生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第三十四話> (590)
日時:2013年03月24日 (日) 09時41分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第三十四話(通算第360話)

 
生命の謎・萬物は皆生きている <その四>



鉱物の生成発達と下等植物の生成発達の形式との類似

(『生命の謎』P.46−48)


<<次に鉱物が生きているという現象は鉱物の生成発達の経路状態が植物の成長現象に頗(すこぶ)る似ているということである。

金属の植物的生成(Metalic vegetation)という現象があるのであるが、それは鉛の様な金属の溶液が電気分解の作用を受けて樹枝状に結晶する現象である。

この実験は広い首の瓶(びん)に鉛のアセテートの酸溶液を満たし、その瓶にコルク栓を以って密栓する。コルクの栓より一本の銅線を吊りさげて置き、亜鉛の一片をそのワイヤーに結びつけて鉛の溶液のできるだけ中央部に垂らしておくのである。

すると銅線の周囲には直ちに苔(こけ)に似た姿で金属鉛の微粉が沈着してそれがだんだん成長するにつれて、大枝となり、小枝となり、段々それは樹枝状に展開して花咲く霧氷(むひょう)の様に美しき姿を呈するのである。これは他の金属溶液を用いてもできる場合がある。

 この様な現象は必ずしも金属に限ったことではなく窓ガラスに結晶する水蒸気の形が美しき樹の葉、枝、花等々の形に結晶することは人の知る所であるのである。

硝酸ソーダが電気の陰極陽極の作用を受けると蘭の形に似た結晶体を生成するということは多くの人の知っていることである。自然界には此れと類似の現象が幾多も見出されるのである。

 あるドイツの科学者が或る金属塩の溶液について実験したところによれば、それに鍍金(めっき)のために電流を通ずれば電池の陰極の周囲に小さい松茸(まつたけ)の様な形の結晶が生成されて次第にそれが成長して行くことを発見したといわれている。

その記録によると、この金属の茸(きのこ)は幹と傘とがあるのであって最初は透明な外観を呈していたのであるが、次第に色彩をおびてきて傘の中央部は真っ赤な美しい色となり、そこから漸次ぼかされて外の所は淡いローズ色になったということである。

然も興味があることは、この金属茸には幹の所に毛細管の様な通路ができていて、そこからその茸が成長するために必要な養分ともいうべきものが輸送されて茸の形が段々大きくなる様に細胞的組織が出来ていたと云うことである。

即ち、外から金属の微分子が付着して成生されるのではなく、内部から栄養によって成長することが全く植物性の蕈(きのこ)類の成長と同じなのである。

この実験の興味ある所は無機物たる金属茸の成長が、植物の低い種類の成長状態と近似の様式をとると云うことであって、そこに鉱物と植物との境の不可分の点や、下等植物の栄養組織の原型が金属の結晶体の成長に見出されるということである。>>




物質には知覚があり、生命がある

(『生命の謎』P.48−50)


<<更に再び物質の分子、原子の問題にかえる。生命なき所より生命は発生しないのであるから、物質(地殻)から生命(微生物等)が発生したというならば、物質の中に、生命がアンダーカーレントとして潜在しており、それが無機物に於いては微弱にしか現れていないが、(辛うじて精密な電気測定機械にて測り得るような程度の金属の知覚現象の減衰の如き)その組織が複雑になるにつれて、既にひそんでいた所の生命が尚一層完全に現れて来たのがいわゆる生命現象だということができるのである。

ここに水の一滴をとってみる。それを細かく分割していよいよ微細に分割して水の分子とする。更にこれを分割すれば水素と酸素に分割されて、水はなくなるのである。

酸素及び水素はともにガス体であって、水と異なる作用をもっているのである。それが互いに結合すれば、その作用に変化をおこすのである。

それは恰も男子と女子とが結合して夫婦となれば又別の作用を起すことと同じことなのである。なぜ男子と女子は結合するのであろうか。それは相手が異性であることを知り相手を好み相手を愛するからである。

そうすれば酸素が水素と結合するのは、酸素は相手が水素であることを「知り」相手を「好み」又「愛する」からであるのである。

それを吾々はたんに物理的な抽象的な言葉を以って化学的「親和力」又は「牽引力」といっているのである。

然しこれは吾々が物質を始めから「心」なきものと仮定して抽象的な名称を使ってその相引く力を形容したにすぎないのである。

吾々が水素ガスと酸素ガスとを同一容器に入れて白金の触媒を与えるならばそれはたちまち結合して水に変ずるのである。触媒には変化がおこらないが触媒がない場合には結合し難いのである。

丁度それは媒酌人がなければ結婚し難い男女の様にも見得るのである。

触媒となる白金には変化がおこらないからそれは白金そのものの化学的変化とはいうことが出来ないのであって、そこに水素と酸素との分子が、媒酌人たる白金が存在するということを知覚するのだということが出来るのである。

かくて色々の分子は或いは結合し、或いは分離し色々の物体を形成するのであるが、それは何(いづ)れも親和力と斥力との働きであってこれを精神的にみる時には「好き」と「嫌い」との問題であって、物質の分子にも知覚があり心があり、好き嫌いがあるのだと認めずにはいられないのである。・・・>>(つづく)






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