生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その17> =「生長の家」と一人一業= (671) |
- 日時:2013年03月31日 (日) 09時39分
名前:信徒連合
開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その17>
=「生長の家」と一人一業=
『生命の實相』第15巻・人生問答篇(P.127〜129)
野田:
先日、『主婦の友』の社長石川武美(たけよし)氏に会って「生長の家」のことを話しましたら、石川氏は一人一業をモットーとしているので「生長の家」の生き方を説く谷口氏が他に職業をもっていて、その余暇に『生長の家』誌を発行していられるのでは一人一業ではない、それでは「生長の家」に全生命を賭(か)けているとはいわれない、一人一業になりきらないとき谷口氏は「われこの『生長の家』という雑誌によりて生くるものなり」との気分を欠いているといわねばならぬ。
『生長の家』誌のように生命を説こうとする雑誌は自己の生命と融一せねばならぬ、自己の生命と融一さすためには片手間でやるようではならぬ。全生命をかけて「われこれによりて生くるものなり」との意気に燃えあがり、その雑誌と生死を共にするようでなければならぬ。
わたしから、谷口氏の「生長の家」に対する態度を見れば「われこの雑誌によりて生きず、他に生きる道あり」としていられるようで、そこに隙(すき)がある。谷口氏が自分のように一人一業主義になりきり、われこの『生長の家』という雑誌の経営によりて粥(かゆ)でも汁(しる)でも絞り出すという覚悟を持たれたならばどうだろう。読者はいっそう増加して救える人々の数が殖えてくる。一人一業――すべての退路や逃げ路を断ち、背水の陣を布いてこれこそ吾が生命を賭けた全事業だという実を示されるこそ、本道ではないか。これこそ『生長の家』に説いてある「生長の家の生き方」ではないか。「生長の家」の説くところは、実に主婦の友の経営が歩んで来た道がそのまま書かれているので感心していられると言っていられました。
谷口:
本当です。全生命を一つのものに賭けるとき誠が出るものです。それは『生長の家』にわたしが常に説かしていただいているところです。
けれどもわたしにとっては何に全生命を賭けるかということが問題なのです。主婦の友と生長の家とはその目的がちがいます。あらゆる手段を講じて雑誌の読者を殖やす事業――わたしはこんなことに全生命を賭けているのではないにです。そんなことを生涯の目的とする生き方をする人は別にあります。
わたしは雑誌の外形の伸びるということよりも、雑誌の内容が本物になるということに生命を賭けているのです。キリストは自分では雑誌を一冊も出さなかった。時々閃(ひらめ)くように出て来る霊感的な言葉をその短い生涯においてその兄弟たちに語った。ただそれだけです――けれどもその霊感的な言葉に感じた人たちが、キリストの言った言葉を集めてキリストの雑誌すなわち『新約聖書』を作った。
いま全世界にこのキリストの雑誌すなわち『新約聖書』の読者が何千万あるか、あるいは何億あるか、しかしキリスト自身はこの聖書の経営によって粥(かゆ)でも汁でも絞り出そうとしたのではない、われこの雑誌によって生くという気分があったのではない。キリストは粥でも汁でも絞り出そうとせずにただ黙々として十字架の苦杯を飲んだ。
キリストの聖書が全世界に広がったのはキリストが聖書を経営してそれからパンを得ようとしたからではない。もしわたしが『生長の家』という雑誌の経営によって粥でも汁でも絞り出そうとするのであれば、それは「われこの雑誌に<よりて>生くるものなり」であるかもしれぬが、本当は「われこの雑誌に頼りて生く」ということになってしまいます。
それは他を救うための雑誌ではなく自己がパンを得るため、または事業を成功さす野心をのばすための雑誌になってしまいます。もし『生長の家』誌が人を救うための雑誌でなくなって、自己がパンを得たり雑誌業を大きくするための商売になってしまうならば、たとい何百万の読者が出来ましょうとも『生長の家』誌はその魂において滅びたと同じです。
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