生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第五十話> (829) |
- 日時:2013年04月17日 (水) 13時48分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇
第五十話 個性命の進化と向上(その3)
霊魂の進化の程度の測定標準
(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.120)
<<・・・ともかくわれらの地上において霊魂の進化の程度を測定する標準はあるのであろうか?
この世に出生した霊魂の高さを示す徴候というものはあるのであろうか――と自分はいった。
ヴェッテリニは答える――
「直覚的認識――霊魂の認識のほかに、外より見える徴証(しるし)もたくさんある。そのうちの一、二をここに言ってみよう――
<第一>、“雅量(がりょう)”である。しかしここにいうところの雅量は人間霊魂の深き認識より出発したる他に対する赦(ゆる)しである。それは聡明なる雅量であって寛大と峻厳(しゅんげん)との必要を知るところの雅量である。Bonte-severite(寛大なる峻厳)こそ向上せる霊魂の特徴として記憶すべき一つである。
<第二>、卑しき者、世に出でざる者、弱きものに対する愛――社会的成功、名誉、地位等に対する無関心によってともなわるる愛である。
<第三>、哲学的思索の傾向、霊界の神秘を知らんとする熱望、その神秘に貫き入ろうとする努力――これらは霊魂の進化そのものである。」>>
霊魂の個性の存続と価値
(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.135)
<<個性的意識は、進化の過程を通じて層一層個性的となるものであるか?
またスピリットは常に自己自身の存在と継続と同一自己を意識しているか?
それともある教義でとなうるごとく、進化するということそのことのために、個性的意識が普遍的意識に吸収されてしまうものであるか――すなわち霊魂の進化とは緩徐なる個性の破壊的過程であるのか?
自分のこの問いに対してレイヌは鋭い注意をあつめて聴いていたが、自分の方へ振り返った――
「コルニリエさん。ヴェッテリニのおっしゃるところによりますと、個性的意識は進化の度が進むに従っていよいよますます大となるのです。霊魂が一生涯によって獲得し征服したすべては、その霊魂の個性をそれだけ明瞭にそれだけ強大にするのです。個性は彼のものです。彼のみのものです。蒼色のスピリットは灰色のスピリットよりも個性が明瞭です。白色のスピリットは蒼色のスピリットよりもなおいっそう個性的です。なおいっそう高級なスピリットは、なおいっそう自己自身であるのです。>>
霊魂の個性の存続と価値
(『人間死んでも死なぬ』P.340−341)
<< その如く、「あなた」の肉体は幾度滅びても、<「あなた」なる理念>は、つねに設計者の中にあって永遠に死滅することないが故に、幾度でも地球またはその他の遊星の如き適当なる環境材料を見出して、そこに“現象的な人間”として姿を現し出るのである。そしてかくして出生する“現象的な人間”は<本当の人間(理念の人間)>のただの投影(かげ)に過ぎないのである。
私は「人間」そのものは、設計者の「理念」なるが故に消えることなき久遠不滅の存在なのであると言った。
ここに見逃すべからざる二つのことがある。
(1)「人間」は設計者に関係していること。
(2)「人間」の本質又は“本当にある”人間は理念であるが、その理念とは類型的概念ではないと云うことである。
「<人間なるもの>」と云う共通類型的な概念ではなく、ひとりひとりの人間、「あなた」なるもの、「彼」なるもの------等々悉く設計者の心の中に描かれたる個性的な理念であって、決して類型はないのである。設計者を仮に神と云う。神の心の中には決して類型的な理念は描かれはしないのである。
神は無限創造である。神は無相にして無限相を内に包蔵する。類型の重複を造り出す必要は決してないのである。「人間」には類型は一人も」ないのであって、悉く個性を備えている。
類型の如く見える人間が若しありとすれば、それは本来類型の人間ではなく、まだ未発達であるが故に個性ある人間の特殊性が蔽(おお)われて開顕していないに過ぎないのである。
それは柿の嫩葉(わかば)と大豆の嫩葉(わかば)とが、互いに類型的に形が似ているのは、それが本来類型的な為ではなく、それが未発達であるが為にその個性が完全に発揮されていないに過ぎないのである。
「理念」には類型はなく、悉く個性的である。人間も赤ン坊は一層類型的であるが、生長するにつれて“より”一層個性的となる。猿の胎児と人間の胎児とは互いに類型的であるが生長するにつれて別個の斬然(ざんぜん)たる個性を発揮する。
民族もその未発達期に於いては類型的な性格が多いが、より一層発達するに連れて、より一層個性的となるのである。>>
<註・コメント> 開祖・谷口雅春先生のこの部分の御文章は、個々の霊魂の個性の進化に関する“生命哲学的”な根拠であると考えられると思います。こう云うのが三代目雅宣(自称)総裁のお好きな<“理性”による理解>というものだと思います。開祖・谷口雅春先生の『御教え』は霊的直感的把握と共に、このようにキッチリと“理性的理解”が出来るものなのであります。
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