生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
トップページへ戻る
↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓
「初心者」はかくのごとく生長の家の『御教え』を否定する! <その33> (971) |
- 日時:2013年05月04日 (土) 10時21分
名前:四万十分析官
「初心者」という人物は、「トキ掲示板」において下記の如く生長の家の『御教え』を否定しているのである。「トキ掲示版」規約には「基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためのサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。」と書いてあるが、一連の「初心者」と名乗る人物は、この投稿規約に反する投稿を続け、管理人氏も未だに一回も注意を与えていない。「初心者」と「トキ掲示板」との関係は主従の関係にあり、この様なところから「初心者=雅宣(自称)総裁」と言われているのである。そして、彼、雅宣(自称)総裁としては、決して公の“総裁”としての立場では言いたくても言えない開祖・谷口雅春先生への反逆の「本音の思想」を「初心者」なる名前を使い、思う存分吐露し続けているとも考えられるのである。この意味からでも、彼のやり口は宗教家として非常に卑怯そのものであり、“総裁更迭”に十分に値するのであり、信徒はもっと声を大きくしなければならないのである。
以下、生長の家の『御教え』を否定する「初心者」なる人物の投稿を転載させていただき読者のみなさんの判断に供するものである。
///////////////////////////////////////////////
「トキ掲示板」より
315 :初心者:2012/10/15(月) 10:11:15
生長の家の根本の思想はなんでしょうか。それもまた、生長の家の根本の思想のではないでしょうか。根本にあるのは、一神教の思想によってその考え方が正当化された、外の世界を自分のおもうようにつくり変えたいとする、大部分の人類に共通する欲求であるような気がいたしますね。こうした欲求を実現するために生長の家が必要とされたのでしょう。生長の家が人々によって必要とされた心理構造をたどっていくと、一神教の思想が実現させた「すべては人間のため」とするロゴス中心主義の考え方にたどりつきますね。
///////////////////////////////////////////////
< 問題点 >
@ この投稿文を書いた「初心者=雅宣(自称)総裁」という人物は、単に理屈を捏ねているだけで、彼自身も『御教え』が完全に理解できていないが故に殊更に難解な表現で自分の理解の不完全さをカモフラージしているに過ぎないのである。
本当に言わんとする事が理解できている人は、出来るだけ日常の平易なことばで表現できるのである。学者でも難解な言葉を使う人は、現実から遊離した理屈の世界で観念論をもて遊び、自分のIQ思想の優秀さを誇示したいだけの人である。
< 生長の家が人々によって必要とされた心理構造をたどっていくと、一神教の思想が実現させた「すべては人間のため」とするロゴス中心主義の考え方にたどりつきますね。> この様な表現は一般人には一体何のことか理解が困難であるといえる。彼の現実生活とは遊離した自己満足の世界の中だけの表現でしかないのである。
A < 生長の家の根本の思想とは、外の世界を自分のおもうようにつくり変えたいとする欲求である >。 「初心者=雅宣(自称)総裁」が、生長の家の真理をこのような軽い意味にしか理解できていないとは、お粗末というしかない。
生長の家の根本思想とは、もっと深遠なわれわれ人間の人生の意義と目的に関する思想であり、人間地上誕生の目的とは何ぞやと云う事に関する根本哲学なのである。『生命の實相』を精読すれば、人間とは「神の子人間」がその實相であり、完全円満にして無限の自由を持つ存在である。無限の自由という神の子人間の円満完全性を色々な形で具体化して無限の歓喜を味わっていくために三次元現象世界へ肉体人間として出現して活動をなし、あるいは四次元以上の霊界に於いても霊体人間(霊魂)として出現して活動する。この活動の舞台は地球だけではなく、宇宙のあらゆる天体である。
これを現象という立場から見ると“霊魂(個性命)の無限の進化向上”の過程をたどって行っていると云う事になる。この過程とは神の子人間のもつ想念の自由によって、無限なる實相を無限に現象化していく過程であり、その実現過程を通して真理(宇宙の法則等)を“生命”そのもの体験として自分のものとして把握して完全な理解に達して行く。
あるいは、自己生命の實相を無限の悟りの過程として体験・把握していく。白隠禅師の如く、大悟十八回、小悟は数知れず、大悟の上にも更に大悟の階梯が無限に続く、この過程(プロセス)は普通の場合、色々な人生苦に遭遇して霊的真理に対する目覚めと解決が起こるというプロセスとなって現われ、それを通して迷妄(迷い)に隠蔽されていた神性が開顕・発現し、完全円満な神の子人間が顕現して来る。
これが生長の家信徒の体験談なのであり、神の愛としての宇宙の仕組み・摂理であると、不肖、私は自己人生の来し方を振り返り理会させて頂いている次第である。
B 然るに、上記のようなことを「初心者=雅宣(自称)総裁」はいとも軽く、< 外の世界を自分のおもうようにつくり変えたいとする大部分の人類に共通する欲求 > と表現してこれが即ち生長の家の真理だと頭脳的理解だけで語るのである。
この表現には、実人生の生々しい生命的体験と求道的追及の生きた迫力が欠けていることがわかるのである。
肉体の頭脳知だけの理解しか「初心者=雅宣(自称)総裁」が出来ないのは何故か?
それは彼自身が今生においては恵まれた環境の中で成長し、深刻な背水の陣を敷かねばならない人生苦に遭遇せず、産経新聞入社も玉置議員のお蔭であり、産経新聞記者時代の挫折のときも生長の家総裁への永久就職口が一方において準備されていたわけである。
従って、彼「初心者=雅宣(自称)総裁」は今生の自己人生において一度も真理によって深刻な人生問題を解決した体験を持たないのである。
そこへプラスするに、自己主張をどこまでも押し通すという傲慢な過去世からの宿業が重なり、心に描いたこと欲望は善かれ悪しかれ必ず実現できるといういびつな自信過剰・驕慢な性格形成となって現れて来たのである。
この潜在意識的想いが基礎にあって < 生長の家の根本の思想は、外の世界を自分のおもうようにつくり変えたいとする欲求 > と結論付けたと考えられる。結局のところ、「初心者=雅宣(自称)総裁」は、私心なき心での真理を求める純粋な求道心と自己反省心が大いに欠如している人間であることがわかるのである。
C 「初心者=雅宣(自称)総裁」は、的外れな“生長の家の根本思想論”を書く前に、下記の開祖・谷口雅春先生の御文章を今一度読んで頂く必要を感ずる次第である。
***************
『神癒への道』P.211−214
<< 現在の光明思想運動、精神力又は心霊力によって、境遇及び肉体的疾患を癒そうという運動は、これを総括してメタフィジカル・ムーブメント(哲学的運動)といわれているのでありまして、それは最近此の哲学者達が一般に承認している一元論的一神論的哲学に根拠をおくのであります。
それが一元論であるというのは、その学説と根拠が、宇宙には唯一つの自然的秩序があり、唯一つの原理があり、唯一つの神があり、全体が神なる宇宙霊によって支配されているという哲学であるからであります。
これが縦の真理でありまして、その横の真理は所謂(いわゆる)観念論的哲学でありまして、一切の現象界の事物は、悉く観念の展開であるとするのであります。すべての現象の形の奥には、その現象と同じ姿の観念的或いは想念的な原型があるというのであります。
このメタフィジカル・ムーブメントが勃興したのは十九世紀の中葉に於いて、アメリカに於いてでありますがそれまでの宗教的指導者達は、どちらかというと、一元論よりも二元論を採用していたのであります。
即ち彼らは、一切のものの終局の本源として霊と物質とを対峙(たいじ)せしめておったのであります。即ち霊が物質なる肉体に宿って、その肉体を操縦し、或る使命のためにその肉体を使用し、用終れば霊はその肉体を捨てて霊界に去るのである。之(これ)を肉体の死というのである。
之が即ち十八世紀の中程までの宗教の見地であったのであります。之に反して、当時勃興しつつありし科学は、唯物論的一元論を採用して、物質のみがすべての存在の終局原因であり、その物質の作用が生命(いのち)の現象であり、物質をはなれて、生命も精神も、あり得ないと説いたのであります。
この唯物論なるものには何ら理想的なるものは認められない。生命は唯(ただ)、物質の過程又は作用にすぎないのであるから、永遠の価値などというものはどこにも存在しないのである。というような無理想、無解決の人生観が幅をきかせていたのであります。
そこで在来の肉体の外に、自主的な霊が存在するという宗教的なものの考え方と、霊などは存在しないのである。物質の解体と同時に精神現象は消滅してしまうものであるとの二つの見解の間に結局理論的闘争が行なわれる事になり、その闘争の新たなる解決者として現われたのがこの新しきメタフィジカル・ムーブメントだと観ることが出来るのでありまして、此の新しき哲学は二元論的宗教論にも一部分反対しつつ、その中の霊的存在を認める方面にのみ賛成し、同時に唯物論を否定しながら、一元論を採用して、霊的一元論ともいうべき哲学を展開したのであります。
この哲学は、今までの哲学が或いは象牙の塔上の空想的哲学であったり、或いは机上の空論であったりした欠点を補って実証を携えて登場したのであります。
この哲学運動の創始者は所謂る光明思想家群であって、各々類似の学説と実証とを携えて、或いはメンタル・サイエンスと称し、或いはスピリチュアル・サイエンスと称し、或いはリリジャス・サイエンスと称し、色々の名称を附したものでありますが、互いに手を携えてその運動を展開したのであります。
彼らは言います、「唯物論者は、凡ての事物の根源は一つでなければならないという点に於いて正しいのである。然しながらその一つの根源は『霊』であって、霊のみが唯一つの存在であり、物質は霊のある法則に於ける現れ、『現象』にすぎないのだ」と主張するのであります。
この運動は最近の新興物理学の進歩によって、物質が一定の形態を備えた空間的容積を備えた空間的容積を有する存在ではなくそれはエネルギーの波動に還元さるべきものであるという学説にバックされて、科学と宗教との間の闘争を調和せしめつつあるのであります。この立場に於ける思想は今日メタフィジカル・ムーブメントの人たちによって、支持せられているのみならず、多くの一宗一派に偏らない宗教のリーダー達によって採用されているのであります。生長の家の哲学もこの新しき科学と調和する哲学を採用して出発しているのであります。>>
-
|
|