生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第五十一話> (793) |
- 日時:2013年04月13日 (土) 09時36分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第五十一話(通算第377話)
人格的接触による治癒機転
(『神癒への道』P.39−43)
<< スコフィールド博士の美しい言葉があります――「患者の眼が医者の目と出会う時に“癒し”が始まる。若し“それ”が起こり得るならば」と。
実際、薬剤や、物理学的治療法がきいたと見える場合にも、それ以上に人格的影響が加わるのであってスコフィールド博士の言葉は真実であります。
元の青森県知事で満州の警務局長官に一時なっていた山田俊介氏夫人明子さんは、夫君が松山の警察部長をしていたときに、或る病気にかかって、数名の博士が危篤を宣言したときに、夫君の友人なる医師今川三郎博士(三郎は記憶不鮮明である)が、一度見舞いにまいりましょうと言って夫人の病床を訪れ、何かやさしい語調で、病気に関係のない、美しい景色や、夢見るような楽しい話をしてくれたが、それが転機になって病気が治ったと云うことである。
そして此の今川博士に癒された人は「先生に治して貰った」とは決して言わないで「先生に救われた」という言い方をするのが常であったということであります。
治癒という出来事は、「生命」それ自身がするのであって、薬剤も、電気治療も、光線療法も、暗示も、その他いろいろの事もそれがただ「媒介」をするというに過ぎないのであります。自己に宿る生命――それが神であります。
近代に於いて「アメリカの生んだ最も偉大な、最も博学な、最も智謀に富んだ精神病学者の一人」は、今は物故したS・ウィア・ミッチェル博士である。
博士は文学と科学との両方面に於いて偉大な業跡を残しているのであるが、博士は安静療法と、厳重な隔離と、博士自身その価値をあまり措いていなかったマッサージと軽い電機治療を行ったのであるが、ウォルセスター氏の批評によると「博士の治療の最も重要な因子は言うまでもなく彼の人格的接触、患者との日々の対談であった。余は彼ほど豊かな天分に恵まれた人或いは彼程よく人格のふかい力強い感化力を習得し得た人を知らない」と言っているのであります。
人格とは何であるか。人間は夫々の雰囲気をもっている。イエスの雰囲気の中へはいるだけで癒す力が働いた例は聖書の中に書かれてあります。
多くの人たちはメタフィジカル・ヒーリングを唯の真理的治療法だくらいに考えていて、神の力が働くのではないと思う。それは愉快になれば血液の循環がよくなるし、心配すれば血行はわるくなり、腺の内分泌に不純成分を発生し、血液中に毒素を生じ、その毒素の結果、身体に倦怠感(けんたいかん)を生ずるという風に、心の作用で血行や内分泌に変化を来たし、徐々に癒えていく位にしか考えないのである。
そのように徐々にしか治癒して行かない人もあるし、実際、心理学的に解釈出来るような治り方もあるのである。私の著書にもそう云う実例を度々引いているのは、最初はそういう実例から入るほうが科学的らしく見えて信仰に入りやすいからなのであります。
併し、真のメタフィジカル・ヒーリングはそんな心理的療法を超えたものである。
フランスのルールド聖泉に於ける聖母マリアの奇蹟は、骨折がその聖泉に浸って上がると、その瞬間に癒えており、聖泉に浸る直前に、医師がその結核患者の両肺が殆んど空洞であることを診断しておいたのに、聖泉からあがって来た彼は、同じ医者の診断によると完全にその両肺が新生して健康な呼吸音をしていると云うような治り方もあります。
生長の家でも服部仁三郎氏の『結核に悩める人々へ』の口絵写真版に出ている骸骨の様な病者は脊椎カリエスで背中に椀(わん)をふせたような膨大した膿瘍(のうよう)があったのが、真理の話を鳴尾(なるお)の河田亮太郎氏からきいて、翌日忽然(こつねん)その膿瘍が姿を消し、カリエスが治って健康となり、帝国美術専門学校へ首尾よく入学出来た事実もあるのであります。
英国、チチェスター市のハンブリン氏はその著『摂理』の124頁に、次のような事実をかいています。(此の書の重要部分を私は『人間救いの原理』第三章に紹介しておきました)
「自分は最近、炭鉱で働いている人から一通の手紙を受け取った。・・・この読者は負傷の為に毎日床に就いていたのだが、完全な治癒を待たずに早すぎて働きに出掛けたのである。自分が親しくやって来た経験によれば炭鉱労働は最も骨の折れる極めて苛烈な仕事である。
彼は自分の身体の側面に、負傷に基因する激しい痛みを感じた、そしてそれは、もうどうにも仕様のない激痛と変じてしまった。
そこで彼は真理の言葉を唱えようと決心したのだ。彼は詩篇の第23篇を繰り返し唱え続けた。彼が『神は吾が魂を回復し給う』という文句に達した時に、まるで電気的ショックがかれの中を走ったかのように感じられた、そして彼は癒されたのであり、そのまま仕事を続けたのである。
二日後にその経験は又繰り返された。痛み出すと彼は詩篇23篇を心に繰り返した。又他の篇の最初の一節も心に唱えた。そして此の時には彼は完全に癒されてしまったのである。」
そしてハンブリン氏は、「“神は彼の言葉を贈りて彼等を癒し給う、而して彼らの悩みより彼等を解き放ち給う”という聖書の言葉はまことにも真理である」と付言している。
しかして「神は彼の言葉を贈りて彼等を癒し給う」という聖書の言葉が真実であるという出来事は、神学博士・哲学博士ウォルセスター氏及び神学博士マッコーム氏の共著『肉体と心及び霊』の中に載せられている器質的故障による真の聾(つんぼ)が聖霊によって癒された事件によって、一層明らかに吾らの心に迫って来るものがあるのである。次の例はそれに属するものかと思われるのであります。>>
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