生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第五十話> (781) |
- 日時:2013年04月12日 (金) 08時07分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第五十話(通算第376話)
如何にして「内界」は「外界」を見ることが出来るか
(『神癒への道』P.32−36)
<<吾々の心が外界から印象をうけてそこに「あるもの」があると想念する、それはどうしてそういうことが可能なのであろうか。
外界にあるものは「物」である。それをそこにあるとして感ずる所のものは「心」である。「心」がどうして「物」を感じ得るのであろうか。
これは過去も現在も常に変わらぬ哲学上の大問題なのであります。
カントは吾々が物を感ずることができるのは、それが吾々の内部に直覚的認識力を目覚めしめるからであるという意味の事をいっているのでありますが、しからば如何にして吾々は自己の中に直覚的認識力を喚起し得るのでありましょうか。
吾々の中にその「物」を創造した創造者と同じ力が自分の認識する力となって宿っているからだといわなければならないのであります。
言い換えれば、吾々の「心」の本質と、対象である所の「物」とが本来同質であるからであるのであります。
即ち吾々の「心」の本源と「物」の本源とが本来同一物であるから波長が合うのである。
そこに「認識(ものを認める働き)」という事が成り立つのだといわなければならないのであります。
即ち「物」と見えているものも実は「生命の波動」であり、「心」と見えるものはも実は「生命の波動」であるのであります。
言いかえれば、「見るもの」と「見られるもの」とが一体であるからであります。
もし観る心が存在しないならば、観られる世界も、存在に入ることはできないのであります。
甲の人が赤い花を見る、そして「赤い」と感ずる。乙の人もその同じ花を見て「赤い」と感ずる。もし甲と乙とが全然別の「見る心」をもっているならば、一つの花を見ても同一に感じない筈なのであります。
疥癬(かいせん)の虫にとっては、人間の皮膚はトンネルのように見えるかもしれないのであります。ところが、人間には彼女が美人と見えるのである。
「見る心」が異なればその様に見らるる姿が異なってくるべき筈でありますが、それがそのような結果を現わさないで、AなるひともBなる人も同一の花について同一の印象を受けるとするならば、AとBとは「同一の心」を共有するといわなければならないのであります。
かくの如くして類推して行けば、全人類は同一の「共通的心」をもっていると認めなければならないのであります。
その人間共有の「一つの心」を称して吾々は「神」と呼ぶのであります。
パウロが聖書に於いて「彼の中に吾らは生き、動き、存在を保つのである」と言っているのはその意味を表現しているのであります。
メタフィジカル・ヒーリングに於いて、「想念者」が他の人の病気を治し得るのは、その根本原理がその宇宙には「ただ一つの心」が存在するのであって、「自分」が想念することは、「神」が想念することであり同時に「相手」が想念することになるという根本原理に基づくのであります。
「宇宙の心」は、宇宙に普遍的にひろまっているばかりでなく、吾々個々人の中に具体的個性精神として宿っており、そしてそれらが互いに感応交流することが出来るのであります。
この真理をキリストは「吾を見し者は父を見しなり」といっているのであります。これはイエスに於いてのみ真理ではなくして、凡(あら)ゆる人間において真理であるのであります。
即ち、総ての人間はそこに神の生命が今生きているのである。
法華経に於いて釈迦牟尼佛が「吾は百千萬億阿僧祇劫前から存在するところの者である」という意味をいっているのは、人間には神の「久遠の生命」が<今ここに>生きているのであって、人間の肉体が「おぎゃあ」と母の胎内から生まれた時に、人間の生命が始まったものではないという事を現わしているのであります。
この意味に於いてメタフィジカル・ムーブメントに於いては、キリストの生命も釈迦の生命も、われわれ個人の生命も、「ただ一つの生命」の顕現であると観るのであってそこから超宗派的若しくは無宗派的宗教運動になるのであります。
人類はこのような哲学的人生観になった時に於いてのみ、すべての人間が「ただ一つの生命」より生まれ出た所の兄弟であるという自覚から互いに相和し相愛することが出来るようになるのであります。
この意味において、神はすべての事物の中に又すべての人間の中に存在し給うのであります。
神はわが中に、彼の中に、又諸君の中に存在し給うのであり、吾々はそれを見ることはできないが、生命の体験としてそれを自覚することができるのであります。
それと共に、吾らをとりまいている所の環境もすべて「ただ一つの生命」がそれに想念の波を印象したことによって、現象界に浮び出て来た所の姿であるから、すべてそれは心的存在であり、吾々の「心」と互いに相感応して変化せしめることが出来るということができるのであります。
だから、すべての人間の「心」と「心」とは、また「環境」と吾々の「心」とは、ただ「一つの心」にとりまかれている所の「同じ質の心」であるから互いに感応することができるのであります。
吾々は必ずしも対話を交えないでも、相手の心を知ることができるのであります。何となく「虫が好く」といい「虫が好かぬ」と感じ、或いは「虫が知らす」というが如き感応が起こり得るのは吾々の意識の波が互いに交流しておって、本質が同じであるから互いに相互感応するのであります。
概ね何の成心をも持たず、先入観念をも持たずして最初に出会った時の第一印象というものは正しい判断を下すものなのであります。
それは何故かと云うと、吾々の潜在意識が、利害関係や、相手をごまかすための「いいつくろい」によって掻(か)き擾(みだ)されないために、端的に相手の心の波を感ずることができるからであります。
吾々は又遠隔にいる人々に対して、善意の観念を起こすことによって相手と和解したりすることのできるのも宇宙の心はただ一つであり、吾々はその中に住んでいる所の互いに同一の心の波を有する所の神の子であるからであります。
新選谷口雅春選集第二巻の『人間性の解剖』の中にも多くのかかる実例があり、あれを読むことによっていかに吾々の運命が吾々自身の「心」の感応によって変化するかが判るのであります。>>
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