生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第八十四話> (1208)
日時:2013年05月28日 (火) 14時15分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇



第八十四話



 大宇宙ロマン人生への飛翔(その6)



『霊界の妻は語る』十二使徒の一人よりの霊界通信(P.460−464)



<第三回>



 イエスは如何に語ったか? 私はイエスをその当時から知っている。彼は何を為したか?「汝らのうち若し罪なき者あらば、先ず彼女を石にて批(う)て」と彼は言った。彼は何と云う聡明さであったろう。彼は罪を犯さない者は一人もないことを知っていたのである。

而(しか)も毎日諸君は、諸君の祈りの際に、「神国(みくに)を来らしめ給へ、神意(みこころ)の天に成るが如く地にもならせたまへ--------吾らが彼らの吾らに対する過ちを赦すごとく吾らの過ちを赦したまへ」と誦(とな)へるのである。

吾らはイエスによって教えられた毎日の祈りとして其の言葉を唱えながら、教会を出ると、次の呼吸をする間もなく、想念によって、言葉によって、行いによって、吾々の兄弟を打ち摧(くだ)くのである。
 
子供たちよ、“父”(神)は偉大にして麗(うるわ)しい。“彼”が諸君のために建てた計画は完全である。“彼”の創造は完全である。“彼”はその計画のうちに、兄弟が互いに奉仕し合うことを見た。

併しながら、吾々は毎日の生活に於いて、これを自覚しているのであろうか?諸君が此の地上に、諸君の生活の快適のために必要な物資に於いて、兄弟の奉仕によらないで得た物資がたとひ幾らか混(まじ)へていようとも、それは問題ではないのである。斯くの如き奉仕を受けた体験がなくては、諸君は“父”が「子供たちよ、汝ら互いに愛し合い、奉仕し合え」といい給うても、それを理解することができないだろう。

 吾らはすべて“全体”に仕えるための奉仕者である。吾等は宇宙の此の特殊の部分に於いて大なる使命を果すべく此処に在るのである。吾等が地上に於いて為しつつある善の全てはまた、次の“生”の段階において吾等をたすけるのである。

併し、吾等はそれで万事完成であろうか?否、吾等は霊界に於いてもなお全体に奉仕しながら進み行くのである。

そして諸君の前に先ず進み往(ゆ)いた“愛する者”――彼らの一つの願いは生命は永遠であると云う悟りを諸君に持ち来たすことである。そして同時に最早や視ることの出来ない人々に小さき助力と慰めとを持ち帰りたいと云うことである。

 “父”の計画の何と素晴らしきことよ!吾等は静かに坐してそのことに就いて瞑想してみたことが幾度あるだろうか?また“神”について幾度瞑想したであろうか?想念に於いて思い浮かべられたことで何一つ永遠に滅びさるものはないのである。

諸君は“全体”の中に永遠の存在としてあるのである。諸君は“全体”の中から永遠に辷(すべ)り去ることはできないのである。諸君の播いたところの全ては、それが善であるにしても悪であるにしても、その収穫を諸君は刈り取るのである。


 子供たちよ、イエスは地上に於ける人間の役割についての此等偉大なる真理の知識を人類に伝えんがために地上に生誕してきたのである。

 嘗ては地上の人々が霊界の人々と会い、見、そして快談したことが完全に自然的な出来事であった時代があったのである。そして其の時には人間は彼の力を自覚していた。天国の状態が地上に君臨し地上と天国とを隔てる障壁は消え去っていたのである。

その時代の人間は教会もなければ特殊の教義もどんな独断的な信条も、なんの宗派的な宗教の存在の必要もなかったのである。

イエスは人間が彼の兄弟と如何にして調和して生活すべきかを教えるためにきたのである。

彼は嘗て人間に与えられたる恵福(ギフト)であって今は忘れられてしまっている恵福(ギフト)の、あらゆる美しさを表現せんがために来たのである。

イエスは「われひとりのみ此れらの奇蹟を成し得るのである」とは言わなかった。「汝らは吾より大なる業を成さん」と言ったのである。これらの恵福を“父”は天賦の恵福として諸君に与え給うているのである。


 彼が十字架上で死んだのは、彼の説いた人間不滅の真理を証明せんがための目的で、彼の二、三の弟子たちの前に再び帰って来ることができるためであったのである。

この人間生命の不滅の大真理を宣布せんがために、諸君の小さきサークルに於いて、諸君の地上に散在する小さき教会に於いて、イエスをして諸君の指導霊たらしめよ。彼は純粋にして、大なる美を有(も)つ。されば諸君よ、子供たちよ、諸君は尚なすべき大なる使命があるのである。

 諸君は此の偉大なる愛の力を結集して、わき目も振らずひたすらに神に向かい、世界を助けて、神が再び此の地上に此の真理を顕現したまう御業に参加しなければならないのである。まことにもその責任たるや、重大ではあるが、是非遂行しなければならないものである。

諸君は高き宝座に坐する高級霊は地上のことに関与しないと云うことを聴かせられたかも知れない。併し、すべてを創造したまいたる“父”が高き宝座に坐して、自己の創造した宇宙がみづから崩壊しつつあるのを唯、見まもっているだけだと云うようなことが想像できようか?

自己の子供達が阿鼻叫喚(あびきょうかん)のなかに救いを求めているのに“父”が安閑として宝座の上に安楽を貪っていられようか?そこに諸君に対する護りがある、其処に諸君の力がある――地上のそれではなく、光の霊としての護りと力とがあるのである。







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