生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第四十六話> (794) |
- 日時:2013年04月13日 (土) 10時30分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇
第四十六話 輪廻転生について(その10)
<<生命は死を超えて前進する>>
産土の神様――霊界の市長
(『霊供養入門』P.184−186)
<<霊魂が、ある母親の胎内へ宿って来る場合、誰が宿すかというと、それは神様の世界では「産土(うぶすな)の神様」とか「鎮守(ちんじゅ)の神様」と呼ばれている神様の働きなのである。
この神様は“霊界の市長”のような役割をされる。現実界では、われわれに子供が生まれると、市役所へ行って届ける。すると、市役所を通じて、その子供は現実界の行政の範囲内に入ることになる。現実世界の奥にある“霊の世界”にもこれと同じような“市長さん”がいて、これが「産土(うぶすな)の神」とよばれている。
この神様は、夫婦がいて子供がほしいと思っていると「どの魂を、あそこの夫婦に入れてやったらよかろうか」というようなことを決められる。
古くからある日本の風習でも、子供が生まれたら「氏神(うじがみ)参り」をするけれども、「氏神」というのと「産土の神」とは混同されているようである。
「氏神」とは、「谷口」の家なら、谷口氏(うじ)のずっと昔の祖先から続いている神様である。いわば“先祖の神様”である。たとえば、谷口家で例を挙げて言えば、これは五伴緒の命(いつとものおのみこと)や、アメノコヤネノ命の時代からズーっと続いてきて、藤原家に至り、それから更に南朝の時代を経て谷口家になってきたというような、その一番初めのアメノコヤネノ命に当る。これが谷口家の氏神さまということになる。谷口氏(うじ)の“祖先”ともいえる。
ところが「産土(うぶすな)の神」というのは、「産」まれた「土」の「神」と書くように、生まれた土地を含む領域一体の霊界を支配しておられる神様である。
その神様が「あそこの夫婦の間にこの霊魂を宿したらいいな」という具合に世話をなさるわけである。だから、子供が生まれて相当の日数がたつと、この産土(うぶすな)神社へお参りして“出生届(しゅっせいとどけ)”をする。そして「こんな立派な子供を授けていただきまして有難うございます。今後よろしく御守護下さいますように」とお願いを申し上げることが必要なのである。現代人の中には、この産土の神様を無視する人が多いけれども、それは好ましくないと言わねばならない。>>
実相と輪廻転生
(『生命の實相』第21巻・教典篇P.179−184および『人生を支配する先祖供養P.80−84)
<<「霊は物質の性に非ず、愛は物質の性に非ず、知恵は物質の性に非ず」ということがあります。
先刻申しましたように仏教ではこの霊という言葉はつかいません。仏教では霊魂は無いとも言われる。霊魂とは言わない代わりに「有(う)」という字を使うのです。三界を分って二十五有に分類したりしている。この「有」というのがいわゆる霊魂でありまして、それは第一義実相的の存在ではない。仮現としての存在なのであります。
第一義実相では人間は迷うことはないが仮現としての人間は迷うて、仮存在として輪廻転生するのです。
われわれの肉体すなわち色身(しきしん)が滅して、まだ後来(こうらい)の生が二十五有のうちのどの「有」の境涯に定まるか分らない間の存在を中有(ちゅうう)と言うのです。
よく「魂が中有に迷う」などと言う。これは仏教では普通肉体の死語四十九日間ということになっている。この中有としての存在が満了すると、満中陰(まんちゅういん)と言って、何かお葬いのお供えの返しなどをするのであります。
だから「言葉」が異(ちが)うといって、ただちに仏教では霊魂を認めないといって争うのはまちがいです。しかしここにある霊とは先刻申しました「不可思議自由自在なもの」という意味を現すために霊という字を使ってあるのです。
生命の実相(ほんとのすがた)は、実に、霊“妙”なものでありますから、霊“妙”不可思議の“妙”という字にあてはめてもよいのであります。『法華経』では「妙」という字を使っている。霊々妙々不可思議なる生命の働きは、一定の化学反応しか起こさないような物質の性能だけでは得られるものではないのであります。それがこの一節に書いてあるのであります。
この霊妙不可思議な働きは物質から来るのではない、愛というような不思議な生命を生かす働き、智慧と云うような不可思議な心の働き、こんな霊妙な働きは、物質から来るものではない。
だから「霊は物質の性に非ず、愛は物質の性に非ず、知恵は物質の性に非ず」なのです。生命の霊性、愛、智慧というものは、いかなる大科学者が、いかなる装置で物質を捏(こ)ねあわしても発現する者ではない。
生命は霊なる愛なる智慧なる神からのみ来るのであります。この神から来た生命の霊性が現象世界に投影したのが、現象生命である。
この現象生命はどういう状態で現象界に存在に入るかというと一つのバイブレーションとして存在するのであります。
このバイブレーションを客観的に観察すると一つの念体である。霊魂または霊体というのはこれであります。
物質は実相宇宙の投影が認識作用によってその霊妙性を捨象されて生じたバイブレーションの体(たい)でありますが、この物質の体に、現象生命の体が複合して、肉体人間として現れているのであります。だから人間は大別すると二種の体が重複しているのであります。われわれは体(からだ)が一つしかないと思っていますが、肉体と霊体とが重なり合って一つに見えているのであります。(つづく)>>
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