生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第六十八話> (939) |
- 日時:2013年05月01日 (水) 13時49分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第六十八話(通算第394話)
Visualization(想念造形法)に就いて(1)
(『神癒への道』P.199−201)
<< 宇宙大生命には限りがないのである。その知恵にも限りがないのであり、その無限のおはからいにも限りがないのであります。
人間は神の心を自己のうちに宿していまして、欲する所まで自ら行き、欲する所に自ら止まるのであります。そしてそれを自ら限りがあるというのであります。
もし彼が寒い凍(こご)えるような夜に野外に於いてふるえながら佇んでおり、そして風邪をひかぬとも、それは彼が自由人格としての自己自身の権利なのであります。ある人はそこでとどまる。ある人はとどまらないで前進する。そして永遠の天国の輝く暖炉の前にすわって温まるのであります。
だれもほかの人が彼を助けて、暖炉の前にすわらせてくれるのではないのであります。自らが自らの運命を選ぶのであります。
神といえども自己自ら選んで寒い世界にふるえているものを暖かい世界へつれて行くことは出来ないのであります。
人生の行路は自ら選んで自らの世界へ、自らの世界を造るほか仕方がないのであります。自己の航する人生の舟が停泊する所の運命の港は、すべて自己が選択するところのものであります。
だから人間は、自分自身の責任に於いて、自分の運命を定めるのであります。
自分が自分の航海の羅針盤を握っていて、自分自身の舵(かじ)をとって、行く先をきめるのであります。するとその方向へ流してくれるのは、大海原の無限の力であります。
この大海原の力の如きものが大生命であり、決して祈りによって、左右されたり、愛憎によって左右されたりするものではないのであります。舵を向けた所へどんな舟でも流してくれるのが大海原の力であります。これが法則としての宇宙生命の働きであります。
この大海原の如き普遍的な心をメタフィジカル・ムーブメントの学者達は、「宇宙の主体的意識」とよんでいます。その主体的意識は吾々に宿って、「個人に宿る主観的意識」となっているのであります。
本来同じ意識が、宿っているのでありますから、互いに連関があり個人が心に描くことは宇宙意識が自己の中に描くことであり、法則によってこれが実現するということになるのであります。
吾々は宇宙の意識と接続腺をつなげばいいのであって、それによって、大いなる力を自分自身の欲する事物を実現するがために活用することができるのであります。宇宙の力は無限でありますから、どれほど多くの人たちが其の力に目覚めてそれを利用することになろうとも、吾々に与えられるところの力は決して減るということはないのであります。
しかし、一方、吾々は五官の世界に住んでいるのであります。そして五官の世界は、時間空間の制約によって縛られそのなかにいろいろの悩みの波がラジオの波のように輻湊(ふくそう)しているのであります。
神の完全なる智慧の波、愛の波、生命の波が宇宙到る処に充満し、すべての人の中にも充満していながら、しかも吾々は迷いの波に波長を合わせて、その不調和を実現することも出来るのであります。
神は宇宙に充満していて分割することができないのですから、あるところには神が宿り、ある所には神が欠乏しているという事はあり得ないのであります。従ってある人には神が宿り、ある人には神が宿っていないということはないのであります。
すべての人間に一様に神が宿っているけれども、どんなことでも心に思い浮かべる自由を持っているが故に、吾々は病気や不幸のことをも心に思い浮かべ、病気や不幸を実現するのであります。>>
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