生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その18>  =「生長の家」誌の出版の目的= (757)
日時:2013年04月09日 (火) 09時39分
名前:信徒連合






 開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その18> 



            =「生長の家」誌の出版の目的=


      『生命の實相』第15巻・人生問答篇(P.129〜135)




野田:

石川武美氏のいわれるのは、その反対です。「生長の家」が先生が他に職業をもっていて、それから資金を提供して維持されているならば、先生がその職業をもし失われたら「生長の家」は滅びるということになってしまう。それでは「生長の家」はそれ自身で自立した存在ではないということになってしまう。

他に職業をもっていて売れたらよし、売れなくてもよしというような生ま温(ぬる)き態度では、生命を打ち込んだ経営法とはいわれない。生命を打ち込んだ経営振りでなくては、その記事に生命があっても、読者を呼び寄せる力が稀薄になる。

谷口氏の現在の態度――会社へ勤めておって雑誌を出す、買うものは買え、買わぬのものは買うな、雑誌を売るのが商売ではないぞというようなこの態度は立派であるが、そこには経営に隙(すき)があって読者を増加さす力が透く少ない。谷口氏が『生長の家』の読者を増そうと思われるならば会社を辞めなくてはならぬ。

この雑誌は広告で売れる性質のものではなく、人から人に伝うべき性質のものである。谷口氏が専心経営せられたら一万の読者を得るのはむずかしくない。この雑誌がもし十万の読者を得るならば、これが読める階級の人々は思想界の中堅になる人だから一人に十人は感化せられる、そうすると十万の読者があれば日本国内の思想革命が成就する、こう言って賞(ほ)められましたが、それほどこの『生長の家』誌の内容には生命があるけれども、惜しいかな谷口氏の会社生活の片手間だから雑誌製造そのものには生命がない。< 雑誌の記事に生命があるのと、雑誌製造に生命があるのとは別である >――石川氏の意見はこういう興味のある意見でした。



谷口:

なるほど、それは雑誌経営者としての玄人(くろうと)の意見として大いに尊重してよいと思います。だが、わたしは『生長の家』誌の読者を殖やしたいとは思っていますが、それは雑誌の経済を立ち行かせるために望んでいるのではありません。

救われる人が一人でも多からんがためにそれを望んでいるのです。雑誌の読者が少ないためにわたしが飯が食えないで困ってその結果、別に会社へいっているように思う人があれば、それは大変な感違いです。『生長の家』誌の読者が殖えないために困るのは多数の人類であってわたしではないのです。

どんな時にも困らないのが人間すなわち神の子である、神の子は困りようがない。――この真理を明らかにするために出しているのがこの『生長の家』誌なんです。

わたしはもうどんな時にも困らない道を体得したのです。石川氏は『生長の家』誌はわたしが会社へ行っている片手間にできているからわたしの全生命を打ち込んだのでないといわれるかもしれませんが、その批評は当たれるがごとくにして、「生長の家」の精神をつかんではいないのです。

この「生長の家」のそもそもの最初の成り立ちというものが、雑誌製造業そのものを事業とするために生まれたのではありません。

わたしは今現に人類の大多数がそれを生活しているところの最も普通な境遇にある勤労階級の生活をしています。わたしはこうして多くの時間をいわゆる職業のために縛られていながら、その片手間にすらなおかつ人類のための光となる仕事ができる、という道を切り拓(ひら)いたのです。

そこにわたしは神の子たる人間の無限性を開発する道を見出したのです。「生長の家」の生活はどんな職業をもっている人にもできるので尊いのです。雑誌製造業にならなければ生きる道がないという。そんな手本を示すようでは「生長の家」を宣伝する必要はないのです。

いかに人間は職業という荒縄で縛っても縛っても、なお手を出して人を救うことができる。縛られていて縛られていない生活を事実は示しうるところが非常に尊いのです。大多数の人間はみんな職業に縛られ職業に没頭し、職業の中に溺没(できぼつ)してしまって、人を救うような生命の余裕は自分にはないと思っている。

ところが、実際はそうではないぞ、縛られていても、人間はどんな職業をもっていても人を救うことができるぞ、わたしを見よ、わたしは縛られていながらこうして人の光となり、人の相談相手となり、人の病を癒やし、そのかたわら雑誌の原稿を書くこともできる、それは生命は無限であるからだ。人間は神の子であるからだ。生命を出せば禿(ち)びるように思うのは迷いである。出せば出すほど伸びるのが「生命」である。こういう真理を実例によって示すために生きているのが現在のわたしの生活なんです。

一人一業主義は事業発展法としては一つの金科玉条でありますが、わたしはこの一業に生命を注いでしまって、ほかに注ぐべき生命は残っていないからどんな善いことを頼まれてもそれはできぬというようになってしまうと、「生命」が融通のきかない自由なところのない小さなものとなってしまうのです。



先日も長野県の女の方から手紙で訴えてこられました。

それによると、自分は養蚕(ようさん)を家業とする家へ嫁いで来たものですが養蚕という仕事は夜もほとんど毎夜のように徹夜しなければならないので数年前から神経衰弱になって困っています。昼は頭が呆然(ぼうぜん)として気分が暗くて、なんだか自分が人生の敗残者であるかのように思われる。身体(からだ)がこんなあんばいなので、この二三年来姑(しゅうとめ)さんに徹夜をしていただいて自分は養蚕に遠ざかっていますが、それでは姑さんにばかり辛い目をさせているようで、心が辛くてかえって病気を悪くするように思います。

養蚕をやって徹夜しても病気に悪いし、そうかといって養蚕に遠ざかってそのため姑さんに対してこころで辛い目をしても病気に悪いし、進退実に谷(きわ)まっているしだいです。自分は養蚕のように夜業を続けなければならぬ仕事よりも、もう少し和洋裁縫を研究して、裁縫で身を立ててゆくようにするのが自分の適業だと思う、先生どうしたらよいでしょうかというわけです。


わたしがこの人に対して与えた答えはなんだったとおもいます。「死ね、生きる」という言葉だったのです。

この言葉が出たのはわたし自身が死んだ上で浮かび上がってきた生き方をしているからです。わたしは自分で会社へ行くことを本来適業だと思っていない。けれども今わたしは適業でなくとも安らかに会社へ行くことができるのです。あなたは適業適業だといわれるけれども、今大多数の人類はみんな適業をもっていない。自分の好まない生計(くらし)に縛られている。

だから、われわれは自分だけが適業を見出して安易な生活に耽(ふけ)っているというような生き方をしているのでは、大多数の人類に適業がなくともさらに生きる道があることを示して、大多数の人類をして苦しみの中にも光明を見せしめることができない。

人類よ、お前も生計(くらし)のために適業がないものにたずさわっているのか。兄弟よ、それを嘆くな、お前の生命のうちの何時間を生計(くらし)向きのことが奪おうともわれらは嘆くにおよばないのだ。「十里の公役を強いられれば二十里を行け」とキリストが言っているのはそこだ。死んでも死にきれないものがある、奪われても奪われても、外から奪いきれないものがある。それが「本当の自分」であり、生命である。そのほかのものは論ずるに足りないものである。――

こうわたしが人類に向かって言いうるのはわたしが十里の公役を強いられて二十里を行っているからなんです。

あなたは嫁いだ家の家業が養蚕であって、家業があなたに養蚕をしいるならば、その養蚕は強いられたる「十里の公役」である。そしたらあなたは「二十里を行け」ばよいのである。

<さきの十里は相手に与えてみずから死に、あとの十里はみずから進んで獲得した十里である>。そこに喜びがある。

自分に二十里を行く力がないとはおっしゃるな。ここはわたしという手本がある。神の子たる人間にはこれ以上は力が出ないという限度はない。われわれの生命は地下無限の水脈に通ずる井戸のようなものであって、汲むに従い、必要に従っていくらでも出て来るのです。この井戸の水は底まで一尺しかない、井戸の直径は幾らしかない。井戸の水深と直径とから算出すれば水の分量は何斗しかない、これを使えば水はたちまちなくなってしまう、そう思って水を使わねば井戸の水の分量は、<その人が思ったとおり有限な実に少ないものとなる。> 

けれどもその井戸の水脈が地下無限の水脈につづいていることを信じ、毎日安心して汲み出せばまた汲みだすだけの分量ずつ水は湧き出てくるのです。<およそ「生命」とはこの井戸水のごときものなんです。計るものには分量は実に少なく、計らずに汲むものには無限なのです。> 

あなたが神経衰弱であるのは、心に自分は人から喜ばれているという自信がなく、人がなんとか自分のことを悪く思ってやしないかと不安におもっているからです。人がなんとか自分を悪評してはしないかと思うのは自分が百の力を百ながら出しきっているという自信がなく、自分で批評してもよい点数がつけられないので、他からはサゾなんとか悪く思うに違いないと気がとがめるのです。

気がとがめるのは自分で自分の力の出し方に満点がつけられないのです。力の出し惜しみをするために、気がとがめるという逆に働く精神の間断なき労苦があり、そのために精神が過労して神経衰弱になるのです。力の出し惜しみをするのは、自分の生命力は有限だと計るところにあるのです。

計らずにいくらでも出す。十だけ出せといえば二十だけ出す。すると姑でも誰でも喜んでくれるから一日中気がとがめるということがなく気が楽になるから神経衰弱はひとりでに治るのです。――


わたしはこういう意味のことを書いてその婦人の方に差し上げました。この婦人が「生命」というものを依然として計っていられるならば、分量で尺目(さしめ)で計っていられるならば、この婦人は今も依然として神経衰弱でいられましょうが、生命を計らずに汲むことを覚えられていますならば、今ごろはもう神経衰弱を超越せられていることだろうと思います。






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