生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
トップページへ戻る
↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓
反・『御教え』・・・雅宣総裁語録と講評 <第五十三話> (814) |
- 日時:2013年04月15日 (月) 17時59分
名前:信徒連合
< 第五十三話 > 肩の荷を降ろす?開放感!
(平成22年7月15日『恵味な日々』)
<< 木曜日の休日でしたが、原稿があったのでずっと原稿書きをしていました。教修会が終わってから、すぐ原稿にかかり、ようやく今日の夕方メールで原稿を送りました。肩に重くのしかかっていた荷を、ようやく降ろして、久しぶりに解放感を味わっています。私は原稿を書くとき、まずテーマにそって心に浮かんできたことを、何でもどんどん書いていきます。それから、重複しているところや、表現があいまいなところ、論理が飛躍しているところなどを直していきます。 その過程で、自分がよく理解していないことが分かったり、あるいは疑問点などが出てくると、テーマに関連した本などを読んで確かめます。そんな作業があるので、一日で仕上げるというわけにはいきません。書いた原稿を、一日、二日と置くことにより、客観的に見ることが出来るようになり、独りよがりなところは変えていきます。それでも、難しいテーマの時には、混沌として深い霧の中にいるようなときもあります。そういう時は、霧が晴れることがあるのだろうかと思います。ですから、仕上がった時は、格別な解放感を味わうのです。>>
(講評)
このようにして書き上がった三代目・純子さんのエッセイ文が毎月の月刊誌(「神誌」ではない!)に掲載されるのであります。タイトルは“肩の荷を降ろす”であり、毎月の原稿書きは何か自分に課せられたノルマの達成責任としての仕事との感を受けるのであります。
そしてまた、<テーマにそって心に浮かんできたことを、何でもどんどん書いていきます。>とありますが、今までの月刊誌に発表された文章を拝見しても、人生の深刻な病・悩・苦の解決を求めて宗教の門を叩く人の存在など全く眼中に無いような一般主婦のエッセイ文のような文章内容であります。
特に宇宙大生命(サムシング・グレート)の御意志によって開祖・谷口雅春先生を通じて地上に出現せしめられた『生長の家』の今一つの大きな目的は“国家の成仏”であったのであります。
かつての民主党政権が招き寄せ進行せしめた種々の国難のことなどは三代目・純子さんには心に浮かばなかったのでしょうか? <国難というコトバで認めるから“国難”になっている。実相世界には国難などは無いのであるから、そのままで善い。そのままで善いのだ。非実在のものは自然消滅するのであるから。>としか思っていないのでしょうか?
国難の自然消滅は確かにそのままにして置けばなくなりましょう。ただし、それは日本人の日本国家・日本民族意識がなくなり共産中国に併呑されれば国難はなくなりましょうが、それは果たして宇宙大生命(サムシング・グレート)の御こころでありましょうか?開祖・谷口雅春先生の御教えでしょうか?断じて『否』であります。
<難しいテーマの時には、混沌として深い霧の中にいるようなときもあります。そういう時は、霧が晴れることがあるのだろうかと思います>と、ありますが、<そのようなときには暫し神想観をさせていただきます>とはどうして書けないのでしょうか?
また、常に国家のこと、人類の病・悩・苦について宗教家として常日頃からこころを致しておれば、どんな難しいテーマでもそれに関連する開祖・谷口雅春先生の御著書の中の章句が先ず浮かんでくるはずであります。
三代目・純子さんには“宗教・信仰の導師”として、それに相応しい『生命の實相』に基づいた内容の文章を書かねば決して自称にしろ“白鳩会総裁先生”などとは呼べないのであります。そもそも三代目雅宣・純子さん夫婦は信徒の浄財のお蔭で物質的には悩み無きセレブ生活を送っているわけですから、国家のことや末端国民のことなど平素から大してこころに止めていないのでありましょう。
<疑問点などが出てくると、テーマに関連した本などを読んで確かめます。>とありますが、関連した本の中には開祖・谷口雅春先生の『生命の實相』その他の御著書は入らないのでしょうか?
それこそ「原理主義」に陥る危険性が大であるからなので開祖・谷口雅春先生のご本はあまり読まないことにしているのでありましょう。ましてや、近い将来、聖典『生命の實相』や聖経『甘露の法雨』は原宿教団からは消えてなくなるのでありましょうから。
それにしても、私たち末端の信徒が読んでも三代目・雅宣・純子さん夫婦の文章には何の感銘も受けず、魂に響いてくる言葉や章句はまったくありません。深刻な人生苦など救われるわけもないのであります。どこにでもあるような学者・評論家・主婦の片手間エッセイの類であります。洵(まこと)に残念であります。
<ここまで現在の「生長の家」の霊的レベルが落ちに落ちたとは!>。 多くの正統派信徒達が魂を熱くして繰り返し読んだ『生命の實相』の御文章を二つ掲げさせて頂きます。
「生命の実相」第1巻P.15−16
<< ところが、埼玉県から霊眼によって、わたしが『生長の家』の原稿を書いている現場を透視した人があって、わたしが霊感によって書くということを客観的に証拠だてた人があります。それは埼玉県の笠原政好君であって、昭和6年6月1日付で報告が来ています。
「 神想観を実修して、大虚無の境地に入っていた。ふと目に映じ出した、私の処から西南に当たる方向に先生の姿が髣髴(ほうふつ)として見える。実はまだ私は一度も先生のお顔を拝見したことはない。それが霊の性質かもしれないが確実に見える。さっきから先生は広間の片隅で穆々(ぼくぼく)しく机に向かっておなじみのペンを持って何かお考えを書いている。姿勢よく座し、しかとペンを握り十分に含ませたインク、あたりの光景は手に取るように見える。光明は先生の軀(からだ)から無限にも放出する。ちょっと弱そうな容貌、しかしその熱烈さ。『道』に奉ずるの御決心は一目瞭然である。生き生きしたペンはソロリソロリ走り出した。まだなん行とも書かぬうち先生は無我のうちにおかれ、またたくまにペンのスピードは前とはまるで変わってくる。
走る走るあらっと思う間もなくぜんぜん先生とは違った人になっている。口元の締まった、あご髯(ひげ)の胸まで垂れ下がった、見るだに気高き霊人だ。あれ先生はどこにと、見詰めた。ああ先生は霊人の内に溶け込んでいるのだ。霊人は全支配権を握り、わき目もふらず書を進めてゆく。あれなんという、推敲(すいこう)もせずそしてペンの早さは目も及ばぬほどだ。
まあ不思議なこと一体どこから来た方だろう。霊人の軀から神々しい霊光が放たれ付近は光明浄土と化した。静寂また静寂、付近はまだ霊人の占領地となっている。やがてペンははたと止み、霊人はどこにか姿を消してしまった。目的の文ができあがったらしい。後は先生の独座とかわった。やれやれ重荷でもおりた様子。籠の鳥が放たれたように急にのんびりして今書き終わった短文を精読している。精鋭な先生の視力はやたらに文字に引きずられてゆく。二回も三回も熟読してますます神秘の霊感に打たれている。
『無理はない』渺漠(びょうばく)の領境に導かれるどころか独専霊人の書だ。数十分の間私は恍然としてこの光景につりこまれて、ひたすら現象のなり行きを見つめていた。先生はこれを整理してまた他の目的に向かってお働きになられた。
(付言)、先月14日にも神想観実修のおり、目に映ったことがあり、昨夜も同然御動静を拝し、当夜はまたこんなに勝れた光景にまで出くわしました。政好は年若く、世の経験に乏しいものです。ですがすべてを政好の感性の所産と思し召しくださるな。私は初めて自分の偉大さを知る。私は私の背後にもやはり常に私を操ってくださる方のいることを信ずる故に。頓首。(12月30日夜)」 >>
「生命の実相」第25巻・教育実践篇上巻
(布製携帯版P.104-106)
<<「生長の家」で説くところの宗教的真理は、多くの善き宗教の真髄をなしている宗教的真理と同じであり、むしろ多くの宗教の説く真理に開眼を与える底のものでありますが、何処が違うかと言うと文章によって一喝(いっかつ)を与える点であります。
本を読めば病気が治るということも、文章による一喝によって、読者の生命の実相が開かれて心の病気が治る。肉体の病気の治るのも、この随伴的結果なのであります。
<この生命の実相>というものは、今までは文字・言語のよく説くところではない。言詮不及(ごんせんふきゅう)・不立文字(ふりゅうもじ)であると言われていた。それを文字を立て・文章を立て・言葉の力によって生命の実相を悟らせるようにさせた所が、生長の家の独特なところであります。
今までは、真理と言葉とが二つに分かれていて、言葉や文章は真理を完全に表わすものではない、と思われていた。ところが、生長の家では、言葉と真理・文章と実相とをピッタリ一致させた。
古来、直接説法・以心伝心でないと悟ることも出来ない真理を、ただ文章を読むだけで悟れるように、文字の中に生命あり・生命の中に文字あり・文字と生命と一体と言うような域にまで達せしめ得たのだろうと思います。
さればこそ、本を読むだけで直接参禅しても得られないような悟りに到達する人が多勢現われて来て、その影響の及ぼすところ肉体の病気も治り、境遇・環境まで変化してくるというようになって来たのであります。
生長の家は、宗教としては今までの多数の宗教に対して敢えて別異を説くのではない。根本に於いて・真理に於いて同じことでありますけれども、その表現が今迄に見ないような強い迫力ある芸術になっている。
生長の家では、活字が道場である。文章が教化の師である。活字の印刷した新聞紙の行くところ、活字の印刷した小冊子の行くところ、其処が道場化して人を救うということになるのであります。>>
-
|
|