生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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反・『御教え』・・・雅宣総裁語録と講評 <第五十五話> (830)
日時:2013年04月17日 (水) 14時21分
名前:信徒連合




< 第五十五話 > 創世記第一章と第二章の霊感によらない“左脳的解釈”(1)

(平成22年7月13日『小閑雑感』)


<<『創世記』の第1章の天地創造と第2章4節以降の物語は、互いに大きく食い違い、矛盾している。だから、聖書研究者の間では、これらの話は、それぞれ別の作者の手になるということが、大筋で合意されているのだ>>




(講評)


第三代目・谷口雅宣氏は、次の二つのことを主張しているのであります。

(1)創世記第一章と第二章とは矛盾したことが書かれている。

(2)創世記第一章と第二章とは作者が別である。

第三代目・谷口雅宣氏のこの様な考え方は一体『生命の實相』のどこに書かれているのでありましょうか?

彼は全く『生命の實相』を真剣に読んでいない。“どこかに間違いはないか?”と欠陥探しの観察眼で拾い読みをしているのであります。

創世記第一章は神(サムシング・グレート)による完全円満、至美至妙なる「真創造の実相世界」のことが描かれているのであり、創世記第二章は人間の「迷い(迷妄)の心による偽創造の現象世界」のことが描かれているのであって、このことは『生命の實相』第11巻を読んだ人ならば誰でも知っていることでありますのに、第三代目・谷口雅宣氏は知らないが如くであります。

開祖・谷口雅春先生は明確に『生命の實相』第11巻P.56の2行目に<ここにわたしは一つの『迷い』の萌芽を発見するのであります。>と書かれているのであります。

第三代目・谷口雅宣氏はこのような重要章句に心が止まらず、完全な左脳的批判の心で読んでいるのであります。

だから、上記の如き<『創世記』の第1章の天地創造と第2章4節以降の物語は、互いに大きく食い違い、矛盾している。>という信徒以下のレベルの解釈しか出来ないのであります。

可愛そうなことには、第三代目・谷口雅宣氏は自分の文章が信徒以下のものであるとは決して思っていず、逆に博学多識であることを「小閑雑感」を通じて自己顕示しているのであります。

彼は「迷い・迷妄・無明」のことなど全然解っていないのであります。

第三代目・谷口雅宣氏は<聖書が『霊感』で書かれたこと。開祖・谷口雅春先生はそれを霊感で以ってその真意を解釈された>こととは考えず、<聖書は古き時代の人間の肉体頭脳知の創作物語であり、自分もまた優れた左脳で解釈する。それが“今の教え”である。>といっているのであります。

こんなものは、本来の正しい『生長の家』の教えではないのであります。強く反省していただくために開祖・谷口雅春先生の御文章を次に引用いたします。



(1)『生命の実相』第11巻萬教帰一篇上巻<はしがき>


<< この書は『生命の實相』のなかでも圧巻といわるべき部分であり、諸宗教の神髄もっぱらここに集まるともいいうるのである。ここに諸宗諸教に対する生長の家からする独特の判釈があるのである。本書を読んで仏教の神髄が会得されたと言われる人もあれば、難解難信の『法華経』が本書を鍵としてはじめて釈然としたと言われるひともある。

 今まで仏教とキリスト教とは教えの立て方が異なるので、全然教義の上で和解されないものだとされていたのが、現象と実相とをハッキリ区別する説き方で完全に一致し和解することが出来るようになったのである。

それは『創世記』の天地創造の章に「神その創造(つく)りたるすべてのものを観給いけるにはなはだ善かりき」と書かれている一切皆善の“実在界”は、『法華経』の「自我偈」(じがげ)に「衆生劫尽きて、この世(唯心所現の現象界)の焼くると見る時も、わが浄土(実在界)は安穏にして天人常に充満せり」と書かれている場合の“実在界”なのである。

神は実在界の創造者であり、現象界は「衆生の見る世界」すなわち唯心所現の世界である。

だからキリスト教や神道の宇宙創造説と、仏教の無明縁起説とは決して衝突するものではないのである。

キリスト教のサタンは結局、仏教における「無明」(まよい)の人格的表現にすぎない。

「無明(まよい)」によって創造(縁起)されたる現象世界だけを観て、天国を説き、浄土を説こうとするから、天国は地上に出現しないのである。

イエスが「サタンよ去れ!」といったのは、汝の「無明(まよい)」の心の帳(とばり)を除け! そこに浄土実現し天国現前せることを見出すだろう、という意味である。

『法華経』の語をかりていえば「もろもろの憂怖(うふ)充満せる」現象世界の奥に、焼けつきざる金剛不壊の実在界を見出せという意味である。まことに悟りをひらいて今ここにこの金剛の浄土を見出すときは、衆生の阿鼻叫喚(あびきょうかん)の中にいるといえども、その苦悩から現実に逃れるのである。>>


<< 唯心所現の世界はこのように、自覚がかわれば変わるのである。

わたしはここにいたずらに奇蹟を説く必要をみとめない。本書こそ『生命の實相』の中でも、最も深い「存在の実相」が、壊せず滅せず常住久遠のものであることを自覚する悟りに導く中心の巻の一つとして、是非とも無宗教の方にもあらゆる宗教宗派の方にも読んでいただきたいのである。>>



(2)『生命の実相』第11巻萬教帰一篇上巻P.3


<<あらゆる宗教的教典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。霊感によって書かれたるものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。

いかなる博学者も、ただ語義のみ知って霊感なきものは、真に教典の生命を捉ええない。生長の家は霊感によって、仏教といわず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き教典の神髄に透徹してこれを拝むのである。>>



(3)『生命の実相』第11巻萬教帰一篇上巻P.118−119


<< 『創世記』の価値は、宇宙創造の実際と、「無明」の偽創造と、「無明」の発展集積と、その発展集積の後、自然に土崩自壊するところのいわゆる「ノアの洪水」と、その救いの願船「ノアの方船」(生長の家)の出現が予言せられている点であります。>>



(4)『生命の実相』第27巻久遠仏性篇上巻P.154−156(布製版)


<仏典を論ずる>と<仏教を悟る>とは異う―――

<<・・・仏教経典を研究する学者は、著作の年代とか、本当の著者の名前とかを問題にした。したがって肝心の問題であるべきその書に、本当に『久遠を流るるいのち』が生きているかどうかを忘れてしまう傾向がある・・・

まことにも木村博士の言わるる通り『仏典を論ずる』ためには、サンスクリット語や・・・古代の方言やチベット語などさえも必要であろう。しかし、それは『仏典を論ずる』ためであって『仏教を悟るため』ではないのである。

幾千巻の大蔵経の第何頁に如何なる語が書いてあるかと言うようなことは、仏典を論ずるためには、必要であるかも知れない。けれども吾々の<さとり>のためには何の効果もないのである。・・・

・・・結局、語学や経典によって釈迦の教えを研究しようなどと言う企ては、暗中模索の靴を隔てて痒(かゆ)きを掻(か)くに類する努力であって、それはいつまでも語学の世界と考証の世界に堂々巡りしていて、その教えの堂奥に飛び込むことは出来ないのである。

本当に<さとり>の世界へ飛び込もうと思うものは、語学や考証の世界を一躍して『久遠を流るる<いのち>としての釈迦』そのものの中に飛び込まなければならないのである。>>



(5)『生命の実相』第11巻萬教帰一篇上巻P.98−99


<< よく「無明(まよい)」が<本来無>であって、人間が本来<神の子>であるということは“どうして”解るか――と言って理論で突き詰めてこられる方がありますが、理論――すなわち物質世界を認識するためにできた人間知の理論では、「無明(まよい)の本来無」も「人間の本来<神の子>」たることも、覚(さと)れようはないのであります。

そういう物質的知恵では、実相世界の妙楽の状態、実相人間の妙楽の状態は、決してわかるものではないのであります。

これは物質的知恵を懸絶(けんぜつ)したところの実相覚(さとり)によってのみ忽然(こつぜん)さとるほかはない、自己にやどる<神の子>そのもの、<神性>そのものが、本来自己が「実相世界に属する神の子」であるとパッと自覚するほか、肉の人間知や三段論法や、五官に見えるものが実在するとする素朴的実在論ではわからないようになっている。

なぜなら<実相のみ実相を知ることができるのであって>、ニセ物はニセモノをしかわからない、ニセ物と実相とは“類”でないがゆえに、心の法則によって互いに反撥して、その間に<絶縁体>があるのと同じような結果になるのであります。

ニセ物を知るための知恵では、実相をつかめない。その間にある絶縁体を象徴して「焔の剣(つるぎ)を置きて生命の樹に至る途(みち)を守り」とここには書かれているのであります。>>



(特註)

このように『今の教え』は完全に間違った教えであって、開祖・谷口雅春先生を隠蔽・放逐した内容になっているのであります。






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