生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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反・『御教え』・・・雅宣総裁語録と講評 <第五十六話> (838) |
- 日時:2013年04月18日 (木) 09時22分
名前:信徒連合
< 第五十六話 > 創世記第一章と第二章の霊感によらない“左脳的解釈”(2)
(平成22年7月15日及び7月20日『小閑雑感』)
<< 結論を先に言ってしまえば、『創世記』第1章は非対称性の原理が支配的であり、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている、というのが私の見方である。ただし、これはレヴィ=ストロース氏の『神話論』の内容とはあまり関係がない私独自の見解である。>>
<< 前回、本テーマで書いたときの結論は、『創世記』の第1章と第2章以降の記述の違いを分析すると、「第1章は非対称性の原理が支配的であるのに対して、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている」ということだった。このことは何を意味しているだろうか? 以前、「対称と非対称」や「“わかる”ということ」について本欄で書いたときに強調したことの1つは、人間の心の中では、現在意識が主として「非対称性原理」によって動いているのに対し、潜在意識は「対称性原理」を特徴とするということだった。そして、人間はこの双方を本来兼ね備えている。ということは、天地創造の物語としては、どちらにも立派な存在意義があるのである。言い直せば、天地創造について古代から2つの異なった言い伝えが併存し、双方が重視されてきたのは、双方ともに人間の心の要求に沿うものだったから、ということになるのではないだろうか。>>
(講評)
第三代目・谷口雅宣氏は<<『創世記』第1章は非対称性の原理が支配的であり、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている、というのが私の見方・独自の見解である>>と書いているが、一般信徒の中で此処に書かれている事の意味を理解できる信徒が果たしているであろうか?
“非対称性の原理”だとか“対称性の原理”という日常聞き慣れないコトバを使って信徒を対象とした文章を書くこと自体がそもそも間違っているのであります。この様な言葉を使ってしか「創世記」の解釈が出来ない第三代目・谷口雅宣氏はどのような人物なのか?果たして生長の家の指導者(総裁)たりうる力があるのだろうか?答は断じて「否(NO)!」であります。詳しく云えば、――
(1)「宗教家」と自称して居るが、実態は理屈を好む“学者”・“評論家”である。
(2)そして、自分がいかに“博学多識”であるかを示そうとする自己顕示欲の旺盛な人間である。
(3)『聖書』のような霊的次元の高い聖典(教典)といえども所詮は人間の頭脳によって書かれた文学作品であって、霊感で書かれたとは認めない人である。
(4)完全に唯物二元論の価値観の人であって、“悟りの世界”については今生では到達不可能な霊的体質として誕生したひとである。だから、理屈の世界・左脳的思考の世界でしか生きられないひとである。
(5)“悟りの世界”に近づけない人であるから、霊的・宗教的なことを現代人に分かるような平易な言葉では解説できない。望む方が無理な人である。そこで自己満足・自己顕示の為に難解な言葉を使うことになるのである。
(6)この様な難解な、信仰の深化とは直接関係の無い文章の多い本を、講習会のテキストとして第三代目・谷口雅宣氏は強引に信徒に買わそうとする。信徒が買い渋ると書籍中売り係は「寄付すると思って買って下さい!」と迫る。信徒は買っても読む気もしない。正に“寄付!”。喜ぶのは、販売冊数に応じたリベートを貰っている?教化部長と印税が入る第三代目・谷口雅宣氏だけである。
第三代目・谷口雅宣氏に反省を促すために、開祖・谷口雅春先生の次の御文章を引用掲載させていただきます。
(1)『西田哲学との比較に於ける人間論』(『人間死んでも死なぬ』P.332)
<< 私の全集『生命の實相』を読んで病気が治ったという否定すべからざる事実が続々起こったり、戦場に於いて生死を超越して奮戦し得た実例を数多(あまた)生じたる理由は、それが「“絶対死なぬ”人間“そのもの”」なる哲学を感情的に移入する誰にでも理解され易い文章で詳解し、その哲学を実際生活上に生活し得るように誘導したからである。
生長の家に哲学が無いという人は、実はその人は、私の全集『生命の實相』を読んでいないからである。
真理を感情的に移入する文章を芸術であると観るならば、全集の『生命の實相』は私の文章芸術であるが、哲学そのものは難解なる哲学用語の外にあることを知らなければならない。
私は哲学を難解なる術語から解放したのである。
哲学“する”とは難解なる術語を使うと云う意味ではない。
真理を如実に把握して生きると云う意味である。
表現された真理をそのまま読者が生活に生きるように押し出す迫力があるのが哲学である。
哲学は哲学“せしむる”力を持たねばならぬ。併し多少たりとも哲学的術語を持たなければ「生長の家には哲学がない」と言いたがる人のために本稿は幾分か在来よりも哲学的様相を備えて記述したのである。>>
(2)『生命の実相』第27巻久遠仏性篇上巻P.156−157(布製版)
<< 語学や考証を超えて―――
私はここに、本当の釈迦は二千五百年前、地上に生まれて王宮を出家して迦耶城(がやじょう)を去ること遠からぬ道場に座りて阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成じた如き『肉体』でないことを宣言する。
それは私が宣言するだけではなく法華経の『如来壽量品(にょらいじゅりょうぼん)』にちゃんと宣言してあるのだけれども、法華経は大乗経典であり、大乗経典は釈迦是(これ)を説かずと言うような、<さとり>には何の関係もない考証的仏教学者があるから私が茲(ここ)に改めてそれを宣言する必要があるのである。
斯(か)く法華経に従って、本当の釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)は浄飯王(じょうばんおう)の太子(たいし)ゴータマの如き肉体人間ではないのであって『久遠を流るるいのち』であることを知るとき、吾等は到るところに『仏教』即ち『<ほとけ>の説教』を見出すことが出来るのである。・・・
何処にでも身を現じて法を説き給うのが釈迦なのである。だから法を説くとき阿難(あなん)も釈迦であり、達磨(だるま)も釈迦であり、賢首(けんしゅ)も、空海も、道元も、最澄(さいちょう)も、親鸞(しんらん)も悉くみな釈迦なのである。
親鸞などに到っては・・・彼の<さとり>は語学を超えて却って『久遠を流るる<いのち>』を把んだのである。・・・
言葉や語学にこだわり過ぎて、この文字は梵語(ぼんご)では本来何を意味するのだなどと言う事を考証するほど、凡(およ)そさとりに遠いものはないのである。>>
(3)『生命の実相』第27巻久遠仏性篇上巻P.158−159(布製版)
<< ほとけは何処(いずこ)—―――
現代仏教が揮(ふる)はないのは碩学(せきがく)は図書館に籠(こ)もってシミとなり、凡僧は寺院に籠もって死骸にお経を誦げるのを商売として、直接『久遠を流るるいのち』そのものなる釈迦に触れ、釈迦の<さとり>を直接生きようとする人が少ないからである。・・・
『久遠を流るるいのち』なる釈迦は・・・ユダヤに於いても、日本に於いても、アメリカに於いても、イギリスに於いても常住久遠に説法してい給うのである。
『久遠を流るるいのち』なる釈迦は、或いはイエスと現れて法を説き、或いはマホメットと現れて法を説き、或いはエマースンと現れて法を説き、さらに黒住教、今光教、天理教、扶桑(ふそう)教、ニュー・ソート、クリスチャン・サイエンスと現れて法を説いても一向差し支えがないのである。
釈迦がその『肉口』を以って法を説かなければ、それは仏教でないというならば、地上いづこにか仏教あらんや・・・
では吾等は何処に本当の仏教を探し求めたら好いであろうか。仏教とは『釈迦の肉口の教え』であると考えている限りに於いては、そんなものは地上の何処にもないのである。
しかし仏教とは『久遠を流るるいのち』と一つなるところの釈迦、『常に此処に在りて滅せず・・・余国に衆生の恭敬(くぎょう)信楽する者あらば、我復(ま)た彼の中に於いて、為に無上の法を説く』ところの釈迦――斯くの如く変貌自在、どこの国にでも恭敬以って真理を知らんと志す衆生のために出現して来て法を説く釈迦――この釈迦の教えが『仏教』であると言うならば、仏教は到るところにあるのである。>>
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