生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第四十六話> (743)
日時:2013年04月08日 (月) 12時54分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第四十六話(通算第372話)

 
生命の實相とダーウィンの進化論


(人間の生命は如何にして顕現したか) <その七>




物質の形態、色彩、大いさ等を定むるもの、1

(『生命の謎』P.264−268)


<<吾々が光をみるという場合に、一体吾々は実際光をみるのであろうか。光とはなんであろうか。物理学に於いては光とは或る種類の波動であると考えられているのである。

ある時代には空間にはエーテルという物質が充満していた、それが波動をおこすのが光であって、その波動の周波数に従って、色の感覚が異なるのであるとせられていたのである。

所が、物理学の進歩するに従って、光は波動的性質をもっていると同時に光子とよばれている所の微粒子によってなりたっているのであるということがわかったのである。

それが波動であるにせよ、粒子であるにせよ、吾々が「光をみる」という場合にはある種の電磁的放射が吾々の視覚器官に衝突するといわれている。ある物体の表面から反射された光が、或いは自ら輝いている物体から放射された所の光が眼球の水晶体によって屈折せしめられ、眼球の後方にある網膜にある衝撃を与えるのである。

その状態は写真のカメラに於いてフィルムの化学薬品に、光の刺戟が化学的変化を起こさしめるのによく似ているのである。網膜内に装置されたる桿状態又は円錐体の上に、光と影とによってできた姿がうつるのである。そしてそこに化学変化がおこる。そこであるエネルギーの振動がおこると、それが視覚神経に伝えられて遂に脳髄視覚中枢に伝えられるのである。


 その時に奇蹟がおこる。奇蹟という外はないのである。<脳髄の視覚中枢におこったエネルギーの振動――それは光ではないのである>。

しかも光の感覚は単にその振動が漠然とひとかたまりに感じられるのではなくして、はなれたる所にある一定の<脳髄の振動そのものではない所の或るはっきりした或る色彩をもった形(心象)を生ずるのである>。

<即ち物理的振動が心の観念に変化するのである>。此れを奇蹟といわずして何といい得ようぞ。


 吾々はこの種類の視覚を通じて人間の形を見、樹木の形を見、動物の形を見、更に望遠鏡を通して天体を観察し、顕微鏡を通して微生物を観察するのである。

<吾々が見る通りの形なるものはそこには客観的には存在しないのである>。<客観的に存在するのは脳髄の一部分におこっているエネルギーの一束の心の振動>であるのである。それを契機として吾々は殆んど無限に広がる大宇宙を見、きわめて微細なるバクテリアを見るのである。

もし脳髄の一部におこっている振動を別の姿のものに翻訳する「心」が存在するとしたならば」全然別の姿にこの宇宙およびすべての存在をみたりすることも考えられるのである。

 吾々は感覚器官を通してこの世界を知覚し想念するのである。触覚とは何であるか。それは吾々の感ずる通りにものがあるのではなくして、分子の振動又はその電気的雰囲気が、われわれの感覚器官をたたいているのである。それを「分子がたたいている」とは感ぜずして「触れてそこに物体がある」と感ずるのである。

あるものに触れて吾々は熱いと感ずる。又あるものに触れて吾々は痛いと感ずる。それも結局分子が吾々の触覚器官をたたいているのであって、「熱い」も「痛い」も客観的には存在しないのである。

針を以って吾々の皮膚をさす、吾々は痛いと感ずる。然し針は「痛い」のではなく吾々の心が「痛い」のである。即ち吾々の感覚というものは、相手そのものが何であるかということを知るのではなく、相手の刺戟によっておこされた自分自身の心の姿を相手に移入して感ずるにすぎないのである。

即ち吾々が赤い花を見て「赤い」と感ずる。それは花そのものが赤いのではないのであって、それから放射された所の光の波が脳髄の視覚中枢細胞を刺激したのを契機として自分自身の心がおこした所の「心象」にすぎないのである。

そこに七寸咲きの朝顔の花が咲いているとする。吾々はその花を直径七寸あると感ずる。けれども吾々の脳髄の面積七寸の間にわたってその光の波の刺戟が振動しているのではないのである。

ものの大きさといい、色といい、悉くそれは実際的に存在するのではなくして、自分の心の中に起こっている所の「心象」にすぎないのである。

 仮に、ここに赤い色の例をとってみるとする。物理学的にいうならば赤い色の波長は凡そ0.0006ミリメートルの波長をもった電磁的放射であるといわれている、約40分の1インチの波長である。もっとわかり易くいうならば1秒間に450,000,000,000,000周波数をもった振動であるのである。それはかくの如き波長又は周波数の波又は放射であって、決して「赤いもの」ではないのである。

然し吾々が感覚器官にそれをうける時、吾々の心はそれを「赤い色」と翻訳してそしてある距離の彼方にそれを広げてみせるのである。>>(つづく)






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