生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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「初心者=雅宣(自称)総裁」はかくのごとく生長の家の『御教え』を否定した! <その37> (1177) |
- 日時:2013年05月24日 (金) 11時34分
名前:四万十分析官
「初心者」という人物は、「トキ掲示板」において下記の如く生長の家の『御教え』を否定しているのである。「トキ掲示版」規約には「基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためのサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。」と書いてあるが、一連の「初心者」と名乗る人物は、この投稿規約に反する投稿を続け、管理人氏も未だに一回も注意を与えていない。「初心者」と「トキ掲示板」との関係は主従の関係にあり、この様なところから「初心者=雅宣(自称)総裁」と言われているのである。そして、彼、雅宣(自称)総裁としては、決して公の“総裁”としての立場では言いたくても言えない開祖・谷口雅春先生への反逆の「本音の思想」を「初心者」なる名前を使い、思う存分吐露し続けているとも考えられるのである。この意味からでも、彼のやり口は宗教家として非常に卑怯そのものであり、“総裁更迭”に十分に値するのであり、信徒はもっと声を大きくしなければならないのである。
以下、生長の家の『御教え』を否定する「初心者」なる人物の投稿を転載させていただき読者のみなさんの判断に供するものである。
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「トキ掲示板」より
356 :初心者:2013/01/30(水) 11:01:37
ひとつの世界をふたつに割るのに重要な役割を果たしているのが言葉なのです。もともと一元論の世界に「川」はありませんでした。「カワ」という言葉がこの世界をまっぷたつに割ります。すると、それまでどこにもなかった「川」があらわれてきたのです。言葉に意味があるとはどういうことでしょう。それは、「川」ははじめからそこにあったと考えることなのです。言葉があらわれるまえに、すでにそこにあった「川」にあとから「カワ」と名前をつけた、と考えることなのです。「川」は、はじめからそこにあったのでしょうか。ちがいますね。言葉がひとつの世界をふたつに割ります。すると、それまでどこにもなかったはずの「川」があらわれてきたのです。言葉には意味がない。以上がその理屈です。直観把握だと、どうなるのでしょうね。
358 :初心者:2013/01/30(水) 12:48:07
ところで「人間神の子」ですが、これは雅春先生が、この言葉によって世界をふたつに割ってみせられたということです。ということは、雅春先生は、すでにある世界を言い当てられたのではなく、ふたつに割ることで新しい世界を創造なさった、ということになるはずです(これが「言葉には意味がない」ということです)。・・・しかしたとえ雅春先生の割り方が正しいものであったにしても、「永遠不滅の絶対的真理」、「真の生長の家」、「虚説」といった言葉で、雅春先生が創造された世界をさらに割ってみせるというやり方は、わたしには正しい割り方とはおもえないので反発を感じざるをえないということです。
2225 :初心者:2013/01/30(水) 10:43:06
やがて、常識のほうが「真理」を超えていくでしょう。「真理」は不変ですが、常識は 進化します。いちぶの常識は、これから「真理」を超えていくだろうと考えています。
363 :初心者:2013/01/31(木) 11:20:24
わたしは、ほんらいの世界というのは形のない世界だと考えています。それは波動の世界であり、形のない流体的世界であると考えています。その形のない世界が、なぜいま見えているがごとき、形のある世界として見えてくるのか、これを問題にしております。ほんらいの川」があるとすれば、それは波動でありますから、形のないものであるはずです。その形のないはずの川が、形のある「川」として見えております。いったいどのような過程をへて川が「川」に見えてくるのか、これを問題にしております。川が「川」として見えてくる過程でなにが起きているのでしょう。「カワ」という言葉が、「川」を形あるものとして見せるのに重要な役割を果たしていると考えています。
364 :初心者:2013/01/31(木) 13:02:21
「言葉には意味がない」ということは、理論理屈でそれなりのところまで話せますけども、究極的には理論理屈を超えた世界ですので、自分で悟るよりほかはない世界であるともいえます。・・・理論理屈は、人間どうしの共通の土俵ですよね。理論理屈を超えてわかりあえるものどうしであるならいざしらず、そうでないものどうしの対話ということになれば、直観把握をいたずらに持ち出すのではなく、理論理屈でいけるところまでいくしかない、というのが人間世界のありようではないかと考えます。
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<問題点>
@ この一連の「初心者」の投稿文の特徴は、理屈の世界から真理に迫っていこうとしていることである。この態度は、求道の世界や信仰の世界では完全な誤まてる接近態度である。雅宣(自称)総裁と瓜二つ。故に、「初心者=雅宣(自称)総裁」である。
A 次のような「初心者=雅宣(自称)総裁」の議論・理屈は、病悩苦からの実際の解放を求めている人にとっては何の効果もない文言である。救済の世界には縁のないものばかりである。また、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を否定をもしているのである。以下の言葉(フレーズ)は「雅宣(自称)総裁」としては、辞職して然るべきマチガッタ見解である。
* >言葉に意味があるとはどういうことでしょう。言葉には意味がない。<
* >「人間神の子」、これは雅春先生が、この言葉によって世界をふたつに割ってみせられた。<
* >「永遠不滅の絶対的真理」、「真の生長の家」、「虚説」といった言葉で、雅春先生が創造された世界をさらに割ってみせるというやり方は、わたしには正しい割り方とはおもえないので反発を感じざるをえない。<
* >やがて、常識のほうが「真理」を超えていく。<
* >ほんらいの世界というのは形のない世界だ。<
* >直観把握をいたずらに持ち出すのではなく、理論理屈でいけるところまでいくしかない、というのが人間世界のありようではないか。<
B 「初心者=雅宣(自称)総裁」は、『生命の實相』を真剣に読んでいないことがよくわかるのである。(こんな人が自称にしろ「法燈継承者・総裁」であること自体が、根本的に間違っているのであり,“総裁の更迭”は必ず成し遂げなければならない。) 真剣に読んでいるならば、この様な理屈を述べることが求道と進行の世界においては不必要である事が分かるはずである。
< 『生命の實相を読むときの心構え >
開祖・谷口雅春先生は『生命の實相』のなかで次のように説かれているのである。
☆☆☆ ・「生命の実相」を読むときの心構えは、「丁度、吸い取り紙が水やインクを素直にそのまま吸い取ってゆくような気持ちで読まねばなりません。」
・仏典を論ずることと仏の教えを悟ることとは異なる。本当の悟りの世界へ飛び込もうと思うものは、語学や考証の世界を一躍して「久遠を流るるいのちとしての釈迦・キリスト」そのものの中へ飛び込まなければならないのです。
・真理は霊的に理会することが必要です。頭で真理を理会するということは、真理の周囲を堂々巡りして真理の外的な姿を知るに過ぎません。霊的に真理を理会するということは、「生命の実相」そのものに全身全霊をもって貫き入り力の本源をつかむ事、黙読する・朗読する・目で読み・声で読み・声のリズムの中に自分を溶かし込んで読む、そして静かに端坐して「神想観」を行じ、行じ終わって動き出すとき神(愛)の生活を活きる。かくする時、知恵と愛との揃った生活が実現する。「生命の実相」の全身全霊による反復熟読と「神想観」の実修によって運命をも修正・開拓できるのであります。 ☆☆☆
C 「初心者=雅宣(自称)総裁」は、開祖・谷口雅春先生の『御教え』に真っ向から反逆する事をいっているのである。即ち、<< 言葉に意味があるとはどういうことでしょう。言葉には意味がない。>> と云っているのである。これは洵に許しがたい発言である。「コトバ」について開祖・谷口雅春先生はどのように説かれているのであるか。私たちはこの機会にあらためて学びなおす必要があると思うのである。『真理』第四巻、青年篇・第十三章<言霊(ことだま)の神秘について>を引用転載させて頂きます。
「コトバ」とは何であるか(P220〜222)
<< ヨハネ伝には「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき」とあります。そして一切のものが言(ことば)によって造られたと書かれているのであります。
それでは言(ことば)とは一体何であるかと云いますと、宇宙の太初(はじめ)にはむろん肉体人間は存在しませんから、人間の唇から出る言葉でないことは明らかであります。
これは宇宙に満つる霊(たましい)の振動であり、生命の活動であります。宇宙大生命が波動を起した(大生命は生きているから動くのであります。)しかし物質はまだ顕われていないから物質の形では動くことが出来ない。そこで心で動くのであります。
心が動くと言うのは「想念の波」を起すと云うことであります。ちょうどラジオの波のように宇宙いっぱいひろがった想念の波が起るのであります。ラジオの波は電波のままではわれわれには聞こえませぬけれども、既にコトバであるのであります。その電波がやがて吾々の耳に聞こえる波動(スピーカーの音)となったり、眼に見える形(テレヴィジョン)となったりして顕われて来ますように、宇宙に満つる大生命の波動が想念即ちコトバであって、それがやがて形の世界にあらわれて来るのであります。
だから事物の本質とは何であるかと云うと、此のコトバでありまして、形ではないのであります。ラジオの声の本質は電波であって、形ではないのと同じであります。
そこで事物の本質はコトバであるから、吾々が素朴な心になって事物に接するとき、その事物のコトバ通りの発音を自然に発声し名づけたくなるのであります。例えば雨が「“シ”ト“シ”ト」と降るとか、小便を「“シ”ー」と言うとか、水気(みづけ)を含むことを「“シ”メル」というとか云う風にであります。
だからコトバで名づけると云うことは、そのものの本質を表現するのであって、たんなるAでもBでも好いと云うような符牒ではないのであります。
だから人間の自然発生のコトバは、事物の本質を自然に表現していることになります。人間のコトバが事物の本質を表現していると云うことになりますと、人間が言葉を出すと云うことはラジオ・セットがある波長を起すのと同じことで、宇宙に満ちているコトバの活動を其の位置に於いて感覚世界に発現することになるのであります。だから苟(いやしく)も、悪しき言葉を発現すると云うことは慎まなければならないのであります。
特に日本の語(ことば)は自然発生がもとになって出来た言葉でありますから、天地自然の韻(ひび)きを受容(うけい)れているのでありまして、その語源又はその語(ことば)の本質的意義を探るのに大変に便利であります。拙著『日輪めぐる』の本の中に言霊(ことだま)の詳しい意味を書いて置きましたから御参照願います。>> 以下、「ア」の言霊〜「ヲ」の言霊まで(P.222〜294)あり。
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