生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第五十二話> (845)
日時:2013年04月19日 (金) 08時12分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇



第五十二話  個性命の進化と向上(その5)



『別冊・真理』<生死を超える道>よりの抜粋



<< 人間は一層高き世界に向かって進化の螺旋階段を登って行きつつあるのであります。

イエス、マホメット、釈迦、ソクラテス等の聖者は、その生活と教えとによって、如何なる精神的生活の原理を実行すれば、各個人が、そして遂には人類が、一層高き世界に到達することができるかということの目標を示しているのだと吾々の精神科学は観るのであります。>>(P.12)



<<人間の知的発達の程度は、最下級の痴呆者から、大思想家、大科学者の創造的天才の頂点に至るまで実に千差万別であります。この事実が人間の生命は単に「種族」の生命として動物、昆虫、鳥類、魚類の場合のように、一斉に揃って進化するのではなく、「個」としての生命が、個々別々に進化することが判るのであります。

人間の心、道徳、精神の発達程度に右のような大差があり、従って、条件に不公平を生ずるという事実は、人間の個性生命の不滅と云う問題に関連して深い意義があるに相違ないのであります>>(P.31)



<< 人間不平等の所以――

ともかく人間の天賦は他の動物のように大勢がみな一様ではなく、個人個人がみな精神的にも、道徳的にも、更に肉体的能力にまでも、個性的に異なる発達をしていることによって、人間の霊魂が繰り返し生まれかわる間に特殊な発達をとげたのだと結論してもよいと思うのであります。

このことは非情にむつかしい問題であることを私も認めます。とくにこの事には未知の部分が含まれていますので益々困難ではあります。或る点では推理によって結論に到達しなければならないのでありますが、推理に頼ると云うことは、すべての古い宗教と少数の新しい宗教とのどちらにもある致命的誤りの源であったことは明らかであります。

然し先入観や偏見によって証拠を抂(ま)げようとさえしなければ、代数方程式の場合のように、人生の事実に合致する答えが得られる可能性はあるのであります。

 實相哲学を主流とする神学体系は、「神はすべてであり、神は霊である。故にすべては霊であり、物質は存在せず」と云う直観的真理を基礎としているのであります。この直観を基礎とした哲学および神学は、病気の如き人間経験を否定する時は、理論的であり、科学的であります。

これは絶対理想主義の哲学であって、理論的に「罪と病と死」の存在を否定する時、この三つの悪は意識の中に居り場がなくなり、従ってそれらを恐れることが無くなるからとの理由でこの説を受け入れる人にとってはなかなか好結果を得る学説であります。

この純粋理想哲学を奉ずる人の信念が昂揚するとき、五官の立証するものを否定し、さらに理性が肯定するものさえも否定し客観的経験さえも否定し去るならば、自律神経を媒介として生理作用を司る潜在意識は、その「否定」によって悪(病気等)をおそれなくなっている人をその悪から解放するのであります。>>(P32−33)



<<心の因と肉体の果――

このような問題に直接に接近して行くためには、心の世界に働く因果の法則の有りのままを研究しなければならないのであります。

“宇宙の知性”は人間を創造し、人間の魂に不滅の観念および不滅を実現したいと云う希望を植えつけたのである以上、これを立証する方法も必ず造ってあるに相違ないのであります。しかし如何に多数の人々がそのことを信じているにしても、疑いの存する限り、実例によって立証されていないのだと云うことになるのであります。

 人間の大多数が信じ且つ願っているところの生命の「不滅」と云うことは、滅する肉体を超えて不思議な煙幕の彼方にあるのであります。

この肉体の眼は、こうした煙幕を貫いて見る事が出来ないのでありますから、理に照らしてその不滅なる「結果」を来たすための「因」求めなければならないのであります。

われわれは盲目的信仰のみを頼りとすることは出来ないのであります。歴史を見ても現代人の為す所を見ても、人間は本気になって誤謬を信ずることが出来るものだと云う事が明瞭に証明されているのであります。

例へば、キリスト教の世界では、文字通りの「天国」と客観的な「地獄」とが現実に存在し、肉体死後の魂がそこに行くのだということを信ぜよと教え、また事実大多数の人が信じているのであります。そして死後人間の或る者は永遠の歓喜を受け、ある者は永遠の苦痛を受けるのであると信じているのであります。

 右の信仰の証拠としては、昔ながらの教義と伝説意外には何もないのであります。その伝説と教義とは九十九パーセントの人間が文盲で迷信に浸っていた頃の無知蒙昧の暗闇時代(くらやみじだい)の人々の書いたものであります。

それらによると肉体を離れた人間の魂には二つの階級があり、その住む場所が二つの場所に別れるのだと云う以外には住む場所はなく、その精神的原因としては、或る人の身代わりの苦しみを信ずる事によるだけで一方は聖人となり、他の人はそれを信じないだけで永久に罪人として処罰されると云うこと以外には何もないのであります。

そう云う宗教においては、公正な神の本質、贖(あがな)いの法則、精神的進化の原理等は皆拒否され、科学上の事実と理智の叫びは無視され、その代わりにずっと昔死んだ人々の言葉の権威および教会当局者の言葉を迷信的に信じているのであります。>>(P.34−36)






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