生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その21> =姓名の吉凶について= (1081) |
- 日時:2013年05月15日 (水) 15時02分
名前:信徒連合
開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その21>
=姓名の吉凶について=
『生命の實相』第15巻・人生問答篇(P.147〜152)
生野:
先日、相性の吉凶、日の吉凶、方角の吉凶の話は承りましたが、姓名の吉凶はどうでございますか。私はある親友から姓名学をききました。個々人の姓名によってその運命を支配する、すなわち数理によって運命が成立し支配されていることです。そしてよく的中します。知人の二、三を判断させるにその過去とその人の生涯の成り行きがかなりよく的中します。この姓名判断なるものの数理に対する懸念を強めます。この姓名判断に対する先生の御見解はいかがで御座いますか。実はわたしの弟が目下病気で静養中です。名前が悪いというものですから気にかかっているのです。
谷口:
姓名がよくないので病気に罹(かか)るのでしたら、姓名も何も改めないで『生長の家』や『生命の實相』をお読みになるだけで自身の病気が治ったり自分がお読みになるために家人の病気が治ったりする事実をなんと御解釈になりますか。
これはわれわれの生命の實相(ほんとのすがた)が神より出たものであって、本来自由自在な円満完全なものであるということを自覚なさったならば人間はどんな形にも縛られなくなり、生命本来の完全な相(すがた)を形にもあらわすからです。
有名な観相家石龍子(せきりゅうし)も「人相は信仰生活に入らないまでの人には的中するが、信仰生活に入った人には的中しない」と言っています。
人相も、姓名も、家相も、体相も、健康状態も、およそ形なるものは、われわれの過去からの念(こころ)の集積の形象化(かたちか)したものであります。「念は形に化す」これは「生長の家」で説かれている真理でありまして、過去からの念の集積は形に化して、肉体となり、人相となり、家相となり、姓名・・・となります。
一切形あるものは、念(こころ)の集積の形象化であるからです。だから姓名が人間を健康にしたり、病気にしたりするのではなく、あなたに潜在する念(運命の原動力)の集積が、一方では姓名となり、他方では健康状態とも顕われているのでありますから、姓名という形相も、健康状態という形相も、元は一つのものの顕われでありますから、互いに相互的関係があるので、姓名という形相を見て健康状態を卜(ぼく)することもできるのであります。
人間は生まれると一定の姓名を与えられ、また大体一定の人相も備えていますが、これはその人間の霊魂が現世に生れるまでの過去生活において得たる念の集積(業ともいいます)が形に出ているのであって、業(ごう)というものは自動的に流転する一種の波動ですから、われわれが自身の生命の實相を自覚し、真理を悟って超越しない限りは、業の自転する力によってわれわれの運命は生まれた時にはすでにその大体が定まっているといってもよいのです。
だから、人相を見てその人の運命を言い当てることができる、姓名を見てその人の運命を言い当てることができる――これは当然であります。ところが病気とか不幸とかを起こす念は妄念であるが、妄念に捉われている人から観れば厳然たる存在でありますのは夢見ている人にとって夢が確乎たる存在であるごとくでありますが、真理の上から言えば根底のない存在であります。
なぜなら神はそのような病気とか不幸とかを造り給わないから、それを起こす「念」も真存在ではなく、偽存在、空しき虚の念(こころ)、妄念なのであります。だから真理を知り、自分の生命が神の子であって自性円満なものであるという實相を自覚すれば、業の流転から超越することになるのです。
そうなりますと、その人の運命は観相家が観ても当らない、姓名判断の大家が観ても当たらない。自分の「生命」が自由な真理の世界へ出て<過去に捉われない自由創造を続けてゆく>からです。この自由創造の働きとして人相もそれに追随して変わってくることもあり、姓名も自然に変えたくなり、変わってくることもあります。
ある名優は舞台で上演する役々によって、この肉体の人相の上にまで実際の変化を及ぼし、敵役をやったのちには舞台を下りて数時間のちまでも悪い人相をもちつづけ、善役を演出したのちにもまた舞台を下りて数時間その善き人相を持ち続けるので、観相家をおどろかすことがあります。
ある名優が知人の観相家を訪れたところが、その名優が危険身に迫るような人相をあらわしているので、観相家はそれを相手に言ってあげようか、言ってはかえって気を悪くしていけないだろうと、とつおいつ思い惑ってそれを言わずにいたところが、また、次の日にその名優がその観相家に出会った。観相家がしげしげ相手の顔を見るとその名優は前日に引きかえ今日は非常に寛厚な善い人相をしているのである。あまりその変わり方が激しいのでますます不思議に思って、現在の人相の非常に善いこと、前日会った時は非常に人相が険悪であったことを話すと、「あの時には舞台で悪役をしていましたが、今は忠臣蔵の内蔵助をしているからです」とその名優が答えたそうです。これは小林参三郎氏の著『自然の名医』中に載せられている実話です。
この例でもわかるように人相は固定したものではなく、精神内容の変わるに従って変わるものである。この現在悪しき人相をしている人も悲観するに当たらず、善き人相をしている人も慢心するに当たらないのです。
家相でも地相でも同じことで、ちょいとした樹木の植え方、石灯籠の位置、家具の列(なら)べ方などの変化によっても善い家相が悪くなったり悪い家相が善くなったりするものですが、それを一所懸命に研究して善い家相の家に移転しようとがんばってみたところが、自己の精神内容が貧弱であり、善い家相に住むに相応しい精神内容に達していない時には、善い家相の家が見つかっても移転できない事情が生じたり、たとい移転できましてもちょっとした造作の具合で、善い家相もその実、悪い家相になっていて、それが心づかなかったりするものです。
心をあとにして形ばかりを追うている者は、とんだ失敗を演ずるものです。心が整い、自然に人相のよくなるような人は、また自然に善い家相に住むように事情が運(めぐ)って来、善き家相の家が誂(あつら)えたように見つかるとか、今までの家に住んでいても、自然に、物のならべ方や造作の仕方などにも、生き生きとした光明が見えて来、家相が一変してしまうのであります。
だからこの変化はどこまでも真理を知った上での自由創造の働きとしてそうなってくるのでなければ力がありません。「人間の生命は形に縛られたものだ」という迷い捉われている結果、姓名を変えられるような方は、いかに生命を変えてもやはり不幸が不随しますので、この姓名も欠点がある、あの姓名も欠点があるといって、始終転々として姓名を変えながらなお安住を得ないで、その不安の念がさらに次の不幸を起こす集積となることがあります。
姓名が「生命」を支配するのではなく、あらゆる形象は「生命」が進軍して行く際に周囲に投影した“念の影”でありますから、「生命」こそ“主”なのであります。生命の自由創造として人相が自然変わるならば、それもよろしい。生命の自由創造として善い家相に住むようになれば、それもよろしい。生命の自由創造として改名したくなったり新しい屋号や雅号をつけたくなるならば、それもよろしい。
しかしいかなる場合にも、われらは「生命」が主であって、いっさいの形相は従だということを知らなければなりません。
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