの家庭の中に正しい夫婦愛がない。本当の親子愛がないからである。たとえ愛があっても、それが押しかくされていて表現されないで、ゆがめられているからであります。 「愛のない家庭」からは断じて良いものは出て来ない。同じく「愛のない国家」からも、良いものは出て来ない。吾々は愛することによってのみ、良いものを生み出すことが出来るのです。
3 愛国心
建築家は建築の仕事を愛し、立派な設計をする人はその設計の道具を愛するのです。立派な大工さんはその道具を愛する。だから、ここから立派な設計の仕事、大工の仕事が生まれてくるのです。そのように、和達は人間を愛し、国を愛さなげれば、良い人間や国は出て来ないのである。国を愛するということすなわち愛国心が、戦争につながるというような、べらぼうな議論をした時代があります。現在でもそう言っている人がありますが、愛がなくてどうして良いものが出来るでしょうか。日本の国を愛さなくて、どうして立派な日本をつくりうるでしょうか。お百姓さんが稲を愛さなくて、どうして良い、立派な作物を作ることが出来るでしょうか。牧畜をやる人が、牛や馬を愛さなくなって、どうして立派な家畜を作り出すことが出来るでしょうか。それと同じことで、日本の国を愛するということが、日本の国を良くするということにほかならない。ところが「愛国心」を持たない青年が最近非常に多く養成されてきいるというのは、一体何故であるか。これは唯物論によって、ねじまげられた偏向教育が行われてきたからであります。彼らは国は愛さなくて良いものであると教えた。愛する価値のある国なら愛してやるが愛する価値のないような大戦争をやって負けた国は愛さなくていいというようなくだらない議論が、いつの間にか注入されてきているのです。それで、愛する値打ちのない国は愛ざない、というふうなことを言う青年がふえた。しかし「愛」というのは、そんなもんじゃないのであります。母親でも「この子は愛する値打ちがあるだろうか、ないだろうか」と考えてから愛するか?「一つも百点をとっていないから愛する値打ちがないから愛すまい、隣りの子を愛そう」などというようなバカな母親はいやしません。愛というものは、そんな取り引き的な条件つきのものとは違うのです。 たとい片輪に生れてきても、たとい目が見えなく生れてきても、寧ろ、目が見えなく片輪で生れてきた子供程愛するのが親の愛であります。かわいそうだ、なんとかして一人前にしたい、どんな犠牲を払ってでもこの子を幸福にしたいというのが本当のなのです。例えば恋人が顔に大ヤケドをしたとする。とその相手の恋人が「お前はもう顔に傷を受けていて、愛する賓格がなくなった。だから私はお前を愛しない。他のヤケドをしていない女を愛する」いうようなことを言ったとしたらどうだろう? そんなヤツはけとばしてやりたいと思うに違いない。彼は本当に「愛する」ということを理解していないからであります。愛するということを誤解している。真に愛するとは、そんな条件付きなものではない。
4 愛は癒す
そこでもし日本の国がまだ不完全であったら、何とかして完全にしたいというのが本当の「愛国心」であります。そして真に国を愛する為には、愛するものの傷をツツキまわして、それをあばきたてるように、わざわざ外国にまで行って国を罵り、わめきちらしたりしては駄目である。そんなバカな愛し方はないでしょう。本当に子供を愛する母親は、隣り近所へ行って自分の子供はこんなに悪いヤツだなんて言いはしない。そういうことを言ってみても、未だかつてよくすることに成功したためしはない。それによって相手が良くなったためしはない。吾々の体験によると、相手の傷口を、暖かくおおい隠し、そこを繃帯して静かに相手の生命のすばらしさを祈ってあげるのがよい。そういう暖い「愛の繃帯」によってはじめて傷ロが癒されるのであります。精神的な傷口でもそうであります。夫が欠点を待っているとき、奥さんがその欠点をなおそうと思ったならば、その夫の欠点をあばき出し、えぐり出し、口汚く罵り、叫び、世間に吹聴することによっては決して成功しない。それどころか悪くなる一方です。酒乱の夫なぞ待っている人は大抵そうです。夫の傷口をツツキ廻すから夫は家へ帰るのに素面(しらふ)で帰れなくなって、酒を飲んで酔っぱらって、傷口をツツかれても痛くないように麻痺して帰ってくる。そういう時に直す方法は奥さんが無条件に暖かく相手を抱きしめて、豊かなオッパイを含ませてやることです。そして心の子守り歌でも歌ってあげる。無条件に「あなたはいい人だ、すばらしい人だ、私はあなたと結婚してこんなに倖わせなことはない」というのです。そのとき翻然として酒乱が治ってしまったという幾多の実例があるのです。一遍では治らないこともあるが、何遍もくりかえしているうちに治るのであります。
三、何が日本の魂か
1 国家の連想
社会だって国家だって同じことである。社会や国家の傷口をツツキ出し、アバキ出しそれを外国にまで行って宣伝する。そして外国人の宣伝におどらされて、コジキ旅行をして来て、人民公社かなんかをしきりに褒め称える、というようなことによって日本国を良くすることは絶対に出来ないのです。そんなことでよくなるようなら、この世の中に不良青年も、不良老年も、不都合な社会もありはしない。それとは反対に、本当に正しく愛することによって、無条件に相手の素晴らしいところ 「実相」を、本当の生命の素晴らしさを、静かに心の眼で見つめ、それを言葉で称えることによって、はじめてよくしうるのであります。それ故日本を良くしようと思ったら、日本の素晴らしい「本当の生命」を称えなげればならない。日本の理想が世界を征服するとか、戦争をして全世界を奴隷化するとかそんなものでないことを明らかにし、日本が崇高な愛の精神によって建国されているということを、みとめ称えなげればならないのです。事実日本国はすばらしい精神によって建国されたのです。「大和」の理想をもって建国されたのであります。天皇を中心にして私達は一つの家族の如き生活をしてきた。これは唯物論者がいうように天皇家の謀略や策略や弾圧によって支配され、つくり出された国家体制ではないということを確認しなければなりません。吾々は国家の理想を称えなげればいけない。何故なら謀略や弾圧が二千年も三千年もつづいたという歴史はいまだかつて見たことがないからです。それ程日本人はおろかではない。日本人は頭が良いというので有名です。世界中で一番いい頭を持っているとも言われている。頭が良くて、あんまり良すぎていらんことまで頭を働かせすぎるくらいである。その日本人が世界でたった一つ、二千年も三千年も編されつづけた国家をつくったなんて、どうして考えられるでしょう? そんなバカな話はない。日本人が天皇陛下を愛したからである。天皇陛下は又国民を愛し給うたし、国民も又天皇陛下を愛したから、このような国家が永く保持されたのです。それ以外に考えようがないのであります。
2 日本の素晴らしさ
私達はt武力や弾圧によって中心をいただかなければならなかったから天皇国家をつくったのじゃなくて、唯私達は 「永遠の国家」というものは中心が変らないすばらしい体制をもたなければならないということを直感的に把握したからそうしたのであり、自主的にその理念を守り育ててきたのであります。世界でたった一つそういう理想国家が建設された、それが日本だということを知らなげればならない。しかも単に自分が知るだけでなくて、多くの人々にそれを知らせなければならないのであります。かくの如く崇高な、日本の唯一の誇りを、どうして彼等は残酷にも踏みにじって、祖国に外国の真似を強制させようとするのか。革命といい、大統領制といい、みんな外国の真似ばかりではないか。吾々は、何故人真似をそれ程しなければならないのであろうか。吾々はそうすることによって一体何を得るのか。外国を讃美する前に、どうして自国の素晴らしさ、本当の祖国の中に宿っている生命の素晴らしさを、礼讃出来ないのであろうか。 私達が子供を良くしようと思ったら、他の子供の礼讃をする前に、まず自分の子供の神性を拝んでやらなげればなりません。「お前は素晴らしい子だ、とうちゃんとかあちゃんが精魂こめてつくった子供だ。ああ素晴らしい」と誉め称えることによって、はじめてその子は良くなって行くのです。ところが「お前は駄目だ。隣りの子を見ろ。あれは実に素晴らしいぞ」というふうなことを言って、良くなっていった子供なんか一人もいやしない。政治家達の中にはこれを知らない人が多いらしい。そこでいたずらに国民の税金か何かを浪費して、外国にいっては、外国の真似をすることを覚えてきて、百年くらい遅れたマルクス主義のイデオロギーを今頃持ち込んできて、流行遅れの政治論をとなえるのです。あさましいことだ。ヨーロッパではもうマルクス主義なんか時代遅れのカスみたいになっている。マルクス主義は明らかに敗北している。その見本が陳列されているのがベルリンです。 西と東の休制の陳列場がベルリンであります。だからヨーロッパでは、ベルリンを見て、どちらがすぐれているかを知っているけれども、日本は遠く離れて太平洋の中にあるものだから、陳列場から遠いので、共産主義国と自由主義国との優劣を知らない人達がいて、しきりにだまされて赤旗を振って騒いでいる。彼らは日本を失敗の方へ、失敗の方へと“失敗した陳列場”の真似をさせようと、非常なエネルギーを使っている。実におろかなことではありませんか。
3 日本の憲法
だから私達は本当の愛というものが、現代程必要な時はないということを、全国民にうったえなければならないと思うのです。と同時に私達は、さらに愛というものには「秩序」がなければならないということを知らせる責任がある。愛するということは、何でもべタベタ相手にくっつくことではないからです。相手のいうことを無条件に受け入れることでもないのです。例えばある奥さんが「私は人類を愛する」といって、全ての人類とべタベタとくっついたら、一体どんなことになるであろうか。そこには「秩序」がなくなってしまうから、本当の「愛」がくずれていってしまうでしょう。人間にはくっつくべき相手とくっつくべからざる相手とがあるのです。人類愛でならおつき合いをしても良いが、夫婦としての愛情では、そうあっちこっちべたべたとくっついちゃいけない。だから「愛」を行なうには先ず秩序を重んじなければならないのです。国を愛するという場合でも、秩序を国の中にうち立てて行かなげれば、国を愛することにはならない。その秩序のもとになるのが「憲法」であり「法律」であります。吾々はこれを守らなければいけません。ところが、今の憲法は本当に日本国の秩序を守って制定された憲法かといえば、残念ながらそうではない。今の法律の中にも堕胎を経済的理由でゆるしたようないろいろな悪法がありますけれども、現行憲法というものは、そもそもの成立過程に於て重大な誤りを犯したところの憲法であります。つまりそこに日本の精神を盛り込んで日本人自身が作った憲法ではない。これは占領中にアメリカ人の草案によってつくられた憲法であります。これは全世界の人が知っている。アメリカあたりでは「日本国憲法」二のことを占領法規― occupied law などといっております。彼らはあの occupied law は失敗であったとさえ言っている。どうしてかというと勿論戦争放棄の項目があるからです。かくの如くしてこの憲法の骨子は全世界の人々が認めているように、日本人自身の手によって出来たものではないと言わざるを得ません。かくの如く占領されている時につくられ、押しつけられた法規は、戦争が締結し、占領が終ったとき、その法規の目的は達せられたとして、自然消滅し、もとからあったその国固有の憲法に復元すべきであるというのが生長の家のとっている立場であります。もとからあった憲法とは、日本人自身によってつくられた憲法であり「明治憲法」ともいうが「大日本帝国憲法」と言われたところの憲法です。日本の憲法は当然そこに復帰しなげればならないのであって、改正すべき点はその改正条項に従って改められていかなげればならないのであります。
4 人間が神聖である
これが本筋であり、そこに秩序があるのであって、この本筋をはずして、便宜的にどんなに憲法擁護を叫んでみても憲法改正を試みようとしても、これでは恐らく永久に本当のものにならないでしよう。何故かというと、今の憲法に脈が通っていないからである。日本人自身の心によって作られた「日本の魂」が現行憲法には吐露されていない。日本人の魂は、先程ものべたように、中心者として天皇陛下を純粋に護持し続けてきた心であります。従って明治憲法の最初のところには「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と害いてある。
5 軍国主義と憲法
なるほど唯物論者は「天皇は神聖ではないではないか、人間ではないか」というかもしれません。けれども人間が神聖なのであり、人間が「神の子」なのであります。その人間が動物だとか、人間が物質だとか、くだらないものだとかいう考えがそもそも間違っているのです。そういうところからどうして生命の尊重の考えが生れてくるだろうか。人間はつまらないもの、くだらないもの、汚らわしきものという考えから、どうして「生命の尊重」が出てくるか。ヒューマニズムがどうして出てくるであろうか。そういう考えから出てくるヒューマニズムや生命尊重や、個人を大切にせよという叫びは、みんな似せ物です。一人一人の個人が皆な神様の生命を受けているすばらしい「神の愛(め)ぐし児」だというところからのみ人間尊重の精神が生れてくるのです。そして吾々人間の中心であり、国家の中心者である天皇陛下がどうして神聖でないのか。国家はその中心を永遠に守り育てていくべきである。それが理想でなくてなんであろうか。中心がグラグラ変り、たおされ、革命によって血を流されるような国家が、どうして理想的国家であろうか。それ故「万世一系の天皇これを統治す」となるのであり、これはあたりまえのことであります。その他旧憲法の条文を一々みると、決してこれは軍国主義でも何でもないということがわかるのです。自由な言論、自由な結社、宗教というようなものを旧憲法はすべて保障しております。 日本がかつて戦争中に経験した一番迫害されたものは何であったか、その一つが実に旧憲法であります。旧憲法のあの自由主義が気にいらんという人達が非常に沢山いて、憲法を反故にしてしまった。その結果戦争がああいう惨めな敗戦をもたらして終結したのであります。彼らは真に天皇が神聖にして侵すべからずと考えていたかというと、決してそうではなかった。天皇の名を利用して肆意横暴を極めた人達が沢山いた。彼らは国民を天皇の赤子として真に敬ったであろうか。そうではなかった。「お達は一銭五厘だ」とかなんとか言って召集された兵隊は軽蔑されたものである。そして人間生命を「神の子」乃至は「天皇の赤子」として尊重しないところから沢山の悲劇が生れた。天皇陛下の御心は平和そのものであった。平和を維持したいと真剣に御考えになった陛下の御心と逆の方向に国家を導いていった人々がいる。それが戦争の大きな原因の一つになっているのです。
6 建国の日はいつか
ところが或る種の人々は、旧憲法の精神を何も知らず、戦争の責任を旧憲法に押しつけて、恬として恥ずるところがない。吾々が旧憲法のことを言うと、あれは軍国主義だとか時代遅れだとかいうが、こういう人達は皆本当は大日本帝国憲法を読んでいないのでず。条文をろくに見ていない人達が旧憲法をクソミソに言う。彼らは唯単にそういう印象を漠然として受けているにすぎない。それは進歩的文化人や日教組の赤い先生方がしきりに説ききかせたから、そう盲目的に信じ込んでいるだけであって、決して真に旧憲法を理解しようと努めた結果ではない。彼らは教えられた通りのことしか考える能力がない愚者であろうか。彼らは今の日本の繁栄がみなこの新しい憲法の所産であるかの如く錯覚している。が、本当はそうじゃないのであって、今の日本のすばらしい発展は、日本人の実カがそうさせてきたのであって、映して占領憲法のしからしむるところではない。もし憲法のしからしむるところならば憲法の作者であるアメリカが日本をこんなに良くしたということになってしまう。断じてそうじゃない。吾々はもっと本当のものを正しくつかまなければいけない。建国記念日を判定するという問題でも、国会がハッキリと二月十一日の結論を出せなかったのも、何を第一に考えるべきかを知らないところから来ている混迷であります。 社会党なんかは五月三日の新憲法の記念日を建国記念日にする案を主張した。全く馬鹿げたことです。新憲法の制定された日は、決して日本国家の建国された日ではない。それどころか寧ろ、これは悲しむべき占領法規が日本を占領した日であります。それはそこから吾々が一刻も早く立ち上らなげればならない屈辱的な日であります。それ故そういう日を建国記念日としたら、とんでもない間違いが起ってくる。憲法制定日は国の始まった日とは違うのであります。日本国はもっとずっと昔から、憲法のない時代からあったのである。明治憲法のない前からあり続いた。聖徳太子の憲法のない前からも日本国はあった。それはどこにあったかというと、吾々の国民の理念の中、心の中にあった。その適当な日を建国日として選ぶということになれば、どうしても日本の歴史書として一番古い『日本書紀』に正式に「辛酉年春正月(かのととりはるむつき)、庚辰朔(かのえたつのついたち)、天皇(すめらみこと)橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめす)。是の歳を天皇(すめらみこと)の元年(はじめのとし)と為す」と記録された日を太陽暦に還算した、二月十一日ということにならざるを得ません。 建国の日 それは日本の国がはじめて天皇を中心として統一国家になった日である、と正式に記録された日でなければならず、事実それがその日に符号するかどうかという科学的詮索や考古学的詮索などどうでもいいんです。又、それを詮索してみても、今から確定した日をきめることは不可能でしょう。記録のなかった時代が神代だったのですから。何しろ、個人の誕生日ですら正確な日は本当にはわからない。人々は誕生日がそう登録されているから真実だろうと皆んな信じているだけの話であります。だから一月一日にはばかに誕生日が増えている。十二月二十九日くらいに生れた人は、ほとんど一月一日誕生日というふうに届げたりする。しかし誕生日は誕生日で、その記録された日が立派な生誕を祝う日であってよろしいのです。イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスだって、あんな日はイエスの生誕の事実と何の関係もない。 しかし人々はそれを歴史的に祝って来ていて、そこに何の矛盾も感じていないのであります。それと同じように吾々の建国の記念日は、やはりそこに於て日本が統一国家になったと正式に国史に記録された日でなげればならない。記録され、且つ明治以来七十五年間祝福されて来たという「科学的事実」を見落としてはならない。それは吾々の理想の中にある、魂の中にあるところの生誕の日であるからです。こうして私達は国を愛すればこそ、その国の魂の尊厳さ、理想の尊厳さを愛し、記念し、そこから相国を本当に霊的に再建していかなければならないのであります。
四、世界平和への勇気とは何か
一 勇気と偏見
ところが現代はそういうことを言っても理解しない人が沢山いる時代である。第一そういうことが言論界においてまだ十分に論議されていない。なんとなく言論界というものが一種の偏見をもっていて、全ての国民の意見をそこに代表させないところの片寄った社説が登場し勝ちであります。これが日本のマス・コミの現実です。しからぱ一体どうしたらいいか。やっぱり努力して情熱をもって私達は正しいと思うことを出来るだけ多くの人々に伝えなければならないのです。勇気をもたなければいけない。多くの人々がやるから私もそうやろうというんじゃ駄目です。「バスに乗り遅れまい」式の、流行追随の精神では、本当の日本の素晴らしさをあらわすことは出来るものではない。しかるに現代は、流行追随が余りにもひどすぎる時代である。ヒザ上十センチのスカートが流行したら、吾も吾もとヒザ上十センチとなる。来年は二十センチになるだろうという話があるし、再来年は三十センチになるかもしれない。かくの如くして人間の半分は「尻まくり」で歩くという結果になったら一体どういうことになるか。そういう時代に敢然として「人間はもっと高尚であるべきである」と主張する勇敢な正気の人間がいなければならない。彼らこそが日本を救い、世界の良識を保持する選ばれた“使徒”であって、流行追随だけじゃ人間は駄目になる。人がやるからやろうでは、文明は衰退の一途をたどる。 デモやストに参加している人々も大抵はこれ式の追随者であり、弱者である。自分はこのデモ精神が真に気にいったというんじゃなくて、人がやるからわしもやらなくちゃ付き合い上具合いが悪いというような弱い心で引きずられている人達が大部おるのである。そういう人達に対して吾々は真実を伝えなければなりません。多数が賛成したといっても、その多数の中には、日和見主義者が沢山いる。だから数によってだまされては駄目であります。狂信的宗教の会員でも、非常に強固な信仰をもっている多数がいるように思っている人が多いけれども、本当はそうじゃない。そうじゃなくって仕方なしについて行っている人が大部いるのです。それは生長の家に転向してこられた人々がそういうことをよく告白しているから、そうにちがいない。本当に純粋に信念をもってやろうという人達は、ああいう運動をしている人達や共産主義の運動をしている人々の中にも数多くはない。少くともそういう人達が勇気をもって沢山の人々を紏合するから大きな力になって、革命でもなんでも起ってしまうのです。 現在の中共政府がどれだけの国民の支持を得ているかということになると、きわめてあやしいものである。そんな支持を得てやしない。だから紅衛兵があばれても、国民は知らん顔していて、あまりついて来ないという現実がある。いくら毛沢東が宣伝されても、それが国民の支持は得ていない証拠に、あまりに宣伝が狂気じみている。だから支持を得ようと、あれほど騒ぎ立てなくてはならないのでしょう。たしかに国民の心をつかんではいないということが、逆説的にハッキリと判る。けれども最初彼等が勇猛果敢に政権を獲得してしまったものだから、あの武力的弾圧のもとに今中共の人民は支配されてしゅんとしている。極く僅かの共産主義者の為に沢山の人民が支配されているという現実です。彼らは一握りのブルジョア主義者を打倒せよと叫んでいるが、それが一握りでない証拠に、かくも国をあげて大騒ぎをしなげればならない。実は一握りの教条主義者にひっかきまわされている有様です。
2 本心にきけ
だから吾々はそういうくだらない意思や思想に支配される弱き善人であってはいけないというのです。もっと自信をもって私達は神の子人間の真理を多くの人々に伝えなければならない。私達はもっと強くならなければならない。もっと団結しなければならないのです。人の顔色を伺うようなことではなく、もっと自信をもって「神様の御心」をうかがうようにしなければならない。常に神様の方へ顔が向いていなければいけない。神様というのはつまり自分、自分の「本心」です。そして常に神様の御心を聞かなければならない。政治活動だって神様の御心を聞かなければだめなのであります。当然汚職や腐敗堕落の起りようがないのである。これに反し神様の御心を聞かない政治活動は、断じて本当の政治活動にはならないのであります。常に自我、欲望に聞いていたのでは、政治は堕落する一方です。このような堕落者ではなく、常に本心にきく良き政治家を吾々は選出しなげればならない。そういう人を吾々同志の中から選出しなければいけないし、又吾々の同志が団結してそういう人々を支持しなければいけないのであります。さらに吾々は又、同志を増やさなければならない。政治家に宗教心が欠けているのは何故かというと、日本人全体に宗教心が欠けている反映であります。国民全体の中に宗教心を、本当の意味での愛の心を普及していく運動が「生長の家」の基本的な運動であります。と同時に、今度はそういう人々の中から立派な信仰をもった人達を代表者として選出していく政治運動が当然生れて来なければならない。これが生政道の活動です。かくの如く広い基盤をもった運動が強力に展開していってはじめて日本の「実相」が顕現してくるということになるのであります。
3 国家の安全と世界の平和
私達はそういう意味で本当に人類を愛し、日本を愛し、そして世界を愛するところの運動をやろうというのです。たしかに人類愛ということも大切です。中には自分は「人類を愛する」ということによって、すべてをごまかしている人もおりますけれども、人類を愛するということは非常に大切です。しかしそれぞれの国家を本当に愛している国民でなければ、真に人類を愛する人になれる筈はない。夫々の国家を平和にならしむることができなければ、世界を平和にすることは出来ない。例えば日本の国が平和にならなかったら、全世界は戦争になってしまいます。あのヴェトナム一国でもそこに平和がないために、どれだけ全世界が戦争の危機にさらされているかわからないのです。ヴェトナム一国でもそうなのです。ヴェトナムの国のような工業力もあまりない国でも、これが共産化するかどうかというので全世界が戦争の危機に追い込まれるぐらい重大な問題となる。まして日本が共産化しようということになったら、一体どうなるのか? 世界はたちまち戦争になります。全人類は戦争の淵に直面しなければならない。だから日本を平和にし、日本を愛し、日本を本当に素晴らしくし、日本が共産化することからまもるということは、世界を平和に保つことになる訳であります。なるほど隣りの中国を豊かにしてやるのもいいことかもしれない。けれども、その前に吾々は、祖国を豊かにし立派にし、確固不動の平和国家としなげればならない義務がある。その使命を帯びている人が日本に生れて日本人と呼ばれるのである。日本人は、中国を良くするために生み出されてここに配属ざれているのではない。やっぱり日本人は日本を良くするために、日本を本当に「神の国」にするためにこの地上の、日本国の中に産み出されてきている人々である。そうとしか考えられない。だから私達はまず日本を平和にし、政治的に安定させなければならないと、声を大にして叫ぶのです。そして日本を安定させる道は、吾々が中立化したりあるいは共産化したりすることではないということを知らなければならないのであります。どうしてか? 無防備中立主義の国が安全であるという保障がどこにも無いからです。
4 中立と独立と軍備
無防備中立主義が安全であったという証拠がどこかにあっただろうか。それどころか、その反対の事実が沢山出てきている。今インドでは核兵器をもとうかという議論が非常にしきりに起っている。何故かというと、インドは中立主義国で非同盟主義国で、中共を非常に支持した国であるけれども、中共から侵略されて非常な危機に直面した。そして中共では核兵器をもっている。だから我々も持たなければならないのではないかという論議です。しかもインドには兵力があったから少しでも中共の侵略をくいとめることが出来た。無防備だったらどういうことになるか。安全でありうるだろうか、もし中立主義国であれば中共が大いにその独立を尊重してくれるというのなら、インドみたいに中共に誠実であった中立国をこそ中共は支持しなければならなかった筈であり、その独立を尊重しなければならなかった筈である。ところがそうではなかった。民族自立についても同じことが言える。共産主義国は民族に独立を与えてくれると考えるおろかな人々もいるが、現実は決してそうではない。内蒙古は独立しているが、内蒙古は現に中共の領土に編入されていて、独立は与えられていない。この現実をどういうふうに見るか。これは民族自立を共産主義国は決してゆるしてはいないということを証明しているのであります。その他中共の辺境には沢山の少数民族が住んでいるが、みんな彼らは独立させられていない。ソ連に於ても又しかりであって、少数民族を独立させないのは彼等の政治的な常套手段である。だから私達は無防備で中立状態で民族が結合していたら独立が保障されるなんて、そんな甘いことを考えたらいけないのです。そうじゃなくてもっと日本を愛し、日本を守る精神が職別であり、素晴らしい愛国心をもって国民が一致団結している時に、そこに自からなる自衛カがあらわれてきて、当然持つべき軍備は持ち、守るべき国を守る精神があらわれてきて、そこに適当な国と国との集団保障も行なわれて、はじめて独立が達成されるということになるのであります。そもそも神様の世界に於てば軍備はないというふうに考えたら間違いである。神様の世界には「侵し難い威厳」が備わっていて、その威厳が現実世界においてはある種の「軍」としてあらわれてくるのであります。神様の世界には侵し難いものがあるのである。神様の世界は決して組しやすく、妥協しやすく、軽蔑しやすいものではない。そこには尊厳なものが厳然としてある。その尊厳さがある種の「力」として、侵し難いカとしてあらわれて来るのです。それが国家において「軍」という形になるのであります。
5 安保条約と平和
現実世界のすべての生物の在り方がそうであります。例えば人間個人の生命が真に正しく自立し、本当に侵し難い尊厳さをもつときには、そこには必然的に自衛的なすばらしさが傭ってくるのです。皮膚は強固に丈夫になり、白血球、赤血球はすばらしく機能を発揮し、骨も丈夫であり、凡てに於いて均衡がとれた発達をするのであります。牛が立派に育った時でも、牛は牛なりにやはり立派な皮層を持ち、鼻をもち、角まで立派になるのである。そこに「自衛力」があらわれて来ます。そういうことを考えてみると、今の状態のままで日本が中立化したり、無防備化したりしては駄目だと結論せざるを得ないのであり、それ故に安保条約の問題でも、今の状態では持たなければならない。「安保条約は必要である」と主張する。そして中共寄りの政策をとるよりは自由主義陣営の一員としての自覚をもち、日本は日本独自の素晴らしさを発揮し、真に独立因らしい個性的精神をもって世界平和に貢献しなければならないのであります。更に又言うべきことは堂々と言い、示すべき道徳的規範はしっかりとこれを示すことが大切であり、かくすることによって始めて日本は世界に対しすぐれた、精神的な指導原理を与えることが出来るのです。日本は世界の霊的指導的役割を果すことが出来るのである。これが日本の進むべき道であると信じます。どうかそういう意味で皆さんも生政連活動の神髄は「神様の御心にある日本の理念を地上に実現することであり、神意を地上に顕現することである」という自覚をもって、多くの人々に真理をすすめ、同志を糾合していただきたいと思うのであります。
五、何が人生の目的か
1 人生の目的
ところで少々話が変りますが、或る日のラジオを聞いていたら「青年の深夜族の生態」という放送をしておりました。録音構成でしたが深夜族が午前零時頃たむろしてどういうことを考え、どういうことをやっているかというようなことを内容としたものでした。彼等は原宿の神宮前のとおりにタムロするようになったらしい。私はこのすぐ近くに住んでいるんですけれども、そういう「原宿族」というものが出来たことをラジオを聞いてはじめて知った。彼らは夜の十二時頃になるとそこへ何の目的もなく集って来るんだそうです。そして何の目的もなくボンヤリとしてそこへ集って来る人を観察し合ったりして友達になり、何かいい事はないだろうか、面白いスリルはないだろうかと網を張っているのだということです。彼等が口々に言うのは、結局自分達には目的がないということであります。何の為に吾々はこうして生きているのか、何のために勉強して、何の為に職業について、何が故にこうして生きているのかわからない。人生の目的というものが、崇高な目的どころか卑近な目的もない。その為に快楽的、刹那的な生活に陥っているというのがラジオを通しての彼等の告白でした。そこで他人に迷惑を与えない範囲で勝手に自由なことをやっているのに何の文句があるか。夜何時だろうが自分が勝手に往来を歩いていて何が悪いか? というようなことが彼らの言い分であります。結局人生の意義を知らない為に、これら多くの青少年は非常に迷っているのである。日本中の多くの青年はこうして苦しんでおり、悩んでいるということが出来るのであります。 これは人々に、人間というものの正しい把握が出来ていないからである。 「人間とは何であるか」 「人生の目的とは何であるか」ということを知らないから、こういうことになるのであって、こういう青年達を善導して立派な社会人に仕立てていくためには、どんなに知恵をしぼって、どんな法律を制定してみても、政治だけの力ではどうにもならないと思うのです。それは彼らに「人間とは何であるか」「人生の目的は何であるか」ということをわからせてあげる他仕方がない。 「政治」は非常に大切であります。政治が乱れることによって人民がどんなに悩み苦しむかわからない。それ故政治の姿勢を正して、吾々は一致協力し素晴らしい天国のような日本をつくらなければならない。しかし天国というものは、単なる囲いや、環境や設備ではないのであって、そこに住んでいる人々が本当に「天人の心」になっていなければ天国とはならないのです。私達の住んでいるこの社会を見ても、設備は色々備わっているけれども、そこに住んでいる人々の心がさもしいために、まるで地獄のようになっているところが沢山あります。
2 間違った目的
設備や環境以上にもっと重大な問題があるのであって、これを決定するのは「心」の問題であり、人生観の問題であります。それは原宿という設備や環境がととのっている所にも、虚無的な青年がたむろしているところを見ても分るのです。ソ連や中共などの共産主義国が理想的な搾取のない世界を建設しようというスローガンを掲げて革命を起してつくられた。彼らの目的とするところは良かったようであります。しかし、結果としては大して立派な国が出来ていない。「理想国家」なんかとはほど遠いものであって、寧ろ自由主義国の方がよっぽど気が利いていて立派な社会である面が多いのです。このことは現在ではもう世界の多くの識者の共通した見解であり、共産主義はもはや過去の産物になったという結論が出ているのであります。しかるに日本の社会に於ては共産主義がまだ大手を振ってまかり通っている。何故か? これは少くとも彼等の主張が人生にある種の目的を与える力をもっているからなのであります。あるいは、過激な新興宗教がある種の人々の支持を得ているのも、どうして生きていったら良いかわからない人達にある種の目的を与えるからであります。とにかくその目的が間違っているか正しいかというよりも、とにかく何らかの目的を与えている。そうすると「生き甲斐」がそういう人達に出てくるのである。しかし間違った目的が与えられると、人々は不幸になる。彼らに間違った目的が与えられ、間違った思想が与えられたということは、正しい思想や目的を与えるということに於て、吾々が怠慢であったことの責任を感じなければならない。何が正しく何が間違っているかを知った者がその真理や悟りをひとり自分の胸の中に収めておいて、それを周囲の人々に伝えることに怠慢であり、利己主義であったのではあるまいか? 余りにも自分の殻の中に閉じこもって、それを大衆に訴えなかった、ということを反省しなければならない。
3 個人と人類
よく信仰は個人の問題であるということをいう人がおりますが、決してそうではない。大体、純粋に個人の問題なんてものはあり得ないのです。人間は個人ではないからです。個人では人間は生きられない。どこにたった一人で生きている人がありますか。木の股から生れてきたような人間はどこにもいない。皆んな父があり母がありそして兄弟があり子があり、人々は凡てそういう人達の生命の中で生かされているのであります。あるいは更にその周囲に多くの人々がいて、そういう人達が衣服を作り、食料を供給し、家を建ててくれ、お医者さんがいたり、鉄道員がいたりして、いろんな便利を供与してくれるから、吾々はこうして生きることができるのです。そういう多くの人々のことを考えることなく、個人だけのしあわせを追求しても、それは不可能であるといわなげればなりません。従って、信仰生活に於ても、決して個人の幸福の追求だけでは、正信を得ることは出来ないのです。昔からお釈伽様は仏に到る道として、声聞縁覚菩薩仏ということを言っておられた。即ち吾々は菩薩行をしなければならない。多くの人々に道を伝え、正しい生き方を伝えていかなければ、仏にはなれないという。周囲の人々に深切をし愛を与えていかなければならないと説いていらっしゃるのであります。そこで当然生長の家の運動は、社会的な広大な役割を果さなければならないのであって、生長の家ははじめっから「人類光明化運動」ということを標傍しております。個人的な光明化運動などというものはない。私だけの光明化運動なんていうのは、聞いたことがない。が、かくの如くして人類を光明化する際に自分が迷妄のどん底にいるのでは光明化が出来る道理がない。そこで当然自分自身も光明化しなければならないし、実をいうと自分自身というものが「人類」なのであります。自分自身の中に人類があり、人類の中に自分があるのである。人類といっても、自分といっても、畢竟それは同じです。このことがわかってこないと、本当の信仰活動ができないし、正しい政治活動も出来はしないのです。
4 目的と手段
ところが、吾々が現実の政治を考えてみるとき、屢々現実の政治が行き詰って乱れていると言われるが、その原因は何かというと、やはり人々が「本当の人間」をつかまえていないからであると言わざるを得ない。人間を動物の一種であるかのように錯覚している。人々は人間の肉体面だけをつかまえている。そして政治家は人間を肉体的に喜ばせたらそれでいいかの如くに考えているのである。人々も又人間の肉体が死んでしまったらそれでもう、その人はいなくなるかの如くに考えている。これではいくら良い政治をしようとしても出来はしない。唯物論から本当のいい政治が出て来る道理がない。唯物論の考えをもっている場合はマルクス主義にしろ機械的な人間動物の唯物論にしろ、人間というものは生きている間が花であるから、生きている間に面白い目をして楽しい目をしてインチキくらい少々やってうまいものを喰って、うまいところに寝て倖せな生活を送ったらそれでいいと考えてしまう。あとは灰になってしまってからブツブツ文句をいったって、ちっともこたえないぞという考え方が先に立ってきます。だから政治家の行ないが乱れて、インチキをやることが平気になる。悪いことでも人にかくれてやってしまったらそれで良いということになってきて、どうしても政治は乱れ、社会は乱れていきます。目的のためには手段を選ばないということになる。目的さえ達してしまったらあとは構わんというようなことになっていくわけであります。 しかしそれでは駄目なのです。人間は永遠の生命を持っている「神の子」である、あるいは「仏」であるということがわからないと、本当の人間としての生き甲斐はないし、又善い事を真剣にやろうという気にはならないのです。私達はそういう意味でまず人間というものはどんなに素晴らしいものであるかを多くの人々に知らせてあげ、その素晴らしい人間が神様の国のような美しい世界に生活していくためにはどうしたら良いかを解明し、どうしたら多くの人々が一致協力して素晴らしい世界を建設していくことが出来るかということを具体的に探究していかなければならないのであります。
六、神は沈黙しておられるか
一 宗教と政治の限界
谷口雅春先生は「宗教とは生きることである」と書いていらっしゃいます。宗教生活というものは何もこう手を合せて拝むことだけが宗教生活じゃない。「本当に生きること」 「永遠の生命を生きることである」と言える。「永遠の生命」を生きるのが宗教である。だから人間が本当に生きるためには、個人的に生きるばかりじゃなく、国家的にも、正しく生きなければならないのであります。たしかに宗教は政治に関与すべきではないとか、あるいは政治は宗教に干渉すべきでないというような考え方もありますし、あるいは宗教は政治が救済し残したところのものを救済するのであるというように、政治と宗教を分離して考える考え方もありますが、これは本当ではないと思うのです。そればかりが宗教のカテゴリーではない。そのように限定すべきものではないと思う。何故なら政治が正しく真理を実践していく為には、どうしても政治家が正しい人生観を持たなげればならないし、多くの民衆が正しい人生観を持ってこなければならない。そしてその正しい人生観の窮極は宗教的な信条にならざるを得ないからであります。 私はかつて劇団「雲」から招待状をいただいて「黄金の国」という劇を見たことがあります。 「雲」というのは文学座から別れた新しい人達の劇団です。「黄金の国」というのは芥川比呂志氏の演出で遠藤周作氏の書いた脚本であります。この劇はキリシタンが迫害された時のものであって、キリシタンが徳川時代に幕府から迫害され、長崎で僅か一人のポルトガル人の司祭が隠れていて、百姓達や武士達のキリシタン達に教えを伝えている。それが最後に密告されて捕えられるのです。フェレイラというこの司祭はこうして捕えられて色々と拷問をうける。穴吊りの刑というのに処せられて、穴の中に入れられて逆吊りにされるのです。しかし逆にしただけでは血が頭にのぼって死ぬ恐れがあるから、急に死なぬように耳のところに穴をあけて、そこからタラタラと血を流させるというような激しい刑罰です。 何故そういう刑罰を行なったかというと結局当時の政治家がキリシタンは日本の国に合わないと考えたからであります。日本の国に何故合わないかというと井上筑後守という役人がキリシタンの取り締りをやるのであるけれども、彼がいうのには「自分はかつてキリシタンを信じたことがあったけれども、キリシタンの教えは仲々良いところもあるが、しかし日本の国にはふさわしくないのである。だから日本の国にふさわしくない種を蒔いてもらいたくないから迫害をする。それを日本の土から引き抜くのが吾々の役目である」というのです。
2 踏み絵
こういう物の考え方は日本にはいくらもあった。明治維新に於ても、日本が西洋文明を取り入れるときには、西洋文明の基礎にあるキリスト教を除外して取り入れた。あるいはもっと昔の、仏教渡来当時にも、それに似た迫害があった。真の日本の心は本当は非常に包容力の豊かな精神なのでありますけれども、時々そういうふうにして排斥することもある。吸収と排斥とが不思議に混淆する。何故排斥をするかというと、一方では外国のものをむやみやたらと崇拝する人物が出てくると、その反動で排斥をする。外国のものであれば何でもいい、イワシの頭でも外国のものだといったら三拝九拝するというおろかな人間が出て参ります。それが一方では外国に対しての非常な反撥を惹き起す。そういうようなことが歴史的に繰り返されてきているのであります。けれども、キリシタンが迫害された時、キリシタンを信じている人達の多くは絶対に信仰をまげないといって頑張った。そこで役人達は踏み絵をさせた。キリステの顔を書いた板の上を踏ませるのです,踏んだ人はキリシタンでないといって釈放してやる。形だけでいいから踏めといってすすめるが、信仰深い人は仲々踏まない。私はどんなことがあっても、どんなに拷問をされても踏みませんという百姓や武士達が出てくるのです。そのやり方で捕えたフェレイラというポルトガル人の司祭を逆吊りにして「お前が転向して宗教を変えたら、キリシタンの日本人の百姓や武士達が捕えられ拷聞されているのを許してやる」といって責めるのです。その他雲仙温泉の熱湯をかける刑などを考え出して、熱湯をキリスト教の信者や司祭にかけたらしい。一度にザプッとかけたら死んでしまうから、ボツボツかける。湯桶に穴をあけておいて、そこからテョロチョロとお湯を流してかけて行く。その苦しみを司祭にもみせる。そして「お前が転向したら、これらの者達を許してやる」と責め上げるのであります。 これを見てフェレイラというポルトガル人の司祭は真剣に祈るのです。 「神様!どうしてあなたは私達にこんな激しい試錬を与えるのか。神様、あなたはこういう時に一言も私の祈りに答えてくれないのですか。どうしてキリストは私にはっきりと行くべき道を教えてくれないのか。神様がいらっしゃるのなら、どうして私の祈りに答えて下さらないのですか。何のために、こんな苦しみを、あなたはあなたの信者達に与えるのか!」といって痛切に煩悶する。その煩悶している時に、彼はある一人の女が、彼女の恋人が拷問されて踏み絵を踏まされるという瞬間に、彼女が「私を踏んで下さい。このキリスト様を踏まないで私をかわりに踏んで下さい」といって踏み絵の上に身を投げかけてかばうのを見る。その姿をみて司祭は「ああ悪かった」と気づく。「今までキリストは私に一言もおっしゃって下さらないと思っていたけれども、キリストは、お前達がわしの顔を踏んで救われるのならいくらでも踏むが良いのだよとおっしゃっているのだ。愛のキリストはそういって私達に語りかけておられるのではないか!」と、その時はじめてキリストの心は「お前達が自分の顔を踏んでそれで救われるのならいくらでも踏んで良いのだよ」と、おっしゃっているのだと知るのです。そしてその司祭は自からすすんでキリストの絵を踏むのです。自分がこの踏み絵を踏むことによって多くの百姓や武士達が救われるのなら喜んで踏もうという気持になるのであります。
3 愛が本源である
この例は神様の声がどこにあるかということを暗示していると思うのです。神様は吾々に直接声をかけては下さらないが、神様は全ての人間をとおして語りかけていらっしゃる。吾々は神様の声を「神の子」の口をとおして聞くことが出来る。吾々は形式的な宗教を信じているのではない。だから吾々にとっては、そういう踏み絵みたいなことは起らないでしょう。しかし本当の神様の御心というのは「愛」なのです。苦しんでいるものを救うところの愛の神意であります。だから宗教は形式じゃない。政治という形式や宗教という形式や、礼拝の形式がどうのこうのという議論を通り越したところの、もっと深い「愛」が宗教の神髄であり、それが神様なのです。神様は形骸ではありません。御堂の中に入っているものが神ではない。ましていわんや板切れみたいなものが本物であるか似せ物であるかというようなことは全く問題外です。そんなものを通さなければ神様が礼拝されないとか、仏様を拝めないとかいうバカげたことはない。そんなものではなくてあらゆる形式を通り越したところの「愛」が神・仏なのであります。その愛を実践する方法として、宗教活動もあるし、いわゆる政治的な活動もあるのです。宗教活動も政治活動も同じ「愛」から出ている筈なのであります。もし同じところから出ていなげれば、インチキ宗教になり、あるいは汚れた政治になるだけである。宇宙に遍満している一なる絶対なる愛から生命が流れ出て、それが吾々の政治活動となり、宗教活動となってきたとき、初めてそこにホンモノが出現する。それが生長の家の運動であります。
4 愛と形式
それ故生長の家の運動は小さな政治の一分野としての運動であったり、宗教という一つの枠の中に閉じこめられている運動ではありません。が同時に現実の世界に於ては、その枠が時々必要になることがある。枠も形式もない、形のない本源の愛は、これこそ本モノでありますけれども、形がないだけではいけないのです。本来形式のないものが、ある種の姿をとらなければならないのです。ないだけでは「形をとれない」という一つの欠点をもっているに過ぎないのであって、そんなものは神様の万能の姿ではないからであります。 例えば、私達は何の着物をも必要としない尊い生命を持っている。しかし結婚式場なら結婚式場へ行くという時には、どんな信仰深い人でも、やっぱり礼服か、せめて背広くらいは着ていかなければならない。 「私は学があるのですぞ」といって丸裸で結婚式場へ行って、私は形式を無視しているのでございますというわけにもいかない。本当にその人が結婚する人を祝福してあげようと思ったならば、そこへ行く時には少々嫌であってもそれ相当のモーニングかなんかを着て行かなげれば、愛情を示すことにならない場合があるのです。 私達が国会に吾々の同志を送るというのも、名誉を得たいためでも、権力を得たいためでもありません。本当に吾々が考えている理想、谷口雅春先生が御示しになっている真理を、日本という国に正しく実現しようと思ったなら、そういう手続を踏まないことには、言葉が現実化していかないからであります。しかも代議士が一人や二人ではまことに少い。かつて「建国記念日」のことが国会で論議され、その日付がタナ上げされた問題のときも、吾々がもっと大きな力でもって平素からずうっと主張し続けてきていたならば、もっともっと早く実現したであろうと思われる。生長の家の婦人団体が立ち上って多くの国会議員を招聘して吾々の熱意を示したときに、多くの議員さん達は「去年こういう大会が開かれておったなら祝日法は去年の国会で通ったかもしれない」と言ったという。これはやはり「多くの人達の結集した方」というものがどうしても必要であることを如実に示しているのです。そこで生政連としては、次の二つの方向をとらざるを得ないことになるのであります。
七、 日本の根本は何か
1 吾々の目的
一つは政治の分野に吾々の代表を多数送らなければならないということ、活発な政治活動を強力に展開するということであります。 もう一つは吾々の政治的代表の基礎となっているところの同志を一人でも沢山獲得して、団結を強固にし、吾々の正しい信仰に基づいた主張を生活し、それをさらに多くの国民大衆に伝えていくということであります。即ち同志の数を(誌友を)殖やすということであります。こうして同志の数をふやすためには、平素から私達は政治活動以外の信仰活動の分野に於て、生長の家を理解する人々をあらゆる階層に弘めていかなければならないのであります。そして又政治活動に於ても大いに目を開き、私達は団結して沢山の同志を国会や地方議会に送り出していく必要がある。これらの人々はいい加減なくだらない“便乗者”では駄目であります。票をねらってくる魚のような者は排除して、本当に正しく真理を理解し、把握しているところの“同志”を政界に送り出していかなげればならないと思うのです。
2 日本の霊
さて先程申しあげた「黄金の国」という劇は、あれで終りになるのではなく、最後は悲劇的に終結するのです。即ち、ごく簡単にその筋をいうと、フェレイラという司祭がかくの如くして転向して踏み絵を踏むことによって、次には「教えを失ったもの」となり、今度は皆んなから迫害され、軽蔑される運命となる。彼自身も精神的に,堕落して、日本の役人から利用され、ついにキリスト教の信仰の間違いを指摘する書物を強制的に書かされる。しかも日本人の未亡人と子供とを引き受けさせられ、無理矢理に結婚させられ、名前も忠庵と日本名に改めさせられ、下っ端の役人としての生活を送るようになるのであります。つまり彼が踏み絵をするときの心は確かに真実であったかもしれないが、それから後の一生は、彼が一つの信仰を失ったという形式の衣を脱いだことによって起る堕落が、その司祭のもとをおとずれるのであります。これは信仰生活上で、非常に注意しなければならないことがらです。たしかに仏教もキリスト教もすばらしいことを説している。だからどっちへききに行ったって同じようなものだというふうに、フラフラフラフラしている人は、本当の信仰をもっていないといって差支えない。生長の家は万教帰一だから、どこの教えをききに行ったっていいじゃないかというようなわけにはいかない。それは神様の「無相の愛」を理解しているようであって、実はそうではなく堕落の道を歩んでいるということになっている場合が多い。どうしてかというと、一つの宗教運動には霊的な大きな強力な支援が行なわれているからです。これから外れることによって、その人間は孤立化し、無カとなり、布教者のような立場にあった人であってもその大きな霊的な団結の波から外れては無力化されるのであります。そういう意味で私達の運動は、ただ単に現実世界の眼に見える運動だけではないところの霊界からの運動であるということを十分知っておかなければなりません。 私達が布教活動をする場合、私達の肉眼の目に見る姿だけの布教活動ではなく、大いなる指導霊が吾々を援護していて下さるということを知ったならば、吾々の生長の家の運動が日本人の御祖先のすぐれた霊魂と密接に結び着いた一大国民運動であるということもよく判る筈であります。何故生長の家の運動が吾々の日本人の祖先の霊魂と結び付いている運動かというと、生長の家がはじめて「日本の魂」を解明することに成功したからであります。日本という国が建国された理想がどこにあるということを、本当に正しく説く教えは生長の家以外にないからです。日本の祖先が血と汗で守り通してきたこの日本というものがどんな意義がある国か、又どんなに素晴らしいものであるか。この国土に於て私達が現実に享受している生活がどんなに深く祖先の愛念に依存しているかということを、私達は生長の家の教えをうけてはじめてハッキリと知らされた。それ故、吾々の祖先は、生長の家の運動の成果をじっと見守っていて下さるのです。さらに又生長の家の運動によって天皇陛下の本当の素晴らしさが判るのです。或る政党では日本の国に生れながら「天皇は日本の国民と無縁の存在である」というようなことを言うのです。又、左翼の宣伝によると、天皇は吾々を支配し搾取したところの敵であると言う。こういう愚かな人達は祖先伝来の歴史というものを全く理解していないのです。日本の国が過去から現在に至るまで天皇を抜きにして果して成立し得たかどうかということを考えてもいない。天皇を抜きにした日本が、今まで平和に続き得たかどうか。
3 天皇と世界
例えば嘉永六年のぺルリ来航から、慶応三年の大政奉還までの“明治維新”に於ても日本に天皇陛下がいらっしゃらなかったら、幕府と幕府勢力に反対した諸藩の争いは一体どういうところに落着いたであろうか。この点一つを考えてみても、天皇陛下がいらっしゃったからこそ大政奉還が出来たということが判るのでず。幕府といえども本来は天皇から、大政を委託されて政治を行なってきた、その本質を理解して大政を奉還してもよろしいということになり、ようやく日本の平和が実現したのです。もしあの時天皇陛下がいらっしゃらなかったら、一体どんな結果が起ったであろうか。おそらく国内は分裂したでしょう。というのは、丁度あの頃は植民地主義万能時代で、ヨーロッパ諸国は日本あるいは支那大陸に植民地政策を押し広めていた時でありイギリスはアヘン戦争で香港をうばい去った。イギリスに続いて、プランス、アメリ力が東洋に続々と軍隊を送っていた。ですから国内が分裂すればこれら諸外国の軍隊が日本の分裂した諸勢カと結託して、日本各地に上陸をするに違いない。そしてお互いに内乱状態を激化せしめて遂に日本は分割され、植民地化されるということにきまっているのです。日本は残念ながら永年の鎖国状態によって、極めて貧弱な武力しか待っていなかった。 そこで当然こんな状態になると、日本の独立は大きく侵されていたに違いない。大政奉還の一時期をとってみただけでも、既にこのとおりなのですから、過去の長い長い日本歴史において日本に天皇がいらっしゃらなかったとすれば、どんなに分裂し抗争したかわからないし、吾々の祖先がいらざるところに血を流して殺し会ったかわからない。吾々の祖先がこのような過程の中で死んでしまったとすれば、もう吾々はこの地上に今のような姿では出て来てはいないのです。あるいは過去の日本が分裂国家になっていたとすれば、支那大陸よりももっと文明の発達の遅れていた過去の日本のことですから、もし分裂して諸外国の植民地状態になっていたとしたら、今の日本の繁栄は絶対にあり得ないことはたしかである。今の日本がありえないだけでなく、全世界の歴史が変っていたであろうことも断言出乗るのです。日本は第二次世界大戦、即ち大東亜戦争を戦う力もなかったかもしれないが、もしそうであればアジア、アフリカグループは依然として西欧植民地の桎梏下に喘いでいたにちがいない。何故なら大東亜戦争によって、これらアジア、アフリカの民族は解放されたからであります。かくして全世界が変貌してくるのです。天皇陛下がいらっしゃらないということは、全世界的な問題なのであって、決して「国民の生活と無縁」であったりするものではないと断言せざるを得ないのであります。
八、 『政治』と『信仰の自由』
1 愚かな政党に注意せよ
ところが現実の日本の政党ともあろうものが、そういう愚かな考え方をもって政権をねらっている。そういう政党に私達は政権を委ねて果して安全であり得るであろうか。日本の天皇を抹殺して吾々の生活と何等関係がない政治などがありうるか。そんなパなことば断じてない。ところがこんな愚かなことをいう人達に限って、とかく外国の真似をしたがる。日本外国のイデオロギーを無批判に植えつけようとする。こんなに立派に生長してきた日本を今さら革命し、解体して、どこかの国の真似をさせて、新参の見習い奉公みたいな国家にして、どこかの国の武器庫か弾薬庫みたいにしてしまって、日本が平和になり得るなどととぼけたことを考える。こんなバカげた政治家の集団に、私達は日本の政治を委ねる訳にはいかない。だから吾々はどうしても私達の意見を多くの国民に呼びかけ、多くの国民の中にねむっているところの「日本人としての魂」を揺り覚さなければならないのです。日本人は全て本来天皇を守り育ててきた祖先の血を受けついでいる国民であります。だから吾々国民の心中には、日本国の理想を守ろうとする心が宿っているのであります。すでに実在している。それを偏向教育や色んな文化人の発言でねじ曲げているから、今のような戯けた議論も出てくるということになる。とんでもない政党が出現して、政治を骨抜きにしようとしたりする。なるほど宗教的信条を政治から分離して、人間をサルの群のように低俗化したら、統治しやすいかもしれない。しかしそれでは、動物園のような国が出来てどこかの人間か“遠隔操縦”されるのがせきのやまでありましょう。
2 政治の圧迫
大体人間の社会から信仰や信条をとりさることが出来るものではないのであります。イデオロギーだって、一種の信仰である。その信仰だけは政治にのさばり出て、あとの信仰はひっこんでおれなどと言えた義理でしょうか? もし、政治と宗教とは「別だ」というなら、政治が宗教に関与しないという約束が政治の方で出来るであろうか。出来やしない。現に政治体制が変って共産主義国の如きものになりますと、もう信仰は弾圧されて自由はない。自由に信仰してそれを人々に信じさせるために説得することに出来なくなってしまう。社会党の議員や共産党の議員がソ連や中共に行って信仰の自由が許されているなどといいますが、あれは大ウソです。なるほど信仰は許されているというけれど、あれは表面的な一つの見せ物としての信仰が許されている丈であって、内容は本当の信仰でも何でもない。単に「礼拝の自由が許されている」に過ぎないのです。礼拝の自由が許されているということは、ある残された僅かばかりのみすぼらしい寺院に行って礼拝して、本尊を拝むことが許されるというだけである。礼拝することは許されているけれども、説教者が神様とはどういうものであるか、本当の信仰とはどういうものであるか、物質と神様との関係はどういうものであるか、というようなことを説明出来ないのです。それはマルクス・レーニン主義に反するからであるという。それでも信仰の自由はあると彼らは宣伝する。けれども正しい信仰や神様についての論文を自由に書くことは出来ないのです。あるいは唯物論が間違っておっても唯物論を非難することも出来なくて、ただ形式的に拝むだけが許されている。心の奥底で祈るのみ。それだけのことが、どうして「信仰の自由」といえるか。人間が心の中で思うこと、つぶやくことぐらいは、どんな奴隷社会だって出来ます。それはいくら禁止したって、禁止のしようがない。心の中で「神様、私は神様を信じています」とつぶやいたって、それを法律でどうやって止めることが出来ますか? そんなことを止めさせる手段はありはしない。そんなことが自由に出来るだけが信仰の自由でもなんでもないのです。信仰の自由というのは、自分の信仰を人々に伝道する自由がなければならない。そして間違っている考え、神を否定する考えに対して、それに反駁する自由がなければならないのです。それが現代の共産主義国では許されていないではないか。それならばそんなところに「信仰の自由」なんてありはしないのです。即ち「政治」が「宗教」を大いに圧迫していると言ってよろしいのです。だから「政治」が「宗教」に関与しているというのです。 一方日本に於てはたしかに現在は信仰の自由が許されている。しかしもし、日本が共産革命してしまえば、あるいは共産主義の方へ少しずつ近づいていったり、公明党みたいな政党が天下を取るようにでもなっていけば「自由な信仰」というものは難かしくなっていくにちがいない。そしていざ革命的政権が出来上ってきたときには、諸諸の信仰が禁止されるということは明らかな事である。かくの如く政治だけがどうして宗教を圧迫することが出来て、宗教は自己防衛出来ないというのであろうか。そんなバカなことはない。しかもそうやって信仰を圧迫して出来た国が「天国」のようになるのならいざしらず、本当に皆んなが楽しく愉快に自由にのびのびと「神の子人間」の生活を謳歌することが出来るのならいざしらず、そこに於ては自由な意見や発表や、あるいは作品の自由な発表も出来ない有様である。 中共の郭沫若という文人も自己批判したなんていっておりましたが、左翼文化人は自己批判を彼が自分から進んでやったように言っておりますが、誰も強制されてやったなんて発表出来ない国柄であるからそういう他仕方がないけです。秦の始皇帝のことを書いた郭沫若の作品がありますが、秦の始皇帝が昔焚書というのをやった。焚書というのは書物を焼き払うことです。自分の思想に反対の書物や、自分の政治権力行使に不都合な書物を焼き払わせたあの始皇帝のことを題材にして彼は、始皇帝が死ぬときに「自分のやった最大の誤ちは焚書である。書物を焼き払わせて思想統制をやったことはあやまちである。これがわしの一番の失敗であった。もう二度とそういうことのない世界がきっと訪れることは違いない」と言わしめているのであります。 そういうことを書くことは結局毛沢東なんかの御機嫌にふれるわけである。思想統制をやり、毛沢東主義で一色にぬりつぶそうという中共の政策に対して、その反対の思想統制のない世界が出てくるにちがいないという作品が許される道理はない。毛一派は自分の意志に反する批判勢力の一掃にのり出した。その傾向をいちはやく察知して、オポチュニストの郭沫若は、うまいこと自己批判をやり、自分の全生涯の作品は全部これを焼き払うべきものであったというようなことを言った。しかし人間が全生涯四十年の間書きつづけてきたことが全部間違っておったというようなことを、そう易々と強制的に告白させられなければならないような、そんな社会にいて、木当に吾吾は真埋を求めることが出来るであろうか。断じで出来はしない筈です。しかるに現に中共では、紅衛兵まで使ってムリヤリ毛思想の強制が行なわれ、まるで狂気のような有様であります。だから私達はそういう社会を実現するのに一歩でも日本を近づけてはならないというのです。一歩近づけたら二歩三歩とよろめいていくのが現象人間の弱さである。だから「少しくらいは良かろう」と思って妥協してはならない。そこに大きな陥穴があります。
九、 日本は重大な問題をかかえている
1 積極中立とは
例えば「積極中立」というのなら共産主義と違うんだからこれは良かろうと思ったりする。日本の現在の憲法を護って「積極中立」でいくのなら良かろうというような考えを持つ人も沢山おります。しかし一体積極中立なんて可能かどうか。彼等の言うころによると自衛隊は解散し、日米安保条約は破棄して、アメリカ軍は帰ってもらうのだという。 「アメリカ帝国主義は日中共同の敵である」というわけで断然帰ってもらうという。これを称して“積極中立”といっておりますけれども、しかしもしアメリカが本当に「帝国主義者」で本当の残虐な資本主義の野望に燃えるところの敵であるならば「帰ってくれ」と言われて「ハイ、さようなら」とサッサと帰るようなものである筈がない。「もうあなたは必要でないですから、さあ帰って下さい」と言われてサッサと帰るような者が「帝国主義者」であったら、何も中共さんも苦労しなくてよい。これくらいのことはわかりそうなものである。 そこで“米帝”を追い出すためには、どんな血みどろな戦いをしなければいけないかということくらいわかりそうなものである。でも一体、どうやって戦えというのか。素手で米国の強大な軍隊と闘えというのが“積極中立”なのか。それがどうして「平和憲法」なのであろうか。大体アメリカという国は味方としてついたら栢当強力な武器を待っている国でしかもネバリ強さがありますけれどもし、敵にまわして戦うと、これ又大変な物質力もあるし、色んな意味で国力が豊かでありますから、非常に難かしい。第二次世界大戦時に日本が何故負けたか考えてみたらわかる。吾々はアメリカを敵として戦い、日本の船は米国の潜水艦やら航空機にさんざんやられて沈没した。かくて太平洋上に日本は孤立してしまってどこからも資源をもってくることが出来なくなってしまった。これが敗戦の主なる原因であると考えなければならない。日本の忠勇な軍人達も各孤島に孤立してしまっては手も足も出ず、遂に餓死寸前に到った。結局太平洋という海をアメリカが制圧してしまったから負けたのです。ところが今吾々がアメリ力帝国主義を追い出そうとして戦うとするでしょう。そうしたらアメリカはそう易々と帰りはしない。 「左様でございますか、それでは又来ますね」なんて具合に帰りはしません。もし素直に帰るなら、それは共産党や社会党のいうような「米帝国主義」なんてものはなかったことになる。アメリカが帝国主義でなければ、日本にいくら基地があったって困りはしない。「アメ公帰れ」という文句がおかしいことになる。もしアメリガが帝国主義者ということが本当であるならば、絶対にアメリカは日本の基地を手離さないでしょう。それを無理矢理に押しのける為には、吾々単独では出来ないということになるのに決っている。だから当然、必ず、どうしても共産主義国の援助を求める。左翼陣営は平素から共産主義陣営に色目ばかり使って、そうでなくとも何とかして力を借りよう借りようとしているのですから、そういう時には共産側の言いなり放題になるにきまっている。そうすると日本は「中立主義」どころか、共産陣営と密接に結び付いて米帝国主義を追い出さなければならないということになるのであります。これが“積極中立”ということの実体であります。しかし米国はそう簡単には追い出せません。見事追い出す前に、東西両陣営の血生ぐさい第三次世界大戦が起るに違いない。“積極中立”あるいは「日米安保条約を廃棄して米国を撤退させる」ということは、一種の空念仏にすぎません。そうでなげれば「第三次大戦」そのものと同義であります。
2 日本はどこへ行く
又もし吾々が本当にアメリカと敵対関係に立ったとしたら、吾々の前に立ちはだかるのは大戦争です。その結果どうなるかというと、吾々は中共やソ連や北朝鮮と同盟関係に入らなければならないことになる。そして今の日本の政権は打倒されて、野党の連立政権か又は革命政権になってしまうはずであります。そうした時に、果して本当の「中立」が出来るか? 絶対に出来やしないのです。かりに万が一実際に戦って米国を追い出したとしても、アメリカ軍を奇襲戦法かなんかで追い出すことが出来たとしても、アメリカはその時日本を敵として断固戦う決意を固めるでしょう。そうすると日本は経済封鎖をうける、丁度第二次世界大戦末期に吾々が経験したことを繰返さなければならなくなる。日本に生れた野党連合政権かあるいは共産政権が、いくら中国大陸や南方から物資を運んでこようとしても、いろんな食料や、鉄鉱石や石油やらを運んで来ようとしても、海上を封鎖されて手も足も出ないというようなことになる。一体日本は何の為に戦争をするかということになってくる。又、吾々が万が一非常な苦しみを経て遂に成功したと仮定しても、吾々は中共の弟分として共産主義国のしんがりに編入されて、共産主義国の為に武器をつくり営々としてその生産力に奉仕する一種の工場国家になるだけの話である。命令された製品をつくり、命令された価格で売り渡すだけの、自主性のない隷属国家になるだけです。そこには信仰の自由も、思想の自由も、農業発展の自由もない。共産主義国で農業が発展した事実が一国もないのですから。農業問題に成功した国が共産主義国には一国もないということは一体何を意味しているか。農業問題を解決出来なくてどうして国民を幸福にし、飢えさせないようにすることが出来るか。出来る筈がないではないか。つまりそれは政治のイロハに失敗したということを意味しているのであります。このようなことを考えてみると私達は、どうしても中立主義、中立主義というけれども、実際には実現不可能であることがわかる訳です。現に中立主義になって、現在の憲法のように武装を放棄したままで、どこの国からも同盟や安全保障条約で守られないということになり、無防備ということになると、「日本は安全だ」という保障はどこにもないではありませんか。 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と現行憲法の前文にはうたってあるけれども「わしの国を守るのとわしの国の生存は皆さんに御願いします。よろしく頼みますよ」と言ったって、それ程の信義がないのが今の国際社会であります。第一、自分の国の「生存」を他の国にまかせるなどという不見識な国が果して“独立国”といえるでしょうか。信義どころか不信義が横行している国際社会であります。 それを単に“積極的中立”などという美辞麗句で胡魔化そうとしても、不可能なことだ。こちらが“中立”をのぞんでも、誰もそれを保証してはくれないからである。その証拠に、スターリンは第十八回党大会で、中立は世界戦争をひきおこすと言っているし、毛沢東は「人民民主独裁論」の中で「垣根の上に坐ることが出来るか、出来はしない。第三の道はない。われわれは第三の道の思想と反対する。中国のみでなく全世界において、人々は常に帝国主義者の側か、社会主義者の側か、どちらかの側に立たなければならない。中立は単なるカムフラージュにすぎない」と言っているのであります。
3 民族を解放しない国
まことにも、国家的利益が醜いまでに渦巻いているのが現実の国家間の情勢であります。そこで日本国が無防備で、しかも思想的には非常にマルクス主義に近い考えを持っていて、しかも独立国として存在し得ると考えることは、全く夢物語であるということが判ります。万一そういうことになったとして、果して中共やソ連が日本の独立を保障してくれるかというと、そんなことは絶対にあり得ないのです。その証拠は沢山あります。例えば中立国であった筈のイソドを攻撃したのは中共であった。中立国あるいは非同盟主義国と言われていて非常に中共に対して親密な政策をとっていたネールを裏切った。だから今でもインドは中共に対して激怒しています。或いは又共産主義国が弱少民族に対してどんなにその民族的独立を圧迫しているかということを余りジャーナリズムは取り上げませんが、これは又大変なものであります。現在中共とソ連との間に非常に雪行きがおかしくなっていて色んな問題で争っておりますが、その原因の一つに両国の国境が不明確だという点があるのです。中共とソ連の間の長大な国境が明確ではない。何故明確でないかというと、ソ連と中共との国境の近くには少数民族が沢山住んでいるからであります。その少数民族の中にはソ連と中共とに分割されない前は、国内にしきりなんかなかった一国家であった民族も沢山ある。そんなところに国境が出来る筈がない。それを無理矢理しきりをこしらえようとするからソ連と中共は国境紛争をせざるを得ないのであります。そういう辺境地域に住んでいる民族をドンドン独立させたらよかろう。共産主義国が本当に心から民族自立に賛成しているのならばそうすべきである。しかしそれはやらないのです。自分の領土に編入したものは絶対に独立させないのが彼らのやり口である。チベットでもそうだし、ハンガリーもそうです。独立させないだけではなく、衛星状態にした国は、中立状態にさらにもっていかせない。それでいながら自由陣営の国に対しては民族解放などと宣伝する。実にバカバカしい口車にのって、もし吾々が彼らが積極的に吾々の中立を保障してくれるなんていうことを考えたら、大間違いをしでかすことになります。
4 民主的憲法とは
けれど本当にそういうことを知らないのか、それとも知っていてもわざとだまっているのか知らないけれども、日本を中立状態から共産主義陣営にひっぱろう、ひっぱろうとする人達が非常に沢山出てきている。そして彼等が一番先に考えることは、極めて日本の国民にアピールするような形で「平和を愛する」とかあるいは「原水爆に反対する」とか「中立状態にもっていく」とか「民族自立を本当にやるんだ」というような耳ざわりの良い言葉で自分の陣営の勢力をのばす為の宣伝をやる。その宣伝に易々とのっかってしまうというのが今の日本人の現状です。何故彼らの宣伝にのるかというと、根本的には「唯物論は間違っている」という信念がないからです。マルクス主義の根本は唯物論であります。唯物論では物質が精神をつくり出すとするし、神の存在を認めません。しかし国民の大多数には、この間違った思想で政治されても本当の幸福がこないという見通しが立たないのであります。何故なら日本人はいつの間にか神様を見失っている状態になっているからであります。日本人の大多数が唯物論であるから、唯物論のマルクス主義の欠陥に気がつかず、唯物論的平和主義の盲点を見抜くことが出来ない。 そこで吾々は唯神論的信仰であるところの「神こそすべてのすべて」というこの真理を徹底普及させていかなければならない。これが先ず第一の根本対策であると考えるのであります。神を否定して善はあり得ないし、幸福も見出せず、平和もあり得ない。ここのところがはっきりしておらないと、都合が良ければどんな政府が治めたって吾々は幸福になれるだろうと、安易な考えに陥るのであって、そこに唯物論者に乗ぜられるすきが出て来るのであります。彼等は又、二言目には現在の憲法を護ると言います。社会党、公明党、民社党はそういいますが、共産党はちがって「革命憲法」にしなければならぬと主張しております。この現在の憲法を護るということが非常に耳ざわり良く多くの国民に響くのであります。というのは占領状態のとき、吾々は民主主義が絶対であるかの如く宣伝され、その民主主義をもたらしたのがこの憲法であるのだというふうに宣伝され、その通りに信じたものでありますから、現在の憲法を護るという政党こそ吾々の民主主義を守ってくれるかの如く錯覚する。 ところが実を言うと現行憲法は本当の民主的憲法ではないということを多くの国民が知らないでいる。そもそも民主的憲法とはいかなる憲法であるかというと、その国の個性が盛られ、その国民自身の自由意志できめられた憲法でなければなりません。民主的な憲法というのは「自分のものは自分で決める」という筋が通っていなければ駄目なのです。ところが今の憲法は、前にもちょっとのべたように、日本が占領されている間にマッカーサーから英文の草案を示されて「この草案のとおりにつくらんと天皇の生命は保障出来ない。今共産主義諸国では天皇を処刑し天皇制を打破する計画をすすめているからこの草案をのまないと天皇制を全く抜きにした憲法草案が示されるぞ」と言われてその圧力のもとに、国会では形式的、自主的に決められたように装われて成立したのが、現在の日本国憲法であります。これはその成り立ちがそもそも民主的でなく押し付けであるから、民主的憲法とはいえないのです。さらに又自分の国が自分の意志で正当に決めた憲法でないということになると、どうしても永遠の日本の護るべき法ではなくなって来る。いわば占領法規であるというふうに考えなければならないのです。このことは現代では世界周知の専実なのであります。アメリカの国会でもしばしばそういうことが話題にのぼっていて、マクナマラ国防長官も「吾々が勧告した憲法である」ということを堂々と発表しております。ただ日本人だけがあれは本当に素晴らしい永遠不滅の“民主憲法”であるかの如く宣伝されて信じているだけなのであります。
十、日本を浄化する者は誰か
1 建国の連想
しかしながら本当はそうではない。だから私達は、占領中は占領法規によって治められなければならないとしても仕方がないけれども、占領が終って独立国となった暁には吾々がもとから持っていた憲法、即ち大日本帝国憲法に復原して、その木来の精神を生かしつつ、適当に改正しなければならないと主張しているのであります。けれども、憲法はその内容が一番問題であるという人もおります。大日大帝国憲法は余りにも古くさい、カビがはえている。あんなものは戦争の元締めみたいなものであるという人もいる。あるいは「押しつけられた憲法でも今の憲法は内容が良いから良い」という人もおります。 これは十分に憲法を読んでいない人にこういう意見が多い。しかし明治時代の憲法を一条一条良く読んでみると、好戦的なことはどこにも書かれていないのであって、極めて自由主義的、議会主義的な素晴らしい憲法なのであります。さらに現在の日本国憲法を読んでみますと、現憲法は翻訳調でつくられていて、全くの悪文であります。まあ文章の点は我慢するとしても、日本国独自の「建国の理想」がそこには正しく読み込まれていない。日本国は何を理想として建国されたかというと、神様の国をこの地上に実現するめだという理想をもって建国されたのであります。その神様の国というのは「永遠に変らない国」ということなのであります。永遠に変らない国であるならば中心も永遠に変らないところの万世一系でなければならないということになるでしょう。それが明治憲法では「万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と善きあらわされています。これは神の国の中心は神様の生命を受け継いでいるから侵すことの出来ない尊厳があるんだという日本国民の総意なのです。総意といったって投票した訳ではないのですが、それが日本国民の心の奥底からの願いなのであります。もしその願いが間違っていたり、そういう願いを持たなかったというのならば、とっくの昔に天皇は打倒されている筈です。二千年も三千年も続いてきていながら、天皇に武力も権力もなかった時代があったという歴史は、国民の「心」がそれを支持したとしか考えようがないではありませんか。そういう何千年の歴史を経ながら日本の天皇が吾々の中心的元首として守られてきたということは、実際に天皇は国民を愛し、国民は天皇を愛して神聖と認めて、理想的永遠国家を建設しようとしたからであるということが出来るのであります。
2 汝自らを知れ
それ故、吾々は、この日本建国の大理想を心にしっかりと刻印して、日本をして真実の「大和国」たらしめなければならないのであります。すべて永遠なるものは、永遠なる「理念」に裏づけられていなければなりません。外形をととのえ、物的に確固たる生活を得ようと思えば、先ず心中に正しき信仰と国家親とが打ち建てられなければならないのであります。ところが現代の日本はどうでしょうか。まるで「他人の心」で生活し「他人の頭」でものを考えているではありませんか。彼独自のものがどこにも見当らず、政治家はあたかも外国の代弁者になり下り、外国からの謀略放送に類似したようなことをロ走っている始末であります。かくの如き有様でいながら、吾吾は昭和四十五年を迎えようとしている。革新陣営はこの時とばかりに「安保条約破棄」を叫ぶのです。国民の大多数はどのような政治が日本のためになるかについての意見をもっていない。人々のいうがままに流れて行こうとしている有様です。一方保守陣営では、まことに下らない汚職が横行して、国民の心を離反せしめることに狂奔している現状であります。 これらはすべて、国民ならびに政治家が、何が真実であり、何をもって生活の中心となすべきかを知らないからであると言う他はない。 “唯物論”をもってしては、汚職や圧政を断じて絶滅し得ない、世界から戦争を追放することも不可能であるということを知らないでいるからであります。吾々は、声を大にして、今こそ一切の人々に真情を吐露してうったえなければならない。先ず「自らを知れ」と。そして「祖国の実相を知れ」と。この自覚が徹底したとき、国民はすべて「神の子」としての本心に立ちかえり、真に祖国を愛し、世界の平和を愛し、隣人を愛し、父を母を、そして妻を夫を愛する“真人”として、至福の大道を歩むにちがいないのであります。
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