生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第七十七話> (1044)
日時:2013年05月12日 (日) 10時24分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第七十七話(通算第403話)


 
物質及び暗示療法と真の超物質治療との相異(3)

(『神癒への道』P.230−234)



 ある日、生長の家の吉田国太郎氏が、この人はかって腎臓結核を患(わず)らい、一方の腎臓を摘出し、その後残っている腎臓も悪くなり、病状思わしくなくなり、その時生長の家に入信し、その後十数年間伝道に従事している人でありますが、時に自分の心境に従って、ただ一個残っている腎臓が病気を再発して、血尿を出したりするのであります。が、それでも一向平気に働いて、心境の変化と共にその病気を乗り越えて行く人であります。

終戦当時吉田氏は私の宅の一室に疎開(そかい)してきていたのでありますが、終戦後になって我々の家では戦争中に土を掘って埋めておいた木炭を数俵掘り出すことになった。

私は吉田氏を助手として、二人力を合わせ、一間(いっけん)ばかりの深さの土をショベルで掘り上げて、その木炭の俵を発掘したのであります。吉田氏は営々として、土を掘ったり、俵がくずれてばらばらになっている木炭を木の箱に移し入れて運んだりして随分力仕事をしてくれたのでありますが、後で聞いてみると、吉田氏は、その作業の前から、腎臓結核が再発したと見えて血尿を出していたのであります。私はそれを後で聞いて、そういう重大な病状の中に、肉体の重労働をさせたことを気の毒に思いましたが、それっきりその病状は消えてしまったのであります。


 その後約二年半の後、吉田氏は又激しい血尿を見たのであります。いままでも血尿を排泄したのでありますが、今度の様にはげしい血尿は、入信前に一方の腎臓を切除したその直前の病状と全然同じなのであります。血液が濃厚なために、血液が尿道口で凝結して尿閉してしまう。あの入信前の手術直前の時には、血液を溶かす注射などをして辛うじて排尿したのでありますが、今度は、それと同じ症状でありながら、もうその翌日は小田原で光明講座の講演をしなければならないことにプログラムがなっていたのであります。

もし自分が行かなければ、聴講料を払って、その日の仕事を休んで出席しようとしている人に迷惑をかけることになる。しかし自分が講演に病をおして出席すると、主治医を携帯する訳でないから、その濃厚なる出血が尿道を閉鎖してしまう恐れがある。病気の苦痛はどんなに頑張って忍ぶことができるにしても、尿の閉鎖ばかりはとても忍ぶことができない。やはり医者を呼んで何とか処置して貰うより仕方がない。神によって癒される真理の光明講座を講演する先生が、その聴衆の真直中(まっただなか)で、どうにもならない病気にかかって、医者よ注射よと騒ぎ廻って、生長の家の“恥さらし”をするようなことがあっては、ただの物笑いになる事だけでなく神の名をけがすことになる。如何にしたらばよかろうか。

吉田氏はもう絶対絶命の境地に立ったのであります。氏はその晩眠る時に神想観をし「神の生命(いのち)吾に流れ入って、全身はすでに癒されたのである」という想念をつづけ、最後に「神よ、み心のままにならしめ給へ」と萬事を神に全託して眠りに落ちたのであります。

すると眠っている間に、キリストの姿が現れた、そのキリストは吉田氏の腎臓部に両掌をあてて、静かに気持ちよく按擦(あんさつ)してくれるのであります。夢の中では吉田氏は寝床の上にすわっていました。背後(うしろ)から気持ちよくもみさすってもらっている中(うち)に目がさめたのであります。

普通夢というものは、目が覚めると、その瞬間は鮮やかに見えていた印象が、速やかに消え去ってしまうものでありますが、その印象は目が覚めた後までも尚はっきりと残っていた。手のひらの温かい感触、腰を揉(も)みほぐされる時の何ともいえない好い快感、それが目がさめた後、いつまでも何時までも具体的に腎臓部に残っているのであります。

 吉田氏は「癒された」とその時自覚しました。感謝の神想観をして、小田原の光明講座へと出発したのであります。血尿が赤くもの凄い色を呈しているものですから吉田氏は小便所では排尿しないことにしていました。大便所で人知れず排尿していたのでありますが、途中一回乗り換えの駅で排尿した時には、癒されるまでに溜まっていた血液だと見えて依然として血尿が沢山排泄されましたが、その次に排尿した時には、少しの血液もまじらない透明の尿が排泄されたのであります。


この実例によってみましても、宇宙は唯一つの神の生命(いのち)とつながっている。それを受けいれるような心境になったとき、無限の力が流れ入って来て、そしてどんな病気でも癒されない病気はないということがわかるのであります。

吾々は真理を知ってもただ知るだけでは何にもならないのであります。法則を使わなければならない。法則を生活に実践しなければならないのであります。>>






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