生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第三十九話> (656)
日時:2013年03月29日 (金) 10時18分
名前:信徒連合




第三十九話(通算第365話)


 
無生物と生物との境 <その三>




器官なき微生物の生活現象

(『生命の謎』P.63−68)


 黴菌(ばいきん)と極微単細胞動物との区別は殆んどはっきりしないのであるが、単細胞動物は黴菌よりもハッキリと“動物的”な運動をなすということである。

たとえばモネラというものがある。モネラはヘッケルの『宇宙の謎』という書に大分詳しく書かれているが、ただ一個のゼリー状物質の一点の如きものであって、何等の器官をもそなえていないのである。どんな器官をも備えていない其のままで運動栄養感覚分裂その他も生活現象を完全に営むのである。それは全体が胃袋だということもできるのである。それは同時に全体が感覚器官だということもできるのである。それは口唇をそなえていない。然しそれが食物の存在を感覚すると、その体の一部が伸びて手の様になって相手を捕捉するのである。すると全体が口の様になって全身で相手をたべてしまうのである。そしてその捕捉した食物を消化するのは全身が胃袋になるのと同じことなのである。それは何等の内蔵器官も備えていないのであるけれども「働き」をもっているのである。

彼の脳髄も感覚器官も消化器官もそれは「形の世界」には無いけれども形の“奥の世界”(理念の世界)にもっているのである。「理念」は「組織」に先行し、「組織」を作り出し、その「組織」を駆使して目的をとげるのである。

吾々は必ずしも器官の組織の複雑さによって「知り」「消化し」「生活する」のではないのである。

「生命」というものは組織が複雑にならなければ活動できないものではなく、「生命」は組織の奥に組織を自由にあやつり乍ら、組織の足りない所を凡ゆる手段によって補って行く力をもっているものなのである。


 ある科学者はこの小さきモネラの内側を外側に、外側を内側へと、靴下を引っくり返すように翻転(ほんてん)してみたと云うのである。それにもかかわらず、此の小動物は我れ関せずえんとしており、なんらの傷害をも受けずに前同様に生活を続けることができたのである。組織がないのであるから裏も表もないのである。

モネラを尚一層小さき断片に切断すれば、その一々の断片がそのまま一個の生物として生活する。そしてある一定の大きさに達すれば、それは中がくびれて二つに分裂して増殖する。


 ヘッケルはモネラについて次の様にいっている。――

 「モネラは最も簡単なる単細胞動物である。単に何等の組織なき柔らかき可塑的成分によってなりたっている。如何にもっとも完全なる、最も強力なる顕微鏡をもってその組織を観察するとも全体の組織が完全に一様であって、何等の機関をも有たないのである。

だからモネラは器官なき有機体と文字通りにいうことができるのである。モネラは全然何らの器官も有たず、色々の細胞の複合体でもないから厳重なる哲学的意味に於いても有機体ということはできないのである。

唯それが有機体だといい得るのは栄養、感覚、生殖及び運動というが如き生物としての有機的現象を行なうことが出来るからに過ぎないのである。」


フェルヴォルンはアミーバの生活現象について興味ある観察を報告しているのである。

アミーバの一種なるデフルージャ・アンプラという小動物は極く微細なる砂を以って小さき貝殻状のものを造って、その中に生活しているのであるが、それが子供を産むと、自ら細長き触手の様なものを出して海底にある微細な砂の粉末を求めてその子供に着せてやるのである。それは触手によって砂の分子をつかみ、その子供の体にその砂をふりかけて殻(から)の様に砂を以って被覆するのである。

フェルヴォルンは砂の代わりに非常に濃い色彩をもっている色硝子(いろがらす)の微細なる分子を入れて、その中でこのアミーバを生活せしめて観察していると、やがてこの小動物の周囲に色硝子の分子が集結することがみられたのである。ややあってこの小動物は小さき膠(にかわ)状物質を母体から分離したが、(即ち子供を生んだのであるが)色硝子の微粉は親動物の体からその子供の体の周囲にそそぎかけられ、親動物の体より分泌せられる或る物質によってセメントの様にその硝子粉末を膠着(こうちゃく)せしめることがみとめられた。かくて分裂して生じたる小動物の殻によって包まれることが出来るのである。

以上の観察によって何がわかるかといえば、かかる単細胞の動物でもその子供の生まれるに先立ってその子供に着せてやる殻をまず用意して置いてから子供を生むということであり、そして如何なる物質がその殻を造るに適当であるかを見わける知能を持っているということである。

 フェルヴォルンの報告によればこの小動物が子供に着せてやるために、まず自分自身が集めた所の微細なる砂の分子の分量は、丁度その子供に着せてやるのに必要な分量であって決して少なすぎもしなければ、多すぎもしないということである。これがたんに膠(にかわ)状物質の唯の一滴にすぎない単細胞の小動物に於ける精神作用なのである。

<細胞は生きているのである>。人間を構成する多くの細胞もこのモネラやアミーバと同じ様に何を排斥すべきか、何を吸収すべきか、如何に外敵に対抗すべきか、如何に食物を捕捉すべきか等々のことをわきまえる所の知性を備えているのであって、その知性のゆえにこそ、吾々が食用したあらゆる物質の中から、必要な成分のみを吸収して不要の物質を排泄してくれるのである。

 多細胞動物に於いては、その細胞の知性(細胞生命)の上に細胞群全体を統率し全体を秩序整然たる一生命体に統一している、更に高級なる「生命」が宿っているということである。

その更に一層高級なる「生命」は、所謂る「本能」といわれるものであって、現在意識の奥にかくれていて、現在意識が自分で努力しないでも全体を統一して全体としての有機的生理作用を営ましてくれる所の「全体の心」である。

即ちそれは頭脳の意識活動によって色々心配しないでも生理作用を順調に営ましてくれる所の「宇宙の心」の一部分であるのである。

然し、まだそれは生理作用全体を本能的に営むだけの心であって、人間の「自覚的中心」である所の個性意識というものはみられないのである。

 人間の「自覚意識」又は「個性意識」と云うものが肉体にあらわれて来るのは、本能的生理作用が整備されたとき、それを機関として自己表現を遂げ、色々の体験を地上で積み、それによって自己の生命を向上せしめ、より高き自覚に到達せんがために、「人間」なる理念的存在がその肉体に降下して来ることによるのであって、肉体が整備していても、「人間」なる理念的存在が欠如又は、眠っている時には、痴呆状態又は一種の小児麻痺の状態の如く、「人間」としての意識がハッキリ現れて来ないのである。

然らば「人間」なる理念的存在は何処より来り何処へ去るものであろうか。この深淵なる問題を解かなければ「人間」として地上に生まれて来た生き甲斐を真に自覚することは出来ないのである>>。






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