生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第八十三話> (1182)
日時:2013年05月25日 (土) 14時55分
名前:信徒連合



生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇



第八十三話 大宇宙ロマン人生への飛翔(その5)



『霊界の妻は語る』十二使徒の一人よりの霊界通信(P.456−45)



<第二回>



<< そして此れが現今諸君の世界の到るところで起こりつつあるところのものである。“永遠の生命”は諸君の地上のどんな小さな片隅にでも見出される――それは“父”(神)の組織的な計画である。

子供たちよ、諸君は“彼の宇宙に対する“彼”のプランを前進せしめることが出来るのである。“彼”の法則は完全である。そして法則は人間によって左右されない。諸君が原因をつくれば、その生涯を通じて諸君は結果を受けるのである。

“父”とは何であるか?諸君の“父”が諸君に賦与した此の力とは何であるか?それは内在する大いなる愛の力である――地上の人々が説くような愛ではない。自我のない愛、無我の愛である。迫害せられても出て往きて相手を赦すような大なる愛である。そしてイエスの如く自己を悩め責むる者を赦して「父よ、彼らを赦したまへ、彼らは為すことを知らざるなり」と教えのために断じて祈らしむる勇気を与うる如き愛である。これこそ諸君が地上に於いて如何に力を用うべきかの道である。何事を為すにも自我無くして行へば、全体に恵福を与えることになるのである。

私にあたえられたところの此の大なる愛の力をもって私は何を為しつつあるか? わたしはこの生活に“父”が私に斯くあるべしと欲し給うたところの愛を注ぎ込みつつあるだろうか? そして愛は力であるか。まことにも力である!もし諸君が愛の此の大いなる力を、諸君の行為の中に、敵に対してさえも用いるならば諸君は失えるものを回復し、悪を克服するであろう。

 子供たちよ、諸君は大いなる力を持つのである。――それは創造的な力である。その力を充分保護せよ、何故なら諸君の生涯そのものは想念の世界であるからである。吾々の言葉は想念である。吾々の考えること全ては見えるように現れ知られるのである。それは地上の如くではない。吾々は歯に衣(きぬ)着せることは出来ない。吾々は一事を言葉にあらわして、その反対の事を心に思っていることは出来ない。諸君は想念を正しく使うように充分気をつけよ。

 子供たちよ、戦いに従事していた。そして人間は想念の創造的力をわすれた。人間は大なる力を与えられていたのである。そしてその力は建設的にではなく破壊的に使われた。そして何が起こったか?諸君は地上のすべての人類の感情と知性の中に恐怖心を吹き込んだのだ。高き位置にある地上の人間はテーブルを囲んで平和のサインをした。平和は一片の紙の上に一個の人間が署名をすることによって来るものではないのである。平和は“内”より来るのである。平和は相互の理解と信仰とによって来るのである。

諸君は今日の青年を非難する。吾々は霊界に於いて今日の地上の青年が如何に悪化しつつあるかを耳にするのである。何を諸君は予期するか?併し、如何なる範例を大人は青年に与えたか?彼等は戦争を――人類の兄弟と兄弟とが血を流して戦うのをみた。青年は諸君の想念をキャッチしたのだ。子供たちよ、戦争のヴァイブレーションの中には、そもそもの初めから愛がないのであった。だから諸君は諸君の想念をキャッチした青年から愛を期待することが出来ないのだ。愛は諸君自身が諸君の生活の中に愛を示すのでなければ、近寄っては来ないのだ。

諸君の教会に於いて、諸君は神は“愛の父”であり、吾々は“彼”の子たちであると説教する。而(しか)も諸君の説教のうちに於いて、今なお神は“復讐の神”だと説かれている。子供たちよ、愛の“父”が復讐をなすであろうか?否!諸君の教会は“父”に捧げられたる美しき殿堂である。そして諸君はその中へ平和のいのりをし、黙想をしに行くことが出来る。

併し諸君は皆此の神に吹き込まれたる愛を携えて教会へ行け、而して諸君自身を、善と、そして人のために尽くす愛の力を以って満たせよ。諸君は地上に平和を、そしてすべての人間のあいだに善意を求める。子供たちよ、諸君は神のつくりたまへる此の地上にあまねく平和の種を蒔くのでなければ平和をもつことはできないのである。愛と平和とがなければ、人種の差別や宗教の差別を超えて、人類を兄弟としては見ることはできないのだ。

 吾々人類は、一つの“父”より生まれたところの“一つの家族”である。吾々の宗教的信条や皮膚の色は問題ではない。問題であるのは吾々の生活をどうするかだ。諸君の世界に於いて人類の無智より生じたところのすべては、光を受けたところの諸君によって破壊せられねばならない。併し諸君は如何にしてそれを為すか?諸君が何処へ行こうとも、諸君自身の生活のうちに諸君自身の行為のうちにだ。地上到る所に、それを為す道具はある。或る者は大いなる仕事を、或る者は小さなる仕事をうけもっているが――すべて“父”のための仕事を為しつつあるのである。

 破壊するのではない。彼らが光の道に導かれますようにと祈れ。“彼らが小さい光でもよいから誰かを助けるように光を投げかけますように”と祈れ。諸君の地上に此の大真理はは遍(あまね)く行きわたっているのであるから、その大真理に目覚めた者は光の把持者である。だから互いに兄弟として愛が存する筈である。諸君は大なる責任を持つ。そして諸君の責任とは、善意と深切の種子を播くことであるのである。







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