生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第七十三話> (985)
日時:2013年05月06日 (月) 13時22分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第七十三話(通算第399話)


 
人を癒すには如何に念ずるか(3)

(『神癒への道』P.216−221)




<<(つづき)それにはいろいろの随伴的な原因があるのであります。

(1)<人を赦していないこと>

 聖書のマタイ伝第五章二十二節にも、「然(さ)れど我は汝らに告ぐ、すべて兄弟を怒る者は、審判(さばき)にあうべし。また兄弟に対(むか)いて愚者(おろかもの)よという者は、衆議にあうべし。また痴者(しれもの)よという者は、ゲヘナの火にあうべし、この故に汝もし供え物を祭壇にささぐる時、そこに兄弟に怨まるる事あるを思い出さば、供え物を祭壇のまえに遺しおき、先ず往き手、その兄弟と和睦し、然るのち来りて供え物をささげよ」とあるのであります。

又最近ムウズリ氏が『イエス・キリストの新癒』と題する本の中でニューヨーク州ジェームス・タウン・ワイルドウード街九十六番フレンド・シー・カールソン氏がある偶然の出来事でこう思った。

恐ろしい外傷が、その災害を惹き起こした責任者である人を赦(ゆる)したときに、たちまちその外傷が癒されたということを書いています。キリストは「七度を七十倍たび赦せ」といっているのであります。猫の子を助けてやろうと思って、或る猫好きの人の所へ子猫を連れて行く途中で子猫が暴れ出して、その婦人の右腕を激しく爪で引っかいて血を流した。そこからバイ菌が入り、激痛と共に、その腕が腫(は)れ上がったので、医者の診断を求めると、これは敗血症になる恐れがあるから、一刻も速やかにその腕を切断しなければならぬと、医者に診断され、重大事であるので、一応家に帰って、夫に相談したところ、夫が生長の家の信徒であって、一応生長の家の信仰をもっている医者の所へ相談に行けとすすめられ、そこへ行って診断を求めると、「あなたはこの怪我をさせた子猫を恨んでいるでしょう」と指摘せられた。

「痛むのは憎む心である。発熱して腫れるのは怒る心である。その憎む心、怒る心を捨てなさい。そしてその猫を赦しなさい。赦す以上に感謝しなさい。自分の心の中に、人の深切を無にして、あべこべにその人を傷つけるようなそんな心のあることをこの猫が知らせてくれたのだ。ありがとうございます。と感謝する心になりなさい。今晩寝床でそういう感謝の言葉を唱えながら寝なさい。そして翌(あく)る朝もう一遍診察にきてごらんなさい」と教えられた。

彼女はその通り実行して、翌朝目がさめると、その医師の所へ再び診察を求めて来たが、その時には腕の痛みも、発熱もなくなって、すっかり癒えてしまっていたのである。この様に赦す働きは、切断しなければならなかった片腕を助けたのであります。

その外原子爆弾で火傷を受けて、皮膚が糜爛して赤むけになっていた顔が、その災害に腹立て怨む心をすてさって自分の心の影であったと感謝する気持になったときに、その赤むけの見苦しい皮膚が美しい肌理(きめ)の細かい皮膚に一ヶ月中に変わってしまった実例もあります。


(2)< すべて隠している所の罪悪はそれを告白しなければならない。>

 『生命の實相』の「懺悔の神示」(頭注版『生命の實相』第三巻8頁)にも「汝らのうち病める者あらば、吾が教えの先達の許に来りて祈りを乞い神想観の指導を頼め。わが教えの先達は吾がことばを受けたるものなれば、彼の言葉汝を癒さん。心に省(かえり)みて罪ありと思うものは、教えの先達に包むところなく懺悔すべし」と書かれてあります。

総て懺悔する者は神の赦しを得、自己の心の中に広がっていた罪を流し清めてしまう事になるのでありますから、精神分析治療と同じような効果を現わすのであります。ムウズリ氏は前記の著書の中で、或る集金人が集金してきた公(おおやけ)の金の一部をくすねていたということを告白した時に、彼の病気が癒えてしまったということを発表しています。そしてその人は却(かえ)って雇い主から信用を博して再び雇われることになったと書いています。


(3)< 自分の生活をできるだけよき目的に使うこと、及び使わしめ給えと確に祈りそれを実行すること。>

 いのちを働かさないものは、生命が生きないのであります。人間が地上に生を受けてきたのは、地上に於いて或る使命を果たさんが為でありまして、その働きを拒むものは、地上に生存する理由がないのであります。また働くにしても、利己目的にのみ働くものは、神の御心にかなわないのであります。

従って病めるものが、どんなに思念しても癒されないときに「私の体を神様、あなたに捧げます。もしこの病がみ心によって癒されましたなら、必ず神さまのお道を伝える布教師にならせて頂きます。こう真心から念じて癒される場合は多いのであります。天理教などでは、すでに医者が絶望と宣告した場合、「この病気が癒されましたら教会を開かせて頂きます」と誓わせて、病気を治すことのあるのであります。吾々は肉体を我欲の容れ物としてはならないのであります。神の生命(いのち)の容れ物として、最高の目的のために、神の道を伝えるために使わなければならないのであります。


(4)<病気を心につかんではならない、>

病気を心につかめば心で病気を養うことになるのである。心を神の方にふりむけることが神の生命(いのち)を養う事になるのであります。ムウズリ氏は、その著書の中で、鼻の上に癌のできた友人のことを書いています。

そこに、熱心なクチスチャンが集まって癌の患者をとりまいて、終日祈祷(きとう)をする事になったのであります。グループの人達は、彼女の癒えるために祈って、「イエス・キリストの名に於いて鼻の上に膏油(こうゆ)をそそぐ」と念じました。そしてその患者に対して、「鼻のこと、癌のことは悉く忘れてしまいなさい。そしてただイエスにのみ心をそそぎなさい」と言ったのであります。

いわれた通り、患者は鼻のことを忘れました。ただイエスにのみ心を注いでいたのであります。すると、気が付いてみると、鼻にある癌は何時の間にか消滅して痕跡を留めずになくなっていたと書いています。

生長の家の信徒で岩国に中島さんという人があります。その人が産んだ女の子が鼻の先に真っ赤な“あざ”があって、子供が成長するとともに、その“あざ”は段々大きくなり、普通の皮膚の所よりも盛り上がってふくれていました。

私はその宅に泊めて頂いて如何にすればその“あざ”が治るかという事を尋ねられたのでありますが、私は『甘露の法雨』をよみなさいと指導しました。ところが、その子の母親曰く「ある人からその様に教えられて毎日『甘露の法雨』をよんでいますが、段々“あざ”は大きくなるばかりです」と答えるのでありました。

そこで私は「あんたは『甘露の法雨』を一遍読んだら、もうどれだけ“あざ”が小さくなったであろうかと、その“あざ”を見つめるのでしょう。“あざ”をみつめていると“あざ”は消えるものではないのです。“あざ”から心を離しなさい。そしてただ『甘露の法雨』を感謝の心でよみなさい。そうすれば治ります」と申しました。約一年の後、私は岩国へ行って同じ家に泊めて頂きましたら、その幼児の鼻の先にある“あざ”は痕跡(こんせき)もなく消えていました。

それに似たような話をムウズリ氏は書いています。聖書のマルコ伝を披(ひら)いてその上に片手をおきもう一方の手を癌の上において「癒しの業(わざ)をなし給うのは神である。この婦人はただすなおに神の御心に従うのである」と念じて暫くしてみると、忽然(こつねん)としてその癌が消え失せていたという実例であります。>>






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