生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

トップページへ戻る

 

↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓

 

名前
メールアドレス
スレッド名
本文
写真

URL
削除キー 項目の保存


生長の家「今昔物語」・理性篇の再掲示<第四話> (123)
日時:2013年02月22日 (金) 11時27分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇




第四話(通算第330話) 光明思想家とマルキストとの対話(3)



弁証法と観念論<その三>

(『解放への二つの道』P.125−128)



主:

(つづき)さて、「心」が脳髄というラジオ・セットを作ったとしてもいくらそのラジオ・セットが立派でもアナウンサーがおらなくなったら、もう何もものを言わんという事になるわけであります。だからそのアナウンサーが問題なのですよ。

そのアナウンサーが吾々の「霊魂」である。霊魂が全然抜け出してしまったら、脳髄はものを言わんし、ものを考えないということになる。もっとも簡単な例を引くと、脳髄というものは、あのプリズム――三角ガラスみたいなものですね。それに太陽の光線が来ると、それから七色の虹が出てきて、そしていろいろ赤・橙(だいだい)・黄・緑・青・藍・紫というふうに七色に別れて来る。これは太陽の光線そのものではなく、太陽の光線の第二次的発現である。

脳髄から出て来る所謂、精神現象と云うものは、意識の第一次的発現ではなくて、脳髄というプリズムを通しての第二次的発現なのです。そんな第二次的精神現象が宇宙の本源である筈はない。マルキシズムでは精神そのものと精神現象とを混同して立論している。

「心」といっても、「心」という用語には、いろいろの使い方がある。心というものは、脳髄から出て来たものであるから、万物は「こころ」によって発生したと説く「唯心論」は間違いだなどと言ったら、これはもう無茶な話ですよ。

 我々が、唯心論なんていう場合には、そういう精神現象としての「心」を説いているのでもなければ、更に人間の霊魂というような「個別的心」を説いているのでもない、更にそれ以前の普遍的心ですよ。個別的な「心」よりももっと大きい大生命、普遍的な絶対精神というようなものがそれが具象化して、そしてすべてのものになって現れて来たというのですよ。

 最近の物理学が、だんだんと進歩して来て、もう物質というものは分解してしまうとエネルギーに還元してしまう、物質と見えているものはエネルギーの一形式に過ぎないということがわかって来ますと、昔のような唯物論を称(とな)えることはもう既に滑稽(こっけい)になって来たわけです。

 フォイエルバッハが唯物論を説いた頃は、常識的に言ってこの物質というものは、ある一定の形をしている塊みたいに考えられておった。小さいものでも分子とか原子とかいうものであって、何らかの三次元的、縦横厚み的な大きさ、小さいにせよ粒子的なものである。それが微粒子でどんなに小さいにしても、ある大きさを持っておって、それが固まって物質となって出ていると考えたのですけれど、

所が物質の崩壊、核分裂の実験、吾々の知っている手近な例では原子爆弾の実験によって物質というものは、必ずしも粒子ではない、それは唯エネルギーの変形に過ぎないのだという、謂わば汎エネルギー説とでもいうものが、出て来たわけであります。すべてのものはエネルギーの変形である。而も、そのエネルギーが単にただ知性なき力として、出鱈目にどちらへでも勝手に偶然的に動くエネルギーであるかというと、そうではないのであって、ある目的意識というかある志向性を持っているエネルギーだということがわかったのであります。

そのエネルギーの中には内在する一つの構図を持っている。その構図は数学的秩序で成り立っている。すべてのものはエネルギーの変形であるが、そのエネルギーは、内部に或る一定の構図をもっている。例えば、原子なら原子としてそのエネルギーが形を現す場合には原子核というものが真中にあって、その周囲に電子がこう回転しているというような構図がある。

その構図が素粒子と素粒子との間にある真空の中に既にあって素粒子と素粒子との存在の位置をささえている。この真空の中にある知性――これが宇宙本源のエネルギーであって、万物をそのあるべき姿に支えている力であるわけなんですよ。

 これは仏教では「真空妙有」という。複雑なる内部構図の設計が真空の中にある知性の内にある。これを理念という。万物は理念の内部圧力によって流動発展して行くのであってマルキシズムが万物を流動発展の過程として捉えたのはよいが、何故それが流動発展するかの説明がマルキシズムではつかない。その説明がつくのが生長の家の實相哲学だということになるのです。






Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板