生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第五十八話> (858)
日時:2013年04月21日 (日) 10時05分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第五十八話(通算第384話)


 
無時間無空間の「久遠の今」について(3)

(『神癒への道』P.140−143)



<< それは兎に角、吾々が現象界に於いて物を考える場合には取扱いに便利なように、動いているものを静止しているとして考えるのであります。

運動でも連続的に運動しているものを、一分間に又は一秒間に幾何(いくら)の速度として考え、それだけを静止単位の如く考え、何時間動いたら、一秒間の速度にその何時間の数字を掛ければ好いなどと考えます。

併(しか)し決して人間の生命の運動は一秒間毎に区切りをして静止しては又動くというものではありません。

人間の生命の運動はベルグソンの言ったように連続している運動でありますけれども、それは動いているそのままでは現象的には取扱うことが出来ない、少なくとも取扱うことが不便であります。そこで、一秒二秒三秒四秒と「点」が連続して一つの全体をなしているのだという風に考えて行くのであります。

尤(もっと)も時計などは歯車で動くのですからチクタクチクタク、チクタクチクタクと小刻みに動いてゆくのですけれど時間そのものは一秒毎に動いているのではないのであって、ずっと連続して動いていて、それは分割して考える事は出来ないものなのです。

連続しているものは分割することはできないのです。しかし連続しているものを連続しているままに取扱うことは不便ですから、それを平面的に静止させて分割し、分割した断片を再びつなぎ合わせた形で考える事が五官の知恵であります。

五官で見て取り扱う取り扱い方は、みんな動かないものを単位としてそれの集まったものとして取扱うのであります。

だから生命の生々流動を、静止せる物(即ち物質)の集合体、又は連続体として考えます。写真撮影などでは被写体を動かないものとして写すのであります。被写体によりまして、夫々(それぞれ)二百分の一秒では動いていないもの、千分の一秒では全然動いていないものとして写すのであります。走っている馬でも人間でもみんなある瞬間には静止しているとして、写真に写すのであります。映画などでは大抵、二十五分の一秒では動いていないと仮定して撮します。その二十五分の一秒では全然静止した様に映っている、それが此処で止まり、次に止まり、その次に止まる。
 斯うして止まっている姿の一コマ一コマを連続的に纏めると動いているように見えるのだというので、映画は撮影され映写されているのであります。

写真に映るように或る時間的単位では動いていないものは、結局、いくらつなぎ合わせても動いていないとして全ての運動を否定したものが、ギリシャのエレア学派のツェノンという大哲学者であります。

彼は「運動というものは存在しない。」「或るところから或るところへ行くのには無数の点がある。無数の点というものは、無限であるから何時まで経っても無限の点を越えることは出来ないから、或るところからあるところへ行くということは不可能である。即ち運動は不可能である。運動があるように見えるというのは錯覚に過ぎない」といって全ての運動を否定してしまったのであります。

これは「生命の運動の本来の動き」を考える事なしに、すべてを唯物論的に分割してしまったからそういう結論になったのであります。

しかしツェノンは唯物論者ではなかったのです。ツェノンは空間の実在を否定しました。従って空間的存在だと考えられる物質の存在も間接に否定しているのであります。そして彼は「動いているものは、それがあるところの場所の中にもまたそれがあらぬところの場所の中をも動いていない」と言って、運動する物がその中にある空間の実在性を否定しているのであります。

ここにツェノンは「動かずして動いているもの」空間の中にあって動かず空間そのものを投射し出すところの生々流動の生命の存在を暗示する<あるもの>を持っているのですが、彼はそこまで到達することは出来なかったのであります。

かれの運動の否定の哲学は現象運動の否定の原理を含んでおり、生長の家の「現象無し」の哲学を理解する上に幾分のたすけとなるものですから、

も少し詳しく申しますと、アキレスと亀との競争の譬(たとえ)をいって、「アキレスも亀に追いつくことが出来ない」といいます。アキレスというのは韋駄天(いだてん)のように健脚で走る神様であります。それが亀を追っかけるところが幾ら追っかけても追っつくことが出来ない。亀が如何にのろまであっても、如何にアキレスが駿足(しゅんそく)で走っても結局はどうしても追っつく事が出来ない。

何故追いつくことが出来ないかというと、亀は如何に遅くとも亀の元いた所までアキレスが追いついた時には、少なくともその時には亀は一寸(ちょっと)でも前に出ている。その代わり又アキレスがその亀のいる所まで追いついた時には、亀はもう一寸でも前にでている。それはいつまでも繰り返されるに過ぎないから結局は運動はないというのであります。>>









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