生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第六十二話> (891) |
- 日時:2013年04月25日 (木) 14時24分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第六十二話(通算第388話)
キリストの十字架について(3)
(『神癒への道』P.152−155)
<< 或る病院の入院患者が『生命の實相』を読んでも治らないとて『生命の實相』の真理を疑って来た人がありますが、其の人がその病院を退院せずに自己を肉体人間として観、取扱っている限り、その人は「生命の實相」たる「無肉体の人間」を自覚していないのでありますから、「生命の實相」を自覚しても治らぬということは言えないので、読むには読んでも自覚が出来ない。真理が頭の中で空転しているに過ぎないのであります。
真理が頭の中で空転しないで生命の自覚となるためには、この肉体をば「自分自身」と見誤るところの五官の目を瞑(と)じて、自分の「生命の實相」の霊妙きわまりなき姿を内観した時に、初めて自分が時間空間を超えたところの霊的実在であるということが分かるのであります。
皆さんに神想観をお勧めするのもそのためであります。神想観のやり方は講習会では直接お教えしておりますし、以前には『生命の實相』第4巻(頭注版・第8巻)及び谷口清超との共著『人間救いの原理』の第一篇49頁に詳記してありますから御覧下さい。
人間は自由自在にならぬと幸福になれない。人間の自由自在の本当の働きというものは時間空間を超えた世界へ入って行った時に初めて本当の働きが出来るのであります。
宮本武蔵の所謂(いわゆ)る「無構えの構え」であります。「無構えの構え」というと、結局「現象的構え」じゃないのであって、時間空間十字交叉のあの中心の「今・此処」の一点へ帰っていって、そしてどこへも自由に出られる姿になっているのであります。
これこそ真に「無構えの構え」であって、その時には相手がどこから突きこんで来ても自由に受けることが出来るのであります。これは何も剣道のことをいっているのではありません。
すべて吾々は、一瞬一瞬、無時間、無空間の世界へ還元して行くことによって、そこからのみ自由自在のはたらきが出来てくるのであります。
そのために吾々は常に神想観によって、吾々のいのちの本源へ立ち戻るようにしなければなりません。
そこから酌(く)み出して来てのみ、吾々は永遠のいのちを今此処に受けることが出来るのであります。
そこでキリストは、「吾はいのちの泉である、本源である。われに汲む者は永遠に渇(かわ)かず、死すとも死せず」などということを被仰ったのであります。
「吾に汲む者は永遠に渇かず」というのは、時間的流れ、空間のひろがりの中に生命を求めているだけでは渇くとこが来る。それは有限の世界であるからであります。
これに反して、時間空間を超えた中心・その本源に<いのち>の水を酌んだ時に、吾々は永遠に死なないということになるのであります。
死なないといったら肉体が死なないことだと思ったりして間違える人があるのですけれども、決してそうではないのであります。あの人は『生命の實相』を読み、神想観をしていたけれどもやはり死んだなどと言って反駁(はんばく)なさる方がありますが、吾々が人間不死を説くのは、一度肉体を十字架につけて後の復活を云っているのであります。
「肉体というものは初めからないものだ」と知ることが肉体を十字架につけることです。
肉体どころでない、空間もない時間もないのです。その悟りの後に、キリストの復活があるのであります。
自分がキリストと同じものになるのであります。キリストが「我れ行きて汝らに来るなり」といわれた。その滅びないところのキリストが、自分の中に宿っていて、それが本当の自分であるとわかるのであります。 キリストというのは二千年程前にユダヤに出て来た肉体の人間かと思ったら単にそうではないのであって、吾々の中(うち)に「今」生きていられるのであります。
キリストは十字架につけて肉体を抹殺し、肉体の無を実証した時に生命として復活し、時間空間を支配する権威をえたのであります。
「十字架を負う」ということは肉体の抹殺であると共に、時間空間タテ・ヨコ十字を自己の掌中に一つに握っていることをあらわしております。
だから黙示録にあらわれたる白髪(はくはつ)「久遠のキリスト」は「吾れはアルファなりオメガなり。生と死との鍵を持てり」と言っております。
吾々がキリストと同じ自覚に入るとき吾々の中にキリストがあるのであり、時間空間を超えながら、しかも時間空間を一つに纏(まと)めて握っているところのその不思議ないのちの力が把握されるのであります。
吾々は「吾に宿るところのキリスト」を自覚しなければなりません。その時はじめて「吾に汲むものは永遠に死なない」という真理を自己の生命として、体験として自覚する事が出来るのであります。
キリストがこんな話をすると「そんな馬鹿な事はない」と言って当時のユダヤ人が怒ったのであります。現代の日本人にも「そんな馬鹿なことはない」と云って反駁(はんばく)する人もありましょう。その時、キリストは「我はアブラハムの生まれぬ前(さき)よりあるものなり」と宣言せられました。既に三十三歳の肉体年齢のイエスではないのです。
時間空間以前の存在、従って「久遠不滅の自己」の宣言をなさったのです。病気が治るとか治らぬとかどころの騒ぎではないのであります。>>
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