生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その16> =「生長の家」は誌友が助かるために出現した= (632) |
- 日時:2013年03月27日 (水) 14時46分
名前:信徒連合
開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その16>
=「生長の家」は誌友が助かるために出現した=
『生命の實相』第15巻・人生問答篇(P.123〜126)
野田:
聖典結集の計画はわたしも提議した一人ですから、せっかくお作りになった部数が売れないで余るようなことがあればわたしもまた責任を感ずるしだいでありますが、現在の確定読者に必ず一冊づつ割り当てるということになさってはいかがでございましょうか。創刊号から引き続いて読んでいる読者なら、いづれなんらか、魂の上に恩恵を受けている人でしょうから、この聖典結集の計画には賛助し幾分でもお助けするのが本当だと思います。
谷口:
わたしは誌友の方に、押しつけがましいことをいっさいしようとは思っていません。「生長の家」は誌友が助かるために出現したのであって、わたしの生活費が助かるために出現したのではないのですから、誌友が自分で進んで聖典を欲しいと申し込まれるのでなければ送ろうとは思いません。そうでないと義理に縛られて聖典をとるというようになられると「生長の家」で説く道が立たなくなるのです。
誰かのためになるということが、そのためになったことをいいがかりにして、あとでその恩義でその人を縛るようことにでもなると、始めからその人のために尽くさずにいればよかったということにもなるのです。「生長の家」の生きる道は、人間を縛る道ではなくて、いろいろのものからしばられているその縛りからその人間を解放する道なんです。
医学や衛生に縛られている人なら医学や衛生から解放する、人相や家相に縛られている人なら人相や家相から解放する、因縁に縛られている人なら、その因縁から解放する。職業に縛られている人ならその職業を乗り越えてなお生きる道があることを示す。こういうように人間の生命を縛っているあらゆる束縛を解き放って「生命」本来の自由さを奪還させるのが「生長の家」のみちなのですから、「生長の家」が誌友に対して少しでも押しつけがましいことをすれば、たとい聖典の売れ行きはよくなり、経済的に、「生長の家」が大きくなっても「生長の家」の道が立たなくなるのです。
野田:
先生としてはごもっともな御意見だと思います。それではもう少し印刷部数を少なくして、もし売れない場合の危険率を少なくなさってはどうでございましょうか。
谷口:
「生長の家」には危険ということはないのです。危険のありようを考えたことがありません。儲けようと思っている仕事には、損をすることは危険かもしれませんが、最初から儲けるつもりでない仕事には損をすることは危険ではないのです。何か、それに危険を感ずるのは、自分の方に求める心があるからです。自分は求めないで、求められれば与えようとねがっていたら、危険の感じようがないのです。
「十里の公役を強いられれば二十里を行け」ですね。「生長の家」の聖典をだすのも、はじめからわたしが進んでだすのではない、誌友たちがそれを要求しているから出すことになったのです。皆が聖典を結集して出してくれと言ってくれられる、その要求が切実であるから、結集して聖典を出さずにいられなくなってきたのです。呼ぶものがあって応えるものがあるというわけですね。
呼ぶものと応えるものとは一体である。そこがありがたいのです。今明らかに文書をもって申し込んでいられる数はまだ少ないのですが、わたしは多くの人類が「生長の家」の聖典を呼んでいる隠れたる魂の呼ぶ声を聴くことができます。「生長の家」はもっと弘がる性質のあるものです。それは現在の読者がどれくらいに魂の底から喜んでくれられているかでわかります。一人で聖典を十冊申し込まれた方もあれば、七冊申し込まれた方もあります。何十万の読者を擁する雑誌でもたいていは実用半分娯楽半分で読者を吸収しているにすぎないのです。
ところが現在の読者の数は少なくとも、その人が読者である限り、魂の底から喜んで、清められた心で知人に配布するために旧号を合本したものを一人で十冊も希望されるような雑誌はこの世界にそんなにたくさん例はありますまい。現在この雑誌の読者の数がまだ多くないのは人類がまだこの『生長の家』誌をしらないからです。知れば必ず人類は喜ぶのです。やがて十万、百万の読者を獲得するでしょう。
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