生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第三十八話> (694)
日時:2013年04月02日 (火) 09時55分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇



第三十六話(通算第278)


輪廻転生について(その2)


 
<<生命は死を超えて前進する>>



心の法則は公正の秤(はかり)である

(『別冊・真理<正死を越える道>P.39−43』)


 心の法則も自然の法則も生命のすべての分野に於いて「公正の原理」又は「償いの原理」が働いている事を明瞭に証明しているのであります。・・・

「心の法則」によって起こる原因に対する結果は、道徳上の問題に於いて、人間が法理論的に行う人工的審判よりも完全であります。・・・

人の行動の背後には如何なる潜在意識の強制力があるか第三者からは完全に知ることが出来ないのでありますから、他人をその行為の外見によって誤りなく審判する事は出来ないが、心の法則はこれらを自動的に審判して適当な応報をあたえるのであります。

もしあなたがすべての点に於いて或る悪人と全く同じ行動をするならば、あなたは法理論上からは悪人そのものであります。

然し心の法則は決して行為の外見のみでは審判を下さない。心の法則はあらゆる場合に於いて完全に公正の応報を与え、自然に各人の道徳的進化を導いて行くようにするのであって、これを因果応報というのであって神が罰を与えるのではないのであります。


 これを宗教的用語で述べれば、神は直接的意志をもって自然の法則や、道徳上の法則に背く者を罰するのではないのでありますが、法則としてあらわれて、法則に適った場合にはこうなる、法則に背いた場合にはこうなると自然に悟って、自己開発的に人間の自覚意識を高めようとしていられるのであります。

 心の法則がその法則を破るものに苦しみを起こす働きをしないとすれば、その人は誤った道に行くこと(進化に逆行すること)が免疫性になって誤った道を進むがままに何時までも放置されることになるでありましょう。

その結果は人類は宇宙の進化の法則に逆行し、人類は絶滅の危機に瀕(ひん)するでありましょう。ここに心の法則を教える者が出現して、法則を正しく用うる道を教え人類を絶滅から救う必要があるのであります。


 業の流転と云うことから考えるならば法則に背いた為の業の刑罰は、法則に背くに至らしめた潜在意識内の欲望の惰力(業因)が根こそぎ引き抜かれて意識外に除かれた時に支払い済みとなるのであります。

誤れる感情が起こるのは、欲望の背後から駆り立てる業の力――すなわち潜在意識内の念の惰力――であって、この悪に駆り立てる感情のエネルギーが精神科学的な認識即ち「悟り」によって中和されるか、苦痛によって帳消しされるまではその欲望は執拗に続くのであります。

欲望とはその目的に駆り立てる潜在意識的な業の惰力の事であります。

水が自らの重さによって水平を求むるために落下する如く、感情の駆り立ては自らを堕落せしめることによって平衡を得ようとして、そこに色々の問題を起こし苦痛を与えるのであります。

「悟り」はその落下の水力を合理的に調節して、善き目的のために使う水力電気の如きものであります>>。




償いの法則

(『別冊・真理<正死を越える道>P.70−74』)


<<「償いの法則」は全宇宙に行なわれているけれども、本能水準のものよりは人間の場合の方が、高度に顕われています。

肉食獣には道徳的感覚がなく、凶猛残忍にたいする精神的報いがないように見えます。

然し人間の場合には精神的道徳的法則に背く場合には、「償いの法則」が要求する代償を支払わなければならないようになっています。

キリストはたとえをもって「最後の一銭までも支払わなければならない」と教えています。この刑罰は、人格神が課するのではないのであります。これは釈尊の説教である業報の法則にも一致するのであって、誤ることなく、容赦することのない法則によって償いが要求されるのであります。・・・

 高い世界の「償いの法則」は負債の支払いを要求するのであります。負債は魂の内にあるのであって、自分の魂がそれを支払わなければならないのであります。・・・

それは体験によって魂がその前非を悟ると云う形式で支払わなければならないのであります。

人間の法則や自然の法則の前ではそうは考えられないかも知れませんが、犯罪者の習慣や行為の性質からして、如何なる形式によるとも負債を生じた「生まれ更り」の世代中には到底完全には負債を支払う事はできないのであるから、不足の分は未来の「生まれ更り」の生涯において支払わなければならないのであります。

この不足分の「支払い」は自分勝手な宣告に従ってするのでもなければ、特殊な科料を支払うのでもない、それは自己の心と意識とが他人の権利に敏感になり、之を尊重するようになり、その結果己の欲せざる所を他に施さざる底の心境に達する如き経験によって支払われるのであります。>>






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